「蜘蛛の糸」を仏教的に深読みしてみた

先日SNS上でのやりとりで、一生懸命修行しよう!と思うことも煩悩にならないのか?
という話になりました。

私は、修行をしようという心が芽生えるのは煩悩ではないけれど、
自分さえ修行できれば周りはどうでもいい!というのは少し問題だよな、と思っていました。

その例えとして芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」を思い出したとき、
このお話にはとても重要なメッセージがあることに気づきました。

ということで今回は「鶴の恩返し」「キングボンビー」以来の、
【仏教的に深読みしてみた】シリーズの「蜘蛛の糸」編です!

あらすじ

「蜘蛛の糸」は、芥川龍之介によって1918年に書かれた児童向け小説です。

もう100年以上前の作品であることに驚きですが、
私も小学校の学芸会で劇をやった記憶があるので、
おそらく現代でも子どもたちに親しまれていることでしょう。

物語のあらすじはこんな感じ。

①お釈迦様が極楽の池から地獄の様子を覗くと、血の池地獄で苦しむカンダタという男が目に留まる。

②カンダタは殺しや放火もはたらいた泥棒で、生前の悪事で地獄にいる。

③悪行三昧のカンダタでも、生前に一度蜘蛛を踏み潰すのを止まったことがあり、お釈迦様はそれを覚えていた。

④お釈迦様は極楽のスーパー蜘蛛の特別な糸を地獄に向けて垂らし、カンダタを助けようとする

⑤カンダタはそれをつかんで登るが、他の人も登り始めたとき、「この蜘蛛の糸はおれのだ!」と叫ぶ。

⑥その瞬間に蜘蛛の糸が切れ、カンダタはラストチャンスを逃す。

と、このようなお話です。

児童向けの小説が「お釈迦様は〜」で始まる時点で、時代的な仏教アドバンテージを感じざるを得ません。

仏教的に深読みする以前に仏教のお話そのものですが、ここからはより細かく見てみましょう。

仏教的(曹洞宗的)に深読み!

それではここから、曹洞宗の僧侶としてどのように解釈できるか、
ポイントに分けて深読みしていきましょう。

お釈迦様と罪人

まず、お釈迦様が悪行三昧だったカンダタを助けようとしてことに関して、
罪と修行について触れておきます。

お釈迦様、そして仏教教団は、それまでの罪を理由に出家を断ることはありませんでした。

代表的な例がアングリマーラというお弟子さんです。

真面目な性格のアングリマーラは、ある宗教家の師事するも、
100人殺したら免許皆伝すると騙され、99人を手にかけてしまいます。

そして100人目に出会ったのがお釈迦様で、その過ちを指摘され、
大きな後悔と懺悔と共にお釈迦様の元で出家し、弟子となりました。

その後は真面目に修行を積み、さとりを開かれたと言われています。

このように、仏教では理由はどうあれ、過去の過ちによって未来を閉ざすということをしません

諸行無常であるからこそ、どんな人も正しい生き方を歩めるはずだと信じるからです。

つまり、極楽にいるお釈迦様が、生前悪行三昧だったカンダタを助けようとしたのは、
まさに諸行無常の中で正しい方向へと変わる可能性を見たからなのです。

「踏まなかった」のが善行?

私にはこの物語の中で、どうしても納得いかないことがありました。

それは、蜘蛛を「踏まなかった」ということがなぜ善行としてカウントされたのか?ということです。

確かに無闇に蜘蛛を踏んでいればマイナスでしょうが、踏まなかったからといってプラスではないはずです。

言い換えれば、人を殺さなかったことや物を盗まなかったことが善行と言っているようなものです。

これはアレでしょうか?

普段悪さしている不良がゴミを拾ったらすごく褒められる的な、あのパターンでしょうか?

なんて考えていたのですが、今回改めて作品を読んでみて、カンダタの言葉が目に止まりました。

「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。
その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」

この蜘蛛も自分と同じ命ある存在であり、その命を無闇にとることを躊躇ったというこの心こそが、
重要だったのではないかと、私は思います。

日本に伝わった仏教は、自他共に救われることを目指す大乗仏教という系譜でした。

この大乗仏教において、人に限らず、あらゆる命と共に生き、
共に救われることを願う心を菩提心といいます。

悪行三昧だったカンダタが蜘蛛に対してとった行動が、
お釈迦様の目には菩提心の片鱗であるように見えたのかもしれません。

なぜ糸は切れたのか?

そして物語のクライマックス。

カンダタが独り占めしようとした瞬間に蜘蛛の糸は切れ、
他の罪人もろとも、カンダタは地獄のそこへと落ち、
お釈迦様はそれを悲しそうに眺めるというバッドエンドを迎えます。

独り占めをしようと瞬間に蜘蛛の糸が切れたのは、ジコチューじゃいけないんだ、と
幼い頃の私にも理解できました。

しかしこれを改めて、修行生活を経験した自分の目から見ると、
ずいぶん奥行きがあることがわかってきます。

先ほど述べた通り、大乗仏教では皆共に仏道を成そう、
共に救われようという心が出発点であり、常に持ち続けなければいけないものです。

カンダタ同様に罪を犯し地獄にいた人々もまた、諸行無常の中で救われ得る存在です。

ただしその行い故に背負うものも多く、道のりは険しいことでしょう。

しかし、そんな辛く険しい仏道をみんなで共に歩もうとする心こそが重要なのです。

私たちの修行や坐禅に置き換えたなら、自分が修行できれば周囲の人がどうなろうが構わない、
坐禅をするためなら他人のことなんか知ったこっちゃない、というわけにはいかないのと同じです。

自分1人ではなく、みんなで悩み苦しみながら、なんとか正しく歩もうとすることこそが、
仏道修行の本質であると、私は理解しています。

そう考えたなら、蜘蛛の糸とはみんなで共に登ることにこそ意味があり、
お釈迦様はそれを期待したからこそ、最後に悲しい顔をされたのでしょう。

まとめ

ここまで、一つ一つの要素を見てみると、『蜘蛛の糸』には単なる教養にとどまらない、
大乗仏教の基本的な姿勢が示されているように思えました。

これは深読みしすぎなのか、それとも芥川先生は全て踏まえていたのか…。

いずれにせよ、生涯修行をし続ける曹洞宗に帰依する者にとって、
非常に身につまされる作品でした。

 

 

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