お蔵入り法話を引っ張り出してみた

記事の内容が定まらずグーグルドライブを漁っていたら、数年前に書いて、
結局一度も話すことのなかった法話の原稿が出てきました。

法話のテーマは「無常」

読んでみると、酒を飲んで書いたのではないかというほど調子に乗った文面で、
もはや法話と呼べるかすらもあやしいものでした。

思わずファイルを消去してしまいたくなりました。

しかし、そこを何とか堪え、この法話(?)を活かす方法を考えました。

それは、「ダメな法話の例」としてご紹介し、反面教師のような役割を狙うというもの。

今回の記事は、過去の自分が書いた「黒歴史」とも呼べるほどの痛々しい内容の法話(?)をご紹介し、

そこに自分自身で講評を加えるという「ひとり相撲システム」でお送りしてまいります。

※ 無駄に長い文章が続きます。すべてを丁寧に読まれる方はそんなにいないとは思いますが、時間をなるべく無駄にしたくないという方は「講評(セルフ)」まで飛ばされることをお勧めいたします。

Contents

お蔵入り法話、その①

本日は、健康のお話からさせていただきます。

初めに申しておきますと、いささかお下品な内容が含まれますので、
聞くに耐えないと思われてしまう方もいらっしゃるかもしれません。

中には「あらやだ!聞いていられないわ!」と、
出ていきたくなる人もいらっしゃるかもしれません。

基本的に、涙ですとか、ゲップですとか、体から出てくるものは、こらえない方が身体にも心にもいいものです。

しかしながら、聞き苦しい話に、皆さまの体が出ていきたくなっても、そこはグッとこらえて欲しいところです。

初めにお話いたしますのは、最近私の身に起きた出来事です。

人には節度、なんて言葉がございますが、私は生来、ついついやり過ぎてしまう、
度を越えてしまうということが多くあります。

過ぎる、というのは大抵の場合、よくない結果を生みます。

私の体型をご覧いただければわかる通り、暴飲、暴食に始まり、
ひとたびゲームやマンガに熱中すれば、夜明かしをしてしまうこともしばしば。

そうした不摂生のツケが、今こうしてメタボリックシンドロウムという形をとりまして、
私を苛んでおるわけでございます。

あ、そうそう。勉強だけはやり過ぎたことはないですね()

そこだけはほどほどです。

まあ、そうした例外もありますが、実際に何事もやり過ぎはよくないものです。

そんな、「やり過ぎ」による失敗がつい先日もありました。

実はですね、私、いよいよもって年貢の納め時を実感いたしまして、不摂生に終止符を打ち、
このメタボリックシンドロウムのボデーを何とかいたしましょう、と動き出しました。

食事のカロリーや、バランス、野菜の分量などに気を遣い、ささやかですが運動も始めました。

特定保健用食品こと、トクホも積極的に購入して、いよいよダイエットの大海原へと乗り出したわけです。

しかし、落とし穴は思わぬところに潜んでおりました。

ダイエットを始めて1週間もしないうちに、ひどい便秘になってしまったんです。

さらに、おなかにガスが溜まって動けなくなってしまうくらいの苦しみを味わいました。

これはおかしいぞ、と。

水分、ビタミン、ミネラル、食物繊維…。

お腹にいいものばかりをとっているはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

そう思い、自分の食べたものの何が原因だったのか、インターネットで調べてみたら、
これじゃないか!と、思い当たるものがありました。

それが先に申しあげた、トクホ、特定保健用食品だったんです。

ダイエットを志して以来、私はなるべくトクホのドリンクを飲むようにしておりました。

脂肪の燃焼を助けるとか、食後の血糖値上昇を抑えるとか、いろいろな効用がありますが、
その中で、私がしばしば口にしていたドリンクの成分表示を見てみますと、
そこには食物繊維、とありました。

