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坐禅というと、お釈迦様がおさとりを開かれたということから、「さとりを開く」「煩悩を断つ」ということをイメージしやすいものです。
事実、曹洞宗はお釈迦様と同じように坐禅をすることで、身体の上にお釈迦様と同じ姿を現そうという宗派です。
うーん、難しい。
坐禅にゴールがあって、「そこにたどり着けば仏!」のほうがずっと簡単です。
そこで今回は、曹洞宗の坐禅が目指すものについて考えてみます。
Contents
瓦を磨いたお坊さんの話
坐禅は何を目指すのか?それを考える時に非常にわかりやすい禅のエピソードがあります。
昔の中国の禅僧に南嶽懐讓禅師と馬祖道一禅師という師弟がおられました。
ある日、お弟子さんである馬祖禅師はとても熱心に坐禅をしていました。
すると師匠の南嶽禅師は「そんなに熱心に坐禅をして何になろうとしているんだい?」と尋ねます。
馬祖禅師は答えます。
「仏になろうとしています。」
すると南嶽禅師は「そうかいそうかい」と言いながらどこかへ去って行き、しばらくすると何かを手に持って帰ってきました。
南嶽禅師が手に持っているのは瓦です。
一体なにが始まるんだ?と馬祖禅師が見ていると、南嶽禅師はその瓦を水と布でゴシゴシと磨き始めたのです。
驚いた馬祖禅師は「お師匠様、何をなさっているんですか?」と尋ねました。
すると南嶽禅師は「ん?瓦を磨いて鏡にしようとしているんだよ。」と答えます。
馬祖禅師は思わず「そんな、瓦を磨いたって鏡にはなりませんよ!瓦は瓦です!」と指摘をしました。
そこで南嶽禅師が一言。
「そう、どれだけ磨こうが瓦は瓦。鏡にはならん。どれだけ坐禅をしようがお前はお前じゃ。」
この一言が、馬祖禅師の坐禅に対する向き合い方を大きく変え、後に馬祖禅師は歴史に名を残す名僧となっていくのでした。
結果を求められる現代に坐禅が目指すもの
このエピソードは「磨磚作鏡」という禅語と共に語り継がれ、今も坐禅をする人々に多くの教訓を与えています。
人には、それぞれ理想の姿、憧れの姿というものがあります。
小さな頃に見た戦隊ヒーローや、憧れのアイドルや歌手、スポーツ選手や、時には友人や先輩など、「あの人のようになりたい!」という思いは誰もが一度は抱いたことがあることでしょう。
我々僧侶の信仰もお釈迦様に対する憧れと言っても良いかもしれません。
ただし、何かになりたい、結果を出したい、成績を残したいという目標は必ずしも達成できるものではありません。
するとそこで達成できなかった自分という存在が露わになり、「あーじゃなきゃダメだ、こーじゃなきゃダメだ」という自己否定が始まるのです。
もちろん、そうした悔しさや挫折というものは人を強くし、可能性を広げてくれるものでもあります。
僧侶という道だって、志と、それに見合わない自分とが両足のように交互に現れるからこそ前に進むことができるのです。
目標を持って生きる、目標に向かって生きることは、時にやりがいや生きがいを生むこともあります。
私はそんな生き方を一切否定しません。
むしろ素晴らしいことだと思います。
ただ、目標に追い詰められて「今」の自分の命をないがしろにしてしまっては本末転倒なのでは?と思うのです。
そうした、理想を追いかけることをやめるのが坐禅です。
足が痛ければ組まなければいいし、眠いなら眠いで仕方ない。
頭に浮かぶことはどれだけ嫌がったところで浮かんでくるものです。
普段無意識のうちにやっている「あーじゃなきゃダメ、こーじゃなきゃダメ」を離れて、良くても悪くても私は私と思って「今」ここにいる自分という存在を満喫してみてはいかがでしょう。
実は坐禅が目指すものとは何かを目指すことをやめることだったのです。