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3月11日に【一行写経と法話の会】第3回を開催しました。
今回の法話は私、本田真大が「ともに喜ぶ」というタイトルでお話いたしました。
奇しくも東日本大震災からちょうど8年が経とうというこの日。自身の修行中の経験から、私たちが法要に参加する意味についてお話いたしました。
Contents
随喜とは?
只今より、本尊上供という法要をつとめさせていただきますが、今日はいつもは法要の後でしているお話を、先にさせていただきたいと思います。
突然ですが皆さんに質問がございます。これから法要に参加していただくわけですが、皆さんは法要に参加されたり、一緒にお経をお唱えすることにどんな意味があるとお思いでしょうか?
今、「法要に参加されたり」と申しましたが、法要に参加することを、私達僧侶は法要に「随喜する」と言います。
随という字は「したがう」、喜は「よろこぶ」という字を書きます。
私は大学を卒業した後福井県にございます永平寺に上山してまもなくこの言葉を知ったのですが、「随喜=したがって喜ぶ」なんて随分と自虐的じゃないか?と、同期の修行僧とこのような冗談を言ったことがあります。
それくらい私が勉強不足で「随喜」という言葉の意味を分かっていなかった訳なのですが、ある法要で目の当たりにした出来事で、私は「隨喜」という言葉の本当の意味を知りました。
冬の永平寺でのできごと
それは四年前のちょうど今頃のことです。
永平寺での修行2年目の冬に、私は法要の裏方を務める役についていました。
一般のお寺の本堂は30~40畳、大きいところでも6~70畳あまりですが、永平寺では300畳以上の広さがあります。
他の修行僧が起きる前、空にはまだ星が輝いている時間からその広い本堂を隅々まで掃除し、法要の際は、滞りなく法要が進むよう裏方を務めます。
この役割に加え厳しい冬の寒さで、肉体的にも精神的にも張り詰めた日々が続いていたのですが、そんな時に、私は万灯供養法会に随喜する機会を得ました。
万灯供養とは、祈りを込めた数多くの灯明や蝋燭をお供えする法要です。
東日本大震災からまもなく丸4年が経とうとしていた2015年2月28日、 永平寺の山門は、普段は夕方になると寒くて薄暗いのですが、この日は美しくライトアップされ、大勢の参拝者が集まっておいででした。
裏方の私は、お一人お一人が想いを込められた灯篭を特設の壇上にお供えするお姿を、会場の隅からなんとも言えない不思議な気持ちで見ていました。
この万灯供養法要には普段の法要と違う点が他にもあります。
それは木魚ではなく太鼓のリズムに合わせてお経を読むというところです。
私はこの太鼓を使った法要に参加するのが初めてだったのですが、力強い太鼓の響きによって、普段の法要にはない独特の迫力が会場を包み込みました。
老師がお唱えしたことば
法要が進み、大勢での読経が終わると、取り戻した静寂の中、法要を先導する御老師が、朗朗と回向文をお唱えになります。
回向とは字の通り、「回し向ける」ことを意味します。
多くの法要では回向文をお唱えすることで、その功徳を自分のものにするのではなく誰かに振り分けるということをします。
細かく言えば、仏様の前で行った読経や礼拝、焼香といった法要の最中の行為の一つ一つの功徳が、亡き人や参列者に巡りますようにという願いを込めたお唱え、それが回向なのです。
この回向文は中国の漢文の形で表現されることから、一般の方が聞いただけで理解するのは難しい文章になっています。
ですが、厳かな儀式の中で朗朗と唱えられる回向はとても格調高く、意味は分からずとも有り難く感じるものです。
この万灯供養法会でも、格調の高い回向が唱えられたのですが、この時はいつもと違ったのです。
回向をお唱えになった御老師が、回向の最後に誰にでもわかる平易な言葉で、次のように加えてお唱えになられたのです。
私が幸せでありますように
私の親しい人が幸せでありますように
私の嫌いな人が幸せでありますように
