「功の多少」と「彼の来処」の見えづらさ~五観の偈より

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曹洞宗の教えの中で「食事」はとても大切な意味を持ちます。

禅活ブログでは西田さんが「五観の偈」をもとに、食事に関するテーマを記事にしています。

【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える

特にこちらの記事で、言及されていたように……

今の世の中では、五観の偈、その第一に語られる「功の多少」「彼の来処」がとても見えづらくなっていると思います。

「功の多少」とは、簡単に言えば、目の前の食事にどれほどの人の苦労や思いが込められているかということ。

そして「彼の来処」とは、その食事がどのようにして自分のもとに来たかということ。

私たちが普段何気なく口にする様々な食べもの。

それが自分のところに届くまでの過程を、生産・流通・販売・調理などと、ひと口にまとめてしまうのは簡単なことです。

しかし、食べものには計り知れないほどの手間と苦労、思いが込められています。

さらに想像を巡らせれば、食べものひとつひとつが自然の営みの中で育まれ、まさしく奇跡的なご縁によって私たちの手元にもたらされていることも分かります。

その一方で、私は現代の社会が、こうした「食べもののありがたみ」をなかなか感じ取りづらいものになっているのではないかと思います。

今回は、なぜ「食べ物のありがたみ」が認識しづらくなっているのかというところから、あらためて食べものとの向き合い方を考えていきたいと思います。

Contents

万人共通ではない「いただきます」

そもそも今回、このような記事を書きたいと思い至ったのは、インターネットで「いただきます」「ごちそうさま」に賛否の声がある、という話を聞いたからです。

日本における、食前食後の「いただきます」「ごちそうさま」は、家庭の普段の食事の中で食べものに対する日本人の向き合い方を表すとても良い風習だと、私は思っています。

その一方で、例えば食前食後に「いただきます」「ごちそうさま」と声を合わせること、あるいは学校でその際に手を合わせるということは「宗教儀礼の強要」ではないか、という否定的な意見もあるそうです。

食事に対して感謝を示すことが宗教儀礼にあたるのだろうか?

確かに手を合わせるという行いは仏教の合掌ですから、他の宗教を信ずる人にとっては強要と捉えられて、一種の苦痛をもたらすこともあるのかもしれません。

また手を合わせるのは亡くなった方に向けるためのものだから、食事の際にするのは不自然と感じる方もいるそうです。

あるいは、「お金を払っているのだから、客が感謝を示す必要はない。むしろ店が客に感謝すべきだ」という意見もありました。

そのように感じてしまう人にしてみれば、必要もないのに「いただきます」「ごちそうさま」を言うことは、ある種の欺瞞であったり、偽善的行為のように思えてしまうのかもしれません。

私個人は、宗教も道徳も風習も様々なものがあるし、寛容に受け入れていけばいいじゃん!と、思ってしまうのですが、

人にはそれぞれ考え方があります。

議論の是非はともかくとして、私はこの「いただきます論争」を知って、なんとなく食べものへの感謝の念が薄れてきているのではないかという思いを抱くに至りました。

「お金」で量る時代

食べものが自分のもとにもたらされるということ。

そこには計り知れない奇跡的なご縁がある、と書きました。

もしこうしたご縁や、そこに対する感謝が薄れてきているとするなら、その背景には何があるのでしょうか。

 

ひとつ思い浮かんだのは、「お金」です。

私たちは普段、「お金」という市場経済の尺度によって、モノの価値を測ります。

実際に、私たちの身の回りにあるもので「値段」のついていないものはほとんどありません。

あれは高いからいいものだ、これは安いからそんなに良くない。

ありとあらゆるものに値段が付けられてしまう世の中。

そこに生きる私たちは、ほとんど全てのモノの価値をお金で量ろうとしてしまうクセのようなものが身に付いてしまっているのではないでしょうか。

行くところまでいけば、この人はお金になる人だから付き合おうとか、お金にならない人だからそれなりの付き合いにしておこうとか、人間関係すらお金で量るようになってしまうかもしれません。