そう、恐らくですが、私の便秘の原因はこの食物繊維の取りすぎだったんです。

意外ですよね、私もそうでした。

しかし、インターネットを見たところ、食物繊維の種類によっては過剰摂取が腸内にガスを発生させ、
お腹が張ることがある、と書いてあったんです。

その後、お腹のマッサージや食物繊維摂取を控えることで、事なきを得ました。

たとえ、良い、とされているものでも、やりすぎはいけないということです。

お蔵入り法話、その②

そして私が、思い通りにならない自分自身の便通になやまされ、
トイレに腰掛け、ウンウンと唸りながら考えていたことがあります。

それは、人の生き死にです。

なんで、トイレをしながらそんなこと思うんだ、と感じる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、よくよく考えてみると実は、トイレと生き死にってまったくの無関係ではありません。

私が何とかひねり出そうとしていたモノ、すなわち大便ですが、大便は死の固まりです。

私たちが口にしたもののなれの果てなわけですから、
お肉にしてもお野菜にしても、それらいただいたものが出てきている。

しかし、実はそれだけではないんですね。

水分は除くとしても、大便の成分は7割以上が食べたものの残りかす以外なんです。

大便の成分の1つはビフィズス菌とか、大腸菌とか、腸内細菌の死骸です。

そしてもう1つは、私たちの腸の壁です。

私たちが食べたものから栄養を吸収してくれる腸の細胞の死骸が排泄されているわけです。

そうした様々な死の固まり、それが大便なんです。

私たちの周りには実に多くの死があります。

一度、この世に生まれたものは、その後、絶えず変化を続け、そしていずれは役目を終えてなくなってしまう。

仏教ではこの真理を、常なるものが無いと書いて、無常、諸行無常と言います。

私が高校生の時に、日本の古典を学んだ際にこの無常という言葉が出てきました。

実は、その時には、「無常=死」と解釈すると教わりました。たとえばこんな風に使うわけです。

貴族社会で圧倒的な権力を持った人が、流行病であっけなく亡くなってしまった時に、
「ひとたび無常がやってきたなら、貴族も平民も関係ない、この世はなんと儚いものよ。」こういった具合です。

