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久しぶりにやってまいりました、食コラム。
私は曹洞宗の僧侶として食の教えに思い入れがあり、このブログでは肉食のことについても色々書いてきました。
そしてこの食コラムは、肉食に関係なく「食」に関して感じたことや気になったことを書いている、短編集みたいなものです。
今回はコンビニ弁当を軽んじてしまう風潮について考えます。
Contents
コンビニ弁当と私
さて、平成3年生まれの私のここまでの人生は、コンビニ業界の発展と共にあったと言ってもいいかもしれません。
小学生の頃は、コンビニといえばカルビ弁当一択、お弁当は茶色の割合が多いほど良いと思っていました。
それから私が中学生の頃でしょうか、徐々にホットスナックと呼ばれる店舗で揚げたチキンなどが登場します。
現在はローソンという巨大な傘に収まってしまった北関東ローカルチェーン、「セーブオン」のスパイシーチキンは、高校受験の思い出の味です。
高校生の頃には安くて温かくてヘルシーなセブンイレブンのおでんの白滝をすすりました。
大学生の時、現場系の日雇いのアルバイトの休憩では、コンビニのおにぎりとカップ麺というカロリー特化型の食事に支えられました。
永平寺での修行中、初めて実家に帰る機会があったとき、まず初めに買った食べ物はファミリーマートのスパイシーチキンでした。
コンビニの明かりは、どんな時も私を温かく迎えてくれたのです。
と、まあかなりオーバーに書いてはいますが、私の食生活がコンビニエンスストアによってかなり支えられてきたことは間違いありません。
そして、これはきっと私に限った話ではないはずです。
コンビニ弁当が軽んじられる理由
そのように、現代はほとんどの人がコンビニのお弁当やお惣菜を口にしている時代です。
ところが何故でしょうか、コンビニの食べ物が軽んじられてしまうのは。
「コンビニ弁当ばかり食べる」という表現は不摂生で乱れた食生活の代名詞のように使われ、どこか不幸さすら象徴する場合もあります。
この10年ほどでコンビニチェーンも競争が激しくなり、それぞれに特色を出しながら、味も非常に良くなっているのに、どこか軽んじられてしまう、その理由について、私なりに考えてみました。
食品添加物と栄養バランス
コンビニ弁当で懸念されるのは、保存料や着色料、人工調味料などの食品添加物の存在です。
製造や販売の性質上、入らざるをえないこれらの添加物によって、価格や品質、供給が安定しているのも事実ですが、健康には代えられません。
当然そうした世間の声に応えるように、企業努力はなされているのでしょうが、ここは非常に難しいところです。
またコンビニ弁当というと、やはり少数精鋭のおかずとご飯、もしくは丼ものというバランスよりパンチ力重視のものの人気が強いイメージがあります。
今はサラダやスープなど、バランスを整えられるものありますが、お腹や財布のことを考えると、学生時代にそれを意識して食べたというと難しかったような気がします。
また、濃いめでわかりやすい味付けも、健康を考えた時には良いとは言えないでしょう。
使い捨て容器
そして、容器や割り箸など、食器が使い捨てであることも、大きく影響しているのではないでしょうか。
コンビニ弁当を重宝する理由が、食器や調理器具の片付けが面倒だから、という方はきっと少なくないはずです。
(私は過去に、料理は好きだけど片付けが嫌いだから紙皿と割り箸で食べていたという強者に会ったことがあります。)
この食器が割れ物か、プラスチックか、使い捨てかという違いに、日本人は特に敏感であるように私は感じます。
食べて、お箸も器も袋に入れて捨てておしまい、というこの手軽さが、便利であると同時に食事そのものの重みに関わってきているのではないかと、私は感じます
大量生産
最後に、工業技術の発展によって大量生産され、大量に流通し、大量に廃棄されるという形にも、その原因の一端があるような気がします。
作っているのが機械で、自分のために作られたわけでもないという感覚が、どこかで消費者の食べることの責任を軽くしてしまっているのかもかもしれません。
と、いうように、コンビニ弁当が軽んじられてしまう理由には、
①添加物と栄養バランス
②使い捨て容器
③大量生産
という要因が関係しているのではないか、というのが私の考えです。
コンビニ弁当は軽いのか?
では、ここであらためて曹洞宗の食の教えから、コンビニ弁当について考えてみましょう。
食事の心構えを説いた「五観の偈」に
「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る(食事の労力の計り知れなさと、やってきた道のりの果てしなさを推し量る)」
という一節があります。
以前、智照さんが食べ物の「功の多少」や「彼の来処」の見えなさについて記事を書いていました。
手軽に食べて、片付けも簡単なコンビニ弁当も、生産をするには当然食材を作った人がいて、生産する仕組みや機械を作った人がいて、企画を立ち上げた人もいるでしょう。
しかし、その「功の多少」や「彼の来処」を、陳列されたお弁当のラベルから読み取ることはできません。
そして、それが抜け落ちたうえで、添加物や味付けという、マイナス面にスポットが当たってしまいます。
さらには、自分が食べた後、あるいはそれを残してしまった後の責任も袋に入れて捨ててしまえば残りません。
「彼の来処」どころか「彼の行先」も見えない状況が、手軽さを生み、その手軽さが食事としての軽さになってしまっているのではないでしょうか。
付き合い方が重要
当然のことながら、コンビニ弁当は高級レストランや手料理と同じ「食事」であり、それらと比べて軽いもの、価値の低いものではありません。
しかし、手軽さゆえに食べ方や扱い方が疎かになったり、栄養バランスなどから、低いところに位置付けられてしまいやすいという現実があります。
そんな中、私が知っているピラティスのインストラクターさんが、コンビニのご飯で健康を意識した食事をプロデュースするという取組をされているのを目にし、結局、こちらの受け止め方・付き合い方が重要であることに、改めて気付かされました。
どんな食べ物であっても、極端に偏れば体の不調に繋がります。
そして、使い捨ての容器だって丁寧な食べ方で、洗ってから分別するくらいのことをすれば、かなり認識も変わるでしょう。
これはコンビニ弁当に限らず、冷凍食品やスーパーのお惣菜、ファストフード全般にも言えることです。
結局のところ、どんなものだろうと、作られた食事そのものに価値の高低や良し悪しはなく、私たちの受け止め方や付き合い方がそれらを生み出してしまっているのです。
精進料理教室などの場では時々「コンビニ弁当とは違って〜」という話になる場合もありますが、曹洞宗の食の教えをお伝えするからには、食事の良し悪しではなく、そうした食事との向き合い方をお伝えしていきたいと、改めて思いました。