いつの間にかついていた「説きグセ」

私は自分のことを「いい奴」だと思って生きています。

ある程度人の気持ちを想像することはできるし、
それに対して配慮をした言葉を選んで、お話しをしているつもりです。

しかし最近、そんな自分に「説きグセ」がついていることに気付いてしまったのです。

今回は、いつの間にかついていた「説きグセ」について考えます。

Contents

手の届く人だけでも

私は学生時代、親友のおかげで自分に対する卑屈さを見直し、
「こんなにいい友達がいるってことは自分って捨てたもんじゃないな」
と思えるようになりました。

そして、永平寺での修行中も外にいる友人たちに様々な場面で助けれました。

その後、永平寺から帰ってみると、学生時代との変化がありました。

僧侶として歩み出した私は、友人から相談や質問を受けるようになったのです。

そして、それに対して自分なりに学んだ範囲で応えると、感謝されました。

就活を経て、社会に出て色々な出来事を経験した彼らは、
私からすれば人生の先輩のような存在で、負い目すらありました。

そんな人たちの人生にとって、仏教はちゃんと意味があるんだ、
僧侶は役に立てるんだと気付いた時、私の中で目標ができました。

それは、手の届く人くらいは安心させられる僧侶になりたい、ということ。

仏教は世界平和を実現できる、確かにそう思いますが、
すぐに世界を変えられるとはなかなか思えないのが正直なところでした。

しかし、手が、声が、言葉が届く範囲の人くらいは安心させられるかもしれない。

そして、それはきっと世界平和とも無関係じゃない。

そんな風に思えたのです。

役に立ちたいという欲

それから、私は仏教を学ぶうえで、どんな人にどう役立てるか、
ということを重視するようになります。

法話を聞いてくださっている方、イベントの参加者、お檀家さん、そして友人。

様々な悩み、悲しみ、痛み、怒りに対して、仏教はいつも何かしらのヒントをくれました。

そうして学び、話し、人の役に立てることで、私は仏教への「信頼」を深めていきました。

しかしこの頃から、私の中では良くない変化も起こっていました。

学んだ仏教を説いて感謝や感動されることによって、
私は「人の役に立つ」ということばかり意識するようになりました。

それでは表現が綺麗すぎるかもしれません、簡単に言えば、
感謝や感動されることで、承認欲求を満たすようになっていたのです。

これによって、私は話すということに関しては緊張も苦手意識もありませんでしたが、
ある重要なことができなくなっていきます。

「説きグセ」に気づく

できなくなっていたこと、それは「聞く」ということです。

正確には「まずは受け取る」ということができなくなっていました。

話を聞きながら、「自分が何を言うか」ばかりを考えてしまうのです。

その人が見えていない部分に解決のヒントがあるんじゃないか?
僧侶としては何が言えるか?

耳から入ってくる言葉よりも、自分が言おうとしている言葉が、頭の中を埋めていきました。。

初めてそれに気付いたのは、当時お付き合いしていた方から、
「聞いてほしいだけだったのに、いつも上からモノを言われる」
と言われた時でした。

手の届く人くらい安心させたい、と思っていたのに、私はいつの間にか、
「役に立てた」と安心したい人間になっていたのです。

これが、いつの間にか私についていた「説きグセ」です。

「寄り添う」という言葉の意義

そんな自分の「説きグセ」に気づくまで、
私は僧侶がよく使う「寄り添う」という言葉を、無責任だと思っていました。

僧侶がいるのは仏教を伝えて1人でも安心させるためであって、
ただ「寄り添う」だなんて、無責任だし、なんなら偉そうだと思ったことすらあります。

しかし、世の中には「寄り添う」ことでしか変わらない問題もあるし、
「寄り添う」ということの難しさがあることを知りました。

どれだけ言葉を尽くそうがいかんともしがたい問題の前で、そこにいることしかできない、
寄り添うことしかできないという場面があることを知りました。

そこには言葉にしきれない辛さ、悔しさがあることでしょう。

それに比べたら、独りよがりで喋るだけ喋って満足していた自分の惨めさたるや…。

私は、自分が軽んじていた「寄り添う」という言葉にこそ、
「説きグセ」がついていた自分に必要なものがあるような気がしました。

ベクトルがどこに向くか

日本での僧侶という立場は、私のような者でも地域の方や、
イベントの参加者さんや、ネット上で出会う方、多くの方が丁重に扱ってくださいます。

そして、お釈迦様の言葉を借りることで、自分よりずっと年上の方が、
涙を流して感動したり、感謝してくださることもあります。

非常にやりがいのあることですが、「自分がすごい」と勘違いしやすい環境でもあると、
私はつくづく思います。

そして、いつの間にか人の気持ちよりも自分が話したいことの方を考えている、
「説きグセ」がついた自分が嫌になることが多々あります。

「説きグセ」とは、話すベクトルが自己満足に向いているとつくクセだと思います。

一方で、本当に相手のことが心配で、少しでも状況を良くしたいと願ったときは、
言葉はうまく出てこなくても、その気持ちを汲み取ろうと必死になれたこともあります。

僧侶としての生き方の上で、布教教化という道を選んだ以上、
これは一生気をつけ続けなければいけない問題です。

「お前のベクトルは本当に今、目の前にいる人の気持ちに向いているかい?」

そんな風に自分に問いかけ続けながら、この道を歩んでいきたいと、最近改めて思っています。

 

 

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