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このバチ当たりめ!

神仏を冒涜するような行い、その教えに反するような行いをする人を、日本では古くから「バチが当たる」と言う言葉で諌めてきました。

今回はそんな「バチ当たり」という言葉について仏教の視点から考えてみましょう。

昔話とバチ当たり

バチ当たりという観念が色濃く反映されているのが、昔話です。

ある種の教育の方便でもあった昔話や民話には、よくお坊さんやお寺が登場します。

これには、昔はお寺が村の学校の役割を果たし、お坊さんが子供達の先生でもあったことなどが関係するかもしれません。

そして日本に伝わる昔話や民話にお坊さんが登場する時は、こんなパターンが見受けられます。

①お坊さんに悪さをしてバチが当たる。

これは非常によくあるパターンで、欲に目がくらんだ人や、何か後ろめたいことのある人が、お坊さんや寺社仏閣に悪さをしたり、だましたりした末に、本人に悪いことが起こるというものです。

②お坊さんが悪いことをしてバチが当たる

時には、お坊さん自身が欲をかいて悪事をはたらき、自分自身がひどい目にあうというパターンもあります。

中でも「いぶり山」という昔話は、三人で修行をしていた尼僧さんが、食欲に負けて共食いを始めるという、ちょっと怖すぎるカニバリズム作品です。

 

こうした仏様への悪事、仏様に背いた行いをした人には結果的に何らかの罰が下る、というのが「バチ当たり」の理解で良いでしょう。

バチは仏様の意思なのか

では、このバチというものを本当に仏様が下すのか、そしてそれは超常現象のようなパワーのことなのか、考えてみます。

もともと日本仏教は、仏教には神秘的な力があってそれが国を護ってくれると信じたことから始まっています。

そのため、僧侶には常人では行えない厳しく難しい修行が求められ、それが僧侶を神聖なものとして扱う根拠にもなりました。

そんな背景もあってか、日本人の「バチ」という観念には、キリスト教などでいう神の裁きに近い、超自然的な力による正義の鉄槌的な要素を多く含んでいるのです。

しかし、ここで重要なのは、仏教は罰を与えることのない宗教だということです。

お釈迦様がいらっしゃった頃から現在に到るまで、仏教として認められている宗派には死刑はもちろん体罰も存在しません。

あえて罰として挙げるとすれば、それは教団からの追放、これが最大の罰です。

仏教徒にとって一番辛いことは、教えを守る仲間と共に修行ができなくなることなのです。

現在でも、永平寺では志がない、あるいは仏教に背く行いをした修行僧の最大の処分は下山です

それなら、人が怪我をしたり物を失ったり、時には死んでしまうような「バチ」は、果たして仏教の教えと言えるのでしょうか?

「バチ」の正体

実はバチというのはタタリや呪いにも似た、日本人の生きる知恵としての要素が含まれています。

科学や医療が発達する以前、先人たちは飢饉や疫病・災害など、理解の及ばない不幸や災いに何度も見舞われ、苦しめられました。

そして当時の技術では原因の解明もできず、恨む相手もわからない、そんな怒りや悲しみのぶつけようのない現実の中で自分を納得させる方法の一つがバチだったのです

バチだと思うことで自分を納得させると共に、バチが当たらないよう、正しく慎ましく生きようとしたのが、結果的に教育の方便にもなっていったのです。

言ってしまえば、そこに必要だったのは仏教としての正しさではなく、理不尽な現実に対する何かしらの心の落ち着きどころだったのです。

つまりバチとは、理不尽な現実を飲み込むための「こじつけ」と言ってしまうこともできるのです。

そうなるとやはりこれは仏教の教えとして正しいとは言えません。

物事には全て原因と条件がある。

その原因と条件が悪ければ悪い結果があるし、善ければ善い結果がある、それが仏教の立場です。

そしてどんな理不尽の中でも、善い結果を生むための選択をしていくことが仏教の説く生き方なのです。

これだけ科学が進んだ現代では、バチやタタリといった類の言葉を借りずとも、説明がつくことは昔と比べてずっと多くなりました。

我々僧侶が本当に仏教の立場に立って世の中を見渡し、理解することができていれば、昔の人にとっての知恵であり方便であった「バチ」という言葉は、実はもう役目を終えているのかもしれません。

先人たちが築いた風習や習慣には必ず背景があり、それを全て否定するつもりはありません。

バチという考え方が守ってきた倫理や秩序もあるでしょう。

しかし、鵜呑みにしてきてしまった言葉と今一度向き合って見ると、仏教のすごく現実的で生々しくて、現代に通ずる教えというものが、より際立ってくるのかなと思いました。

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