先週、9月2日にYouTubeで「【三人寄れば文殊の智慧?】イチから法話を作ってみよう!」という動画を配信させていただきました!
3人で法話を作るという新たな試みでしたが、そこで話し合った法話を、改めて法話の動画として配信させていただきました。
今回の記事は、ここでお話した法話の原稿になります。
Contents
起:「懺悔について」
本日は、「洗濯場のお菓子」と題して、仏教の懺悔についてお話しさせていただきます。
一般的には「懺悔(ざんげ)」と濁って発音すると思いますが、仏教では「懺悔(さんげ)」と言います。
他の宗教でも行われる「懺悔」ですが、仏教の「懺悔」とはどのようなものなのでしょうか?
承:「洗濯場のお菓子」
私は、今から10年前に福井県にある曹洞宗大本山永平寺で修行を開始しました。
それまでの大学生活は自由奔放に暮らしていた私ですから、修行を始めた当初は生活に慣れるまで本当に辛く厳しい毎日でした。
中でも辛かったのが、寒さと空腹です。
防寒着や暖房機器が十分とは言えない修行道場では、岩手出身の私でも身に応える寒さでした。
食事は、朝はお粥、昼は1汁1菜、夕飯は1汁2菜と学生時代に比べて質素なものです。
そのためか、これまでの人生で感じたことの無いほどの空腹感、飢餓感を覚えました。
修行生活では、普段の食事の他に数日に1回、行茶と言って少しだけお菓子を食べられる時間がありました。
本来であれば幸せな時間なのですが、お菓子を前に私の目は血走っています。
少しのお菓子で満足できるはずもないのですが、この数日に1回のお菓子が楽しみでなんとか日々の修行生活を耐えていました。
そんな中、1人の修行仲間が仲のいい先輩修行僧からお菓子を隠れてもらったと言って、一緒に洗濯当番をしていた私にもこっそり分けてくれました。
内心、嬉しくてたまらなくて、今にも食べたい気持ちだったのですが、他の仲間が頑張っているところで申し訳ないと思い、食べることを躊躇しました。
しかし、そんな思いはあっという間に崩れ去ります。
その仲間が、私の前から立ち去った瞬間に私はお菓子の袋を開けて食べていました。
自分の食欲と感情が抑えられなかったのです。
一瞬の美味しさと満足感の後に、私に襲いかかってきたのは激しい後悔と悲しみでした。
今この瞬間にも同じく空腹に耐えている仲間がいるのにズルをしてしまった。
そんな思いが駆け巡りました。
私は、それまで食事やお菓子に対して欲深い方ではなく、修行道場でもなんとか耐えられるだろうと思っていたのですが、いざ修行をしてみると、少しでも自分が楽をしたい、お菓子1つでも他の人よりも多く食べたいという深い欲望があることに気づきました。
転:「懺悔文」
華厳経と呼ばれるお経の中に、懺悔文という短いお唱えごとがあります。
それは次のようなものです。
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
「私のこれまでの悪い行いは、全て、貪り、怒り、愚かさの三つの煩悩によるものです。
煩悩は常に私という人間に付き纏っているもので、それが身と口と心を通して悪い行いを生み出していきます。
その全てを私は懺悔して、正しい方向に心を向けていきます。」
私たちは、普段の生活で、もっとお金が欲しいとか、もっと美味しいものが食べたいなどの「貪り」。
それがまた思い通りにならないことや、他者に向けてあらわれる「瞋り(怒り)」。
そして、物事の真実を見失い、誤った考え方をしてしまう「愚かさ」。
この「貪り・怒り・愚かさ」の3つが煩悩の根本です。
この煩悩から、自分の体や心に悪い行いが生まれています。
仏教で説くところの懺悔とは、決して謝ることではありません。
まずは、自分自身に煩悩が湧いていくることを認め、それを悔い改めて正しく生きることを言います。
結:「自分と煩悩」
修行に行くまで欲が少ない人間だと思っていましたが、それは違いました。
修行時代に痛感させられたのは、環境次第でお菓子一つでも我慢できない弱さです。
しかし、それに気づいたことで、私の本当の修行が始まったようにも思います。
これはお寺での修行生活だけでなく、普段の社会生活の中でも気づくこともできます。
日々の生活で、自分の心がどの方向を向いているか。
気づいているようで気づいていない欲があると知ることが、仏教における懺悔の心のなのです。