さきほど挙げた、「お金を払っているのだから、客が感謝を示す必要はない。むしろ店が客に感謝すべきだ」という意見は、まさに人間関係をお金で量ってしまっている例のように思えます。

食事を提供するお店と、利用するお客という関係。

これをお金だけで見てしまうと、店と客という関係性にしか目がいかなくなります。

しかし、提供された食べものと、提供してくれたお店、それをいただく人をつなぐ目に見えないご縁は、お金で表すことのできないものです。

 

言うまでもなく、値段がつかない=価値がない、ではありません

それどころか、目に見えず値段のつけられないものこそ、人にとって大切なものであるということが多いのではないでしょうか。

また、お金という尺度で食べものを見ようとすると、毎日必要となる分、どうしても安さに目が行ってしまいます。

もしも、良いものを安く提供したい、という企業努力の結果として、

「食べものは安くてもいい」という考え方が広まり、

食べものに対する感謝の念が薄れているのだとしたら、それはとても悲しいことです。

「お金」と「企業努力」

とはいえ、お金によって量るということが、まったく悪いというわけでもないと思います。

時に、数字を知ることが食べ物に込められた思いを推し量ることにつながることもあります。

たとえば、ロングセラーの駄菓子「うまい棒」

一本10円という低価格で、子どものおやつとして不動の人気を誇り続ける「うまい棒」。

よく考えてみると、うまい棒は発売された40年前から同じ値段です。

言うまでもなく、その間に物価は上昇しています。

それにもかかわらず、企業努力を重ね10円という価格を維持し続ける背景には、

「子どもが自分のおこづかいを使って買うものだから」という企業の思いがあるそうです。

興味を持ってインターネットで調べたところ、「うまい棒 たこやき味」の原価はなんと……

 

約9円(!)だそうです。

 

驚愕の原価率90%。

数字を見るだけで、買ってくれる人のことを考えながら、なんとかいいものを提供しようという企業の思いが伝わってきませんか?

目に見えない努力の数々

最近、お気に入りのテレビ番組があります。

それはTBSのジョブチューンという番組。

その人気企画に、コンビニの商品や外食チェーンの新メニュー、料理研究家のレシピなどを、一流と呼ばれる料理人たちが審査し、合否を問うというものがあります。

それを見ていると、普段コンビニなどで何気なく手にする一つの商品に、どれだけの思いが込められているかが伝わってきます。

参加する企業の担当者は、料理人たちの審査に一喜一憂し、時には涙さえ流します。

「仕入れから、調理方法まで厳選して、この価格を実現しました!」

「うちを選んでくれたお客様をがっかりさせたくないという一心でした」

といった、普段は触れることのない商品開発者の生の声に加え、審査する料理人たちも、

「真剣にお客様のことを考えて作ったということが伝わりました」

「○○さんの料理に対する情熱がこの味を生んでいる」

と、商品開発の努力を称え、不合格であっても暖かいアドバイスを送ります。

 

この番組を見ていると、コンビニなどで目にする商品が、

企業の利益に貢献する優れた商材としてのみ作られたわけではない、という風に思えます。

普段、気軽に手に取り、購入することのできるものが、これだけの思いによって作り上げられているということを目の当たりにすると、

世の中がたくさんの善意によって成り立っているということまで再確認できたような気持ちになるのです。

込められた思いは「対価」を越える

一つには、こう多少たしょうはかり、来処はか

どんな食べものも、まず自然の働きがあって、そこにたくさんの人がかかわり、努力があって今私たちの手元に届いています。

普段そうとは意識しなくても、私たちが食べものをいただく際に行われている工夫や努力もあります。

居酒屋で出てきた冷たいグラスは、飲み物を美味しく飲むためにわざわざ「冷やしてくれている」もの。

トンカツの「ごはん・キャベツ・味噌汁お替り自由」は、「トンカツでおなかいっぱいになってもらいたい」という願いがあってのもの。

食べもののありがたみは、お金という「対価」に左右されません。

食べものに込められた思いに気付き、そのご縁に思いを巡らせることができたとき、食べものとの向き合い方は自然と変わってくるのではないでしょうか。

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