全員お釈迦さまになるってどういうこと!?

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前回、曹洞宗の帰依三宝について、やや踏み込んだお話をしました。

その勢いで、今回も曹洞宗の信仰に関する大きな問題についてお話ししたいと思います。

私自身も長い間納得できていなかったことなので、和尚様方にもきっと共感していただけるかと思いますので、ぜひお付き合いください。

Contents

『修証義』五章の衝撃

曹洞宗には、道元禅師のお言葉をパッチワークのようにつなげて編まれた『修証義しゅしょうぎ』という経典があります。

私の実家のお寺では、これの五章を法事の際にお唱えします。

五章「行持報恩ぎょうじほうおん」で説かれることは私も非常に大切に感じていて、丁寧な日々の生活が仏様(故人)への報恩になる、というものです。

ところが終盤、急に混乱することを言い出します。

過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり

『修証義』第五章「行持報恩」

え、、、。

どういうこと?

要するに、歴史上のお坊さんも、供養をした故人も、そして生きて教えを実践する私たちも、全員釈迦牟尼仏、お釈迦さまになるというのです。

改めて申し上げましょう。

どういこと?

戒名をつけて、そのお戒名という名前の仏様になるのが葬儀や供養なのでは?

全員お釈迦さまになるなら、お位牌は全部釈迦牟尼仏でいいってこと?

これが私には理解できませんでした。

一体三宝の重要さ

実は、これは前回の記事で触れたのと全く同じことが原因となっている混乱なのです。

釈迦牟尼仏と聞いた時、歴史上存在したゴータマ・シッダールタという、お釈迦さまという「人物」を思い描くから迷宮に入ってしまうのです。

前回、三宝には3つの受け取り方があるとお話ししました。

そのうちの現前三宝が、仏を歴史上のお釈迦さまという「人物」として受け取るものです。

この受け取り方のまま「全員釈迦牟尼仏となる」と言われたら、それは混乱しまよね。

ところが、仏をお釈迦さまの「さとり」とする一体三宝の受け止め方ではどうでしょう?

歴代の和尚さま方、供養した故人、そして実践をする私たちも、お釈迦さまのおさとりの中に一つになる、と言われれば少し話が変わってきます。

「釈迦牟尼仏」を人物名としてだけではなくさとりの象徴として捉える一体三宝の受け取り方は、ここでも大切になるのです。

お釈迦さまのさとりとは?

ではそのお釈迦さまのおさとりとは一体どのようなものなのでしょうか?

これについては亮道さんが実際に現地を訪れた体験から語っている記事もありますが、今回は曹洞宗の立場からお話しします。

曹洞宗の教えは、道元禅師が独特な解釈をされたことで、仏教入門書に書かれるものとやや異なる場合があります。

それはお釈迦さまのお覚りに関しても例外ではありません。

道元禅師は、お釈迦さまのお覚りとは決して自分の中で何かがスパークして急に超人になるようなものではないと捉えました。

いわば坐禅や修行生活によって、初めからさとりの世界にいたことに気づいた、といったところでしょうか。

…ちょっとわかりにくいですよね。

お釈迦さまははじめ、老病死への恐れがなくなる特別な境地やゴールがあると思って、自分の内側へ入り込んでいきました。

しかし、そこに答えがないとわかり、坐禅によって周囲に目を向けた時、この世はみんな無常であり無我であるという縁起の法則の上にあることがわかります

自分も無常であり無我であるのに、それを拒もうともがくから辛いんだ、ということに気付かれたわけですね。

草木も動物も山や川も、無常で無我な縁起の教えを体現した存在であることに気づくと同時に、ご自身もまた縁起の上に生まれ、死にゆく存在だったのです。

お釈迦さまはご自身のおさとりを「これだ!」と定義されてはいません。

しかしそれは、自分の中に生まれる特殊能力ではなく、この世界が縁起という真理の上に成り立つのだと気づくことだったのかもしれません。

全員釈迦牟尼仏になる

ここまでを踏まえると、ようやく「全員が釈迦牟尼仏となる」という言葉の意味が見えてきます。

歴代の和尚さんも在家の方も、そして私たちも、お釈迦さまが気付かれた縁起というさとりの上に一つになる

縁起という真理は、お釈迦さまが生きていようがいまいが存在し続けています。

そこで、身勝手さや欲望に振り回されず、仏教を実践をすることで、自分が仏となると同時に、周囲のものも仏に見える

これが「全員釈迦牟尼仏になる」という言葉の真意なのではないでしょうか。

現代人は科学が発達した社会にいる反面、自分の見えないものや霊的なことに関しては意味がわからなくても言葉を鵜呑みにしてしまう傾向にあります。

しかし、こうして実践を前提にみてみると、非常に理屈の通った教えが見えてきます。

今回の内容が絶対に間違えていない、という自信が私にあるわけではないのですが、せっかくならこうして納得した上で信仰していきたいと常々思っています。

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