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前回から新シリーズに突入した【肉を食べるということ】。
今シリーズでは、曹洞宗はもちろん、宗派を問わず親しまれる食前のお唱えごと「五観の偈」を通して、肉食や食べることそのものを見直していきたいと思います。
今回はその最初の一文、
一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る
について考えてみます。
Contents
五観の偈=食への感謝?
「五観の偈」のは、実に様々な書籍やHPで取り上げられ、様々な翻訳・意訳がされています。
そこで時々見かけるのが、「五観の偈」を「食への感謝」として位置付けているものです。
もちろん、食べるということに対して感謝はして然るべきです。
特に今回お話しする一段目は、家庭の食卓にも結びつけやすい内容なので、この感謝という表現がよく馴染みます。
しかしここではあえて、「感謝」という感情的な視点ではなく、もっと客観的な視点から「五観の偈」を捉えてみたいと思います。
「五観の偈」は食に対する心持ちに止まらず、食事を前にした自分の在り様を見つめるものであると、私は思うからです。
そしてそうすることで、「五観の偈」がより実生活と結びついた、ある意味で生々しいものになっていくのです。
功の多少
まずは前半部分、
功の多少を計り
をみていきましょう。
「功」というのは、成果や結果という意味もありますが、簡単に言えば「働き」のことです。
「多少」は、「どれほどの」という意味があるようです。
「計」は、時間や数量などを「数える」というような意味があります。
つまり直訳してしまうと、
この食事にかけられた働きはどれほどかを数える
というような意味になります。
どこまでが「功」?
では、食事かけられた「働き」とは、「功」とはどこまでのことを言うのでしょうか?
まず一番想像しやすいのが、「調理」です。
材料の下ごしらえをし、火を通したり味付けをして、盛り付ける。
これは計るのに難くない「功」ですね。
ではその材料はどうやって手に入れたでしょうか?
買うにしろ育てるにしろ、獲る(採る)にしろ、調理の場まで届けるための「功」が必要になります。
さらには販売に至るには?
そのように考えていくとこの時点で、流通や飼育、栽培など、「計る」と言いつつも、想像しきれないほどの「功」が、そこにはあるのです。
彼の来処を量る
続いて後半部分
彼の来処を量る
を見てみましょう。
「彼」というのは目の前の食事のことで、「来処」は来たところ、要するに「どこから来たか」という意味と考えて良いでしょう。
そして「量る」というのは、時間や数を調べる「計る」に対して、重さや容積といった、見ただけでは把握できないものを計算したり見当をつけることをいいます。
つまり、この後半部分は
その食事がどのようにしてここへ来たのかを推し量る
といった意味になるわけです。
彼の来所が見えない時代
ここまでご覧になって「はいはい、なるほどね」と思われたそこのあなた。
こちらの画像をご覧ください。
これ、何の花だと思いますか?
正解はこちら
オクラです。
では、この植物はなんだと思いますか?
正解は、
胡麻なんです。
私たち現代人は、実は様々な過程をすっ飛ばしてスーパーや商店で食品と出会います。
ドラゴンボールで言えば、いきなりセル編の悟飯を見ているようなものです。(わかりづらい)
中でも肉は、その最たるものでしょう。
牛や豚や鳥が、肉としてパックに詰められるまでにかかる、様々な作業やそこにかけられる思いを知る由もなく、肉として出会います。
過去に触れたように、食肉加工は差別されてきた歴史もあるため、なかなかその様子を目の当たりにすることはできません。
そして今では、肉だけでなく野菜や果物まで、その来処を見ることができなくなっているのです。
「計り知れなさ」を知る
では、食事の来処が見える自給自足の生活が理想で、現代人の暮らしは悪いものか、というとそうではないと思います。
なぜなら、そもそも「功の多少」も「彼の来処」も、到底全てを計り知れるものではないからです。
ここで重要になるのが、「全てのものは関わり合って起こる」という、仏教の縁起の視点です。
「調理」と一言に言ってしまえば、その「功」は実に単純なものです。
ところがそれを分析してみれば、食材や調味料の一つ一つに、それを育てたり製造する人が関わっていて、当然そこには道具や、肥料や飼料、も必要になるでしょう。
そして調理器具にしてもそれを作った人、その素材を作った人がいます。
そしてそこに携わった一人一人が、食事をして生きています。
さらに運搬や販売にも目を移してみたらどうでしょう?
この、目に見える範囲、想像の範疇を遥かに超えた計り知れない縁起の連続こそが、「功の多少」であり、「彼の来処」なのではないでしょうか。
ご縁をいただく
前シリーズでお話しした通り、曹洞宗では人間はもちろん、動植物から鉱物・生成物にいたるまで、全てを「仏様の命」として捉えます。
それを踏まえると
功の多少を計り、彼の来処を量る
というのは、とても想像しきれない、計り知れない程の仏様の命とのご縁をいただくということなのです。
この「計り知れない」という前提が、私は重要だと思っています。
そして、その計り知れないご縁をいただき、それによって生きていると気づくことで、「生かされる自分」の在り様が見えてくるのです。
そんな縁起の視点に立って、今からしようとしている「食事」という行為の重大さが、この一文目で語られているのではないでしょうか。
そしてそこに、食べる責任とも言える「仏教徒として生きる覚悟」が、見えてくるのです。
この姿勢を踏まえて、次回「二つには、己が徳行の、全欠を忖って供に応ず。」を考察します。