私を嫌っている人が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
この言葉は実は、お釈迦様のお言葉を集めたといわれる『スッタニパータ』と言う古いお経の中の言葉なのです。
私は、御老師がこの言葉を永平寺の山門で朗々とお唱えになる姿を見て衝撃を受けました。
なぜなら、法要の中で、回向文にこのような言葉を付け加えられることは、前代未聞だったからです。
しかしそれ以上に衝撃だったのは、このお唱えを聞いて、法要会場に集った沢山の方々が、どなたも一心不乱に手を合わせ、祈りを捧げていたからでした。
私はそのお姿を拝見し、この法要を共に勤めることが出来た事を心から誇らしく思うと同時に、「随喜」という言葉の意味に気付かされたのです。
誰かの良い行いを素直に喜ぶこと
私はそれまではただ、法要などに「参加する」ことが「随喜」だと思っていました。
しかし、この時の参拝者は違いました。何が違ったか、それは喜びの共鳴が起きていたのです。
まず御老師がお唱えになったお釈迦様の他者を思う回向の言葉。
この言葉に共鳴するように、多くの参拝者の方々が一心不乱に手を合わせて下さいました。
そして次に、その神々しい姿に私が心打たれ、共鳴し、心から他者のためを思って法要に従事することができたのです。
思えば、修行中の厳しい環境の中で、いつしか自分のことばかり考えていた私が、この法要で改めて他の人の為に純粋に幸せを願うことが出来たのです。
このことからも分かる通り、随喜とは、したがって喜ぶのではなく、ともに喜ぶことなのです。
誰かの善い行いを見て、素直に喜び共鳴することだったのです。
禅の言葉を専門に集めた『禅學大辞典』辞書があるのですが、そこには随喜について「人の善事をなすを見喜ぶこと」とあります。喜びの心は共感・協調です。ですから、他者の良い行いを素直に喜ぶということは、自らの心にも同じように尊い思いを巡らせることになるのです。
つまり、法要に随喜するということは、ただ参列するのではなく、読経等により功徳を積み、それを回向によって他者に振り分けるという尊い行いを、共に喜ぶという意味なのです。
尊い思いを広げるために
どちらかというと、日本人は感情を表に出すことを恥じらいます。
良い行いをしたとしても、表沙汰にしないことが「隠徳」としてもてはやされたりします。
もし自分のした良い行いをこれ見よがしに主張しようものなら、きっと冷ややかな視線を送られるでしょう。
しかし、たとえそれが他人のした行いであったとしても、良い行い、良い思いには素直に共鳴し、自らの心にもそうした尊い思いを巡らせ、言葉や行いで表現することはとても大切なことなのではないでしょうか。
そうすることで、私が万燈供養法会で名前も知らない参拝者に感銘を受けたように、尊い思いは広がってゆくのではないでしょうか。
反対に、人に対する疑いや嫉妬の心を伝染させるような感情表現は慎むべきです。
私達は今、情報に翻弄される社会を生きています。様々な情報が飛び込んでくる時代だからこそ、自分の心に巡らせる思いは自分で注意深く気をつけたいものです。
本日は私たちが法要に参列する意義についてお話させていただきました。
この後写経の際には普回向という回向文を写経していただきます。この普回向は、亡き人から生きとしいけるもの全てに自分の功徳を巡らして、共に仏道を歩んでいくことを願う、もっとも普遍的で親しまれている回向文です。
今日のこの会の最後に皆さんご一緒にお唱えできればと思っております。
法要とは、亡き人の冥福を祈り、功徳を手向けると同時に、今を生きる私たちが尊い思いを共有し、広めていくためにあるのだと思います。
只今より東日本大震災の追悼の意味も込めまして、本尊上供という法要を勤めさせていただきます。
皆様におかれましては、未だ悲しみと不安の中に在る被災者の方々に思いを馳せて頂くと共に、こうして志を同じくして今日この瞬間を共に出来ることの尊さを感じて頂き、「随喜」して頂けたら幸いです。
ご静聴有り難う御座いました。いよいよ法要となります。どうぞ、宜しくお勤め下さい。