ですから、私はそれ以来、無常と聞くと、なんとなく嫌なマイナスイメージを抱いておりました。

お蔵入り法話、その③

そもそも私は死ぬ、ということが幼い時から本当に恐ろしいと思っていました。

もう怖くて怖くて仕方がありませんでした。

死ぬことを恐れたことがない、という人は滅多にいないんじゃないかなあ、と思いますが、
私は特にその恐れが強かったんじゃないかと思います。

初めて死ぬと言うことを意識したのは、曾祖母が亡くなった時です。

まだ物心がつくかつかないか、くらいの時でしたが、
その時は「ふーん、もう会えないのかー」程度の認識だったように記憶しています。

それが、時が経って小学生になると、自我が強まり、それに伴って死がおそろしくなります。

死んで自分の意識が消えてなくなってしまう、という想像できない結末に、ただひたすら怯えていました。

とはいえ四六時中怯えているわけでもありません、ひとしきり怯えたら、いつしかその恐怖も薄れ、
友達と遊んだり、ご飯を食べたりしているうちに忘れてしまいます。

しかし、忘れたからといって、いつか死んでしまうという事実がなくなるわけではありません。

ふとした拍子に、また思い出して恐ろしさに震えるということが度々ありました。

今でも覚えているのは、私の幼い頃、師匠である父が何の気なしに冗談で言った一言です。

「俺はな。大学生の時に『20年打ち』のツボを突かれたから、あと十年くらいで血を吐いて死ぬんだぞ」と。

北斗の拳でも読んだんですかね。

当時の私は子どもですし、それはもう信じました。

「え!?お父さんが死んじゃうなんて、そんなのいやだ!なんとか解除のツボを探そう!」
そんな風に反応した気がします。

どうせ言った本人はすっかり忘れていることでしょうが、本当に死んでほしくないと思いました。

まあ、その時のみそぎではないですが、純真な子供の心を傷つけた罰として、
これからもなるべく長生きしてもらって、馬車馬のように働いてほしいと思います。

……余計な話になってしまいました。

ともかく、子どもの頃から死を恐れていた私は、
その恐怖から逃れるすべもないまま、成長し、大人になります。

そして死ぬことへの恐れが、そのまま無常という真理に対する嫌悪感になりました。

皆さんはドラゴンボールというマンガをご存知ですか。

「オッス、おら悟空」で有名なベストセラーです。

その漫画に登場するベジータ、フリーザという敵役はドラゴンボールの不思議な力で、
不老不死になろうと目論みますが、私にはその気持ちがよくわかりました。

また古くは、中国の皇帝が不老不死の秘薬を求めたなんて事実もあります。

さらに言えば、現代においても、不治の病に侵された人が亡くなる直前に自分の脳みそを冷凍保存して、
科学技術の発展した未来に生き返ろうとしたなんて話もあります。

私と同じように、とにかく、何とかして死から逃れたいと考えた人はいっぱいいたわけです。

しかしながら、人がいずれは死んでしまうという有り様が変わることはありません。

そう考えると、いくら一生懸命に生きたところでどこにも逃げ場がないように思え、
私はいつしか無気力になっていきました。

頑張ったところで無駄だとか、今楽しいことだけやってればいいや、
というような、どうしようもない考え方が強くなっていきました。

しかし、そんな考え方では、当然のことながら人生を楽しめるわけもありません。

無気力はさらなる無気力を呼び、気づけば、私は自分のことを、
どうしようもない世の中に生きているどうしようもない人間、
という風に考えてしまうようになりました。

無常から目を背け、自分をごまかしながらなんとなく日々を送っているそんな状態が長く続いていました。

お蔵入り法話、その④

しかし、そんな考え方が変わるきっかけがとうとう私にも訪れました。

それは無常をあつかった仏教の講義でした。

そこで無常は、死とか儚いという、これまで私が抱いてきたイメージ通りのものではなく、
移り変わってゆく世界の姿そのものであると説かれました。

そして私にとって決定的だったのは、講師の先生が、
「無常というと、死とか、老いとか、悪い方にとらえられがちだが、実際の姿は違う。
この世が無常であるからこそ、人は成長もするし、新しい命の誕生に喜びを感じることさえあるんだ」
と、教えてくださったことでした。

結局、私は無常という真理に対して、はじめに抱いてしまった嫌悪感にいつまでも囚われていた、と気付いたのです。

仏教の学びを深めていくにつれ、無常の中に生き、
無常の中に生かされる人間のあり方を少しずつ受け入れていけるようになりました。

はじめに排泄物の話をしましたが、私たちの命は動物や植物、細菌、
普段私たちが自分の身体の一部とさえ認識していない腸壁など、
多くの無常なるものによって支えられています。

もちろん無常という真理は、時に残酷とも思えるほどの現実を私たちに突きつけます。

でもその一方で、移り変わる世界だからこそ得られる喜びを与えてくれることもあるのです。

楽しかったことが終わりを迎え、時に愛する人と別れて、
「ああ……無常……」と悲嘆に暮れてしまうこともあれば、
美しい朝焼けや新たな出会いに、「ああ!無常!」と感動できることもある、
それは素晴らしい人間の営みだと言えるのではないでしょうか。

思えば、極端に自らの死を恐れていた私は、無常の真理の一側面しか見ていなかったのです。

絶えず変化を続けるこの世界の中で、自らも無常であると自覚し、その変化を受け入れていく。

そこには、当然死も含まれますが、それだけでない真実の営みに気付くこともできるでしょう。

そうなったとき、無常も死も恐れる対象ではなくなっていくのかもしれません。

それでは、以上で法話を終えさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

講評(セルフ)

・ところどころ無理に笑いを取りに行っている感じが痛々しい。

・「楽しませよう>法を伝えよう」になってしまっていて、内容が上滑りしている。
しかも面白く話せるかは疑問。

・まとめが強引かつ曖昧。

・全体的に冗長。起承転結の「承」が長すぎる。法話は例話を話すためのものではない。

・諸行無常を肯定的に捉えられるようになったきっかけが
「仏教の講義で学んだから」ではリアリティがなさすぎる。
 自分自身は事実と感じているのかもしれないが、そう思えるようになった理由は他にもあるのではないか。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

今回は世にも恥ずかしいお蔵入り法話を、人前でお話をされる皆様の悪い見本とするべく、ご紹介いたしました。

私はよく、回りくどい伝え方をしてしまうという悪いクセを持っているのですが、
特にこの法話ではそれが顕著に表れてしまった、と思います。

それでは、今回はこの辺で。

お目汚し失礼いたしました。

 

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