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禅活-zenkatsu-では毎月1回、「お話を聞いたけど仏教の言葉を忘れちゃう」「写経をするけれど言葉の意味がわからない」という声にお応えして、【一行写経と法話の会】を開催しています。
毎月交代で禅活-zenkatsu-メンバーがテーマを変えてお話をしておりますが、今回は私西田が「般若心経」についてのお話をさせていただきました。
今回はその法話「般若心経が説く生き方」を掲載しますのでぜひご覧ください。
Contents
般若心経について
お疲れ様でございました。
皆様には【一行写経と法話の会】の開会に先立ちまして、ご一緒に「摩訶般若波羅蜜多般若心経」通称「般若心経」をお唱えいただきました。
この法要は「本尊上供」と言って、お寺で法要や催し事をする際に行う、言わばご本尊様の前で仏教への信仰を表明するご挨拶です。
さて、今回で第六回を数えるこの会ですが、これまでにこの「般若心経」についてのお話をしたことがありませんでした。
そこで本日は、皆様に毎回お唱えいただいている「摩訶般若波羅蜜多心経」についてのお話をさせていただきます。
登場人物
まず般若心経には、お二人の登場人物がいます。
お一人は観自在菩薩、またの名を観世音菩薩、通称観音様です。観音様については前回久保田さんがお話しを致しました。
もうお一人は舎利子、お釈迦様の十大弟子の一人、舎利弗尊者という方です。
舎利弗尊者は智慧第一と称され、お釈迦様に説法を任されることもあったほどのお方です。
実はこうした登場人物を考えることで、そのお経はどのようなことを中心に説いているのかが見えてきます。
「般若心経」は、あの智慧第一の舎利弗尊者が教えを説かれているというストーリーになっていることで、ここで説かれる教えの素晴らしさが強調されるのです。
中国の言葉とインドの言葉
また、「般若心経」は漢文になっていますので、初めから「観自在菩薩、深き般若波羅蜜多を行じたもう時」という様に書き下して読み進めていくことができます。
そうしてずっと読み進めていくと、観音様が舎利弗尊者に「空」という教えを様々な角度から説いておられる様子がわかります。
しかし、最後の最後「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」というところになると、漢和辞典を引いてもさっぱり意味がわからなくなるのです。
実は、「羯諦羯諦」の前に「即説呪曰」、つまり「呪に曰く」とあるように、この部分は呪文になっています。
今、日本で読まれるお経の多くは、インドの言葉を「西遊記」の玄奘三蔵法師のような僧侶が当時の中国語に訳したものです。
しかし、お経の中には、インドの言葉で呪文として書かれたものを翻訳するのではなく、「音」をそのまま漢字に当てはめた「音写」というものがあります。
「羯諦羯諦波羅羯諦〜」という部分はインドの言葉の「ガーテガーテパラサンガーテ〜」という言葉の音写なのです。
羯諦羯諦〜の意味
では、この部分を漢字ではなく、元のインドの言葉の意味から読み解くとどのようになるのでしょうか。
大正から昭和の時代に活躍された曹洞宗の僧侶に、橋本恵光老師という大変優れた方がいらっしゃいました。
橋本老師はこの一節をこう訳されています。
「ゆきゆきて、彼岸をばゆく。彼岸をばもろともにゆくこそ悟りなれ」
私たちには少し違和感のある言い回しに聞こえてしまいます。
彼岸というと、一般的には彼岸会を思い浮かべ、三途の川の向こう岸をイメージしますし、仏教を学んだ方なら迷いの世界であるこちらの岸に対して、悟りの世界である向こう岸と認識されているはずです。
ではなぜ「彼岸へゆく」ではなく「彼岸をばゆく」というのでしょうか?
