スポンサードリンク
ゴミの多さや騒音、犯罪やトラブルの発生といった点から問題視されている渋谷のハロウィン。
今年は一部のコンビニや商店では酒類の販売を自粛して路上飲酒の減少を目指したり、「地味ハロウィン」という経費がかからず、派手さのない仮装がトレンドとなりました。
相次ぐ台風被害や、警備への税金の投入など、盛り上がりを見せる一方で世間から厳しい目を向けられているハロウィンですが、今年はどんな様子だったのでしょうか?
前回は当日の様子をレポートしました。
今回はゴミ拾いを通して感じた、今年のハロウィンに対して感じたこと・思ったことをまとめました。
Contents
昨年との違い
昨年から引き続きハロウィン翌日のゴミ拾いをしたわけですが、今年はいくつか違う部分がありました。
それは、ハチ公広場や路上での騒ぎの長さ。
昨年の朝はほとんどの人が足早に駅に向かい、8時には通勤の方以外はほとんど見かけませんでした。
しかし、今年は体感としても昨年より気温が高く、露出度の高い仮装をしている人が上着を着ずに歩いているほど。
そんな気候のせいなのか、ハチ公広場や路上でお酒や食べ物を広げている人が、8時近くなってもチラホラ。
すると、周囲の路上に拾うゴミのないボランティアさんが、その人たちのゴミを拾うという状況に。
それによって「どうせ拾う人がいるから」と目の前でポイ捨てをし、それをボランティアが拾う…。
なんだかおかしな状況でした。
「ゴミ拾いイベント」の欠点
昨年もそうだったように、ゴミ拾いも一つのイベントと化したハロウィンですが、イベントであるが故に11月1日以外はゴミを拾う人が少なく、荒れているのは気になるところです。
当然、ハロウィンだけでなく、ラグビーW杯の盛り上がりや、普段の渋谷という街のモラルの低さでもあるのかもしれませんが、10月末の街の汚れはハロウィンのせいと思われるでしょう。
ネットでも叩かれるように、11月1日のゴミ拾いは世間からの注目や称賛が多く、目立つ手段にもなることでしょう。
ゴミが散らかっている日に拾いに行くのか。
それとも注目されやすい日に拾いに行くのか。
ゴミ拾いがイベントになることは悪いことではありませんが、偏りという課題はまだまだ解決されなそうです。
改めて感じる「自浄作用」の必要性
昨年の記事で触れたように、「クラブカルチャーを守る会」の会長を務めるラッパーのZeebraさんは、「文化には自浄作用が必要」とおっしゃっていました。
自浄作用とは楽しむだけ楽しんで散らかしていくのではなく、立つ鳥が跡を濁さないということ。
実際にクラブ関係者の方々は積極的にゴミ拾いをされ、円山町のクラブが密集するエリアは比較的綺麗に保たれています。
我々のハッピーハロウィン🎃#2 pic.twitter.com/8WyYoRgQiT
— DJEMMA NITELISTMUSIC (@NITELIST_MUSIC) November 1, 2019
そのカルチャーを愛する人からすれば、そのシーンのトップを走る人の姿は自然と目で追うものです。
こうした発信力の強い方の行動は、大きな影響力があることでしょう。
しかし、やはりまだ「楽しむ人」と「綺麗にする人」は一致していないのが渋谷の現状。
お酒を飲むせいもあるのでしょうが、ゴミを捨てるという判断すらまともにできない人が多いこの状況では、「渋谷のハロウィン」は不健全な文化と呼ばざるをえません。
どこまでが自分の範囲なのか
またもう一つ、自浄作用という点とは少しずれるかもしれませんが、「ゴミを拾う範囲」が気になりました。
渋谷にある飲食店や娯楽施設では、敷地内は綺麗になっているものの、道路にはゴミが溢れているという状況を多数目にしました。
自分の敷地の範囲はともかく、目の前の道路のゴミを拾う義務はないこと、捨てる人が悪いというのは百も承知です。
しかし、自分の敷地が綺麗なら良いという姿勢では、街全体の美化には繋がらないのでは、と思うのです。
先日、伊集院光さんがTBSラジオ「伊集院光深夜の馬鹿力」で、原宿の路上で見かけた鳩の死骸を街路樹の元に移そうとしたら、周辺の店舗から注意を受け、結局代々木公園まで運んで埋めた、という話をしていました。
自分の場所だけを守るという姿勢、これは渋谷に限らない話なのかもしれません。
やっぱりゴミ箱が少ない
そしてゴミが路上に捨てられる原因は、やはり都内のゴミ箱の少なさに一因があると思います。
それがテロ対策だと言うのであれば、自動販売機の横やコンビニにもゴミ箱を置けないはずです。
センター街のゴミ集積所だって十分標的になるでしょう。
ほとんどの人が電車で訪れる渋谷という街で、全員がゴミを家まで持ち帰るというのもなかなか難しいと思います。
ゴミ箱がない町で、食べ歩ける物がたくさん売っていて、お酒を飲める場所もたくさんある。
コンビニなんて渋谷だけで一体何軒あることか…。
普段から「捨てる場所がない」ということが、ポイ捨てを正当化する理由になっていてもおかしくありません。(当然ダメですが)
普段からゴミを捨てられる場所があれば、もう少しこういう時の結果が変わるのでは?と思いました。
(さらに分別という問題が待っていると思うと頭が痛い…。)
渋谷のハロウィンは今後どうなっていくのか?
ここまで、ハロウィン作務を通して感じたことをざっくばらんに書いて着ましたが、私は、渋谷のハロウィンそのものが悪いとは思っていません。
どこかのネット記事では、日本のハロウィンは地方からやってきた人が楽しめる「土着のないお祭り」だと分析していました。
それぞれにストレスや悩みを抱えて社会生活を送る中で、一年に一度騒ぐ楽しみがあるのは悪いことではないと思います。
しかし、その裏で誰かに何かしらの害が及ぶ限り、全面的に容認することはできません。
全国各地で台風の被害に苦しむ人がいる一方で、対策に1億円もかかった騒ぎは、暴動の一つに数えられてしまうでしょう。
今年も逮捕者が出ていると聞きますし、窃盗や細かい揉め事など表沙汰にならないだけでかなりあったはずです。
かといってこの規模にまで膨れ上がってしまったものを、来年急に「中止です!」と言って無くすことができるとも思えませんし、経済効果もあると聞きます。
そこで私が気になったのは、仮装が現代人の心にもたらす影響です。
以前、南アフリカのリベリアという国では、少年兵を戦場に送る際、覆面や仮装をさせることで恐怖心を取り除いたと聞きます。(リンク先記事参照)
覆面レスラーも、マスクをかぶることで普段とは違う自分になれるそうです。
ハロウィンの仮装も、同じように人間が理性を取り払って、内に秘めた願望や衝動を引き出してしまっているのかもしれません。
そう、ハロウィンの騒ぎや乱れの規模は、社会の不安や不満の裏返しという部分も少なからずあるのではないでしょうか。
となると、ハロウィンを沈静化するには、人々の日常生活が変わるしかないのではないかと、私は思うのです。
もちろん皆が皆そうではないにしろ、この日渋谷で騒ぐ人たちに、現代の日本の社会が抱える不安や怒りといった心の闇が見て取れて、なんとも切ない気持ちになりました。
遠くから見て10月31日のハロウィンだけを「あんなのやめさせろ」「反対」と批判しても、変わらない現状がそこにあります。
正直なところ、具体的な対策というものがここで思い浮かぶわけではありません。
私は僧侶としてこれから社会とどのように関わっていくべきか、改めて自分に問うのでした。