大学卒業と送別会
親友
このことを考えていた時、ある経験が蘇ってまいりました。
これは私が永平寺に上山した時のお話です。
私は大学で仏教を学ぶ傍ら、ストリートダンスサークルに所属していました。
そしてそのサークルで出会ったのが親友の正太でした。
彼は高校からダンスの専門学校に通い、大学に入ってきた時には同級生より頭一つ抜き出た実力を持っていました。
そして努力家の彼はサークルでの練習とは別にレッスンにも通い、大きな公演がある時期には連日夜通しの練習が続きました。
その疲れからか、正太は大学の講義に出られない日が増え、最終的に一年留年することになりました。
そして、彼が就職活動で忙しくなってきた頃、私は永平寺へ上山する時期が近づいてきたのです。
送別会で芽生えた複雑な気持ち
大学卒業後に修行道場の門を叩く修行僧の多くは、大学の卒業式を待たずに上山の日を迎えます。
そこで、正太を中心にサークルの友人たちが、修行に出る、私を含めた二人のために送別会を開いてくれました。
そこでみんなが「頑張れよ」「体に気をつけてね」と寄せ書きをくれたり、声をかけてくれるのは4年間で築いた友情を感じ、ありがたく思えたのですが、一方で、どこか素直に喜べない気持ちがありました。
それは、四年間喜びも苦労も共にしてきた友人たちがくれる言葉に、みんなはこれからも連絡を取り合ったり会う事ができるのに、私だけが修行に行く、という現実を突きつけられているような気がしたからです。
そう思うと急に慣れ親しんできた友人たちとの間に距離を感じて寂しい気持ちになりました。
賑やかな笑い声を聞きながら「人の気も知らないで」とすら思いました。会がお開きになると、私は「ありがとう」と言いながも、どこか晴れない気持ちで、会場を後にしました。
永平寺上山と親友の言葉
いよいよ上山当日、私は着物の袖と裾をたくし上げ、足袋と草鞋を履き、荷物を肩に掛けて網代笠を被った格好で家を出ました。両親に見送られ、地元の栃木県足利市から朝一番の特急で東京まで出て、新幹線に乗ります。
普段の私であれば駅でお弁当を買って道中に味わうところですが、緊張のせいか全く食欲が湧きません。
東海道新幹線から福井行きの特急に乗り換え、いよいよ福井駅に着きました。
そしてついに、福井駅からタクシーで永平寺へと向かいます。その車内で、私は自分がやっていけるのか、どんなことが待ち受けているのか、そんな不安がピークに達し、今にも押しつぶされそうになりました。
その時、電池の切れかけた携帯電話が鳴りました。正太からです。私が電話に出ると、彼は明るい声でこう言います。
「おー!間に合ったか!よかった!今ちょうど一つ面接通ったところなんだよ!おれもこれからどうなるかわからないけど頑張るからさ!お前も頑張れよ!」
誰よりも信頼できる親友の言葉は私にとってすごく心強いものでした。
そしてそれと共に、私は自分の大きな勘違いに気づいたのです。
不安と気づき
私は4年間を共にした仲間たちの中で、自分一人だけが茨の道を行かなければならなくて、自分だけが辛いと思い込んでいました。
しかし、そうではありませんでした。
連絡をくれた正太も実は不安の真っ只中にいたのです。
私をはじめ同級生は先に卒業してしまう中でこれから就職活動を続けていかなければならない不安や心細さは、私が一人で永平寺に向かっている心境ととても近いものがあったのではないでしょうか。
そしてそれは送別会で言葉をかけてくれた友人たちも、同じでした。社会に出でうまくやっていけるだろうか、人間関係はどうだろうか、そんな、蓋を開けてみなければどうなるかわからない不安を抱えているのは私も正太も友人たちも、みんな同じだったのです。
そこで、私はたった一人で茨の道へ歩き出しているわけではなかったことにようやく気がつきました。
道が違うだけで、実は誰もが悩みや不安を抱えながら一緒に歩いていたのです。
「おれもどうなるかわからないけど頑張れよ」
という正太の言葉、そして友人たちの言葉は、その後の二年間の修行生活で何度も私を支えてくれました。
「娑婆」を「彼岸」にする生き方
仏教では人間が生きるこの世界を「耐え忍ぶ世界」という意味で「娑婆」と言います。
ところが「私だけが辛いんだ」と思い込んでしまうと、自分が生きている世界だけが娑婆であるような気がしてしまい、孤独を感じ、周りに憎しみや恨みが湧いてきます。
しかし誰もが同じように、様々な思いを抱えながら生きていると気づいた時「自分だけが辛いのだから自分さえ楽になれればいい」という思いは起こらなくなっていくのです。
そうして「自分さえよければ」という思いを離れ、人と共に娑婆で生きながら、人と共に苦しみを離れていこうと歩んでいく世界こそが、実は般若心経の説く悟りの世界「彼岸」なのです。
「人を元気づけるつもりが逆に元気をもらっちゃった」ということがあるように、あの時言葉をかけてくれた正太や友人たちは、大きな不安を抱える中で私を励まし、応援してくれることで、自分の不安な気持ちが和らいでいたのかもしれません。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」という十八文字には、人々と苦しみを共にする中で、この娑婆を彼岸にしていこうする観音様の生き方が説かれているのだと私は思います。
先ほど皆様は「般若心経」を「私が功徳を独り占めしてやる!」というような自分勝手な思いを持たず、見事に調和してお唱えくださいました。
この後はどうぞそのお心のまま、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」とお写経をしていただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。