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久々のミーム考は「ポリコレ棒」。
「ポリコレ」とは「ポリティカルコレクトネス」の略語で、「政治的公平」「政治的妥当性」などと訳されます。
訳語を見てもよくわかりませんが、要するに「差別や偏見に十分配慮した言葉を使おう」ということです。
グローバル化が叫ばれて久しくありますが、異文化の距離が近くなった現代にあって、ポリティカルコレクトネスは多様性を受け入れるために必要なものだと思います。
不寛容な社会を、寛容な社会に変えること。
これがポリティカルコレクトネスの大きな目的だと私は考えています。
一方「ポリコレ棒」とは。
「ポリティカルコレクトネス」に反することを理由に、他者を糾弾することです。
この答えは、行き過ぎた「ポリティカルコレクトネス」指向が、他者を糾弾する武器となっている現状を示しています。
Contents
「たたく」社会と「ポリコレ棒」
インターネットが普及して以来、日本の社会はとにかく「たたく」社会へと変わったように思います。
「炎上」と言えば、かつては吉原くらいしか思い浮かびませんでしたが、SNSが普及した今「炎上」は誰にとっても身近に起こりうる問題です。
どうしてここまで「たたく」のか。
その理由は様々考えられますが、1つには自分の正しさを認めさせたいという心があるように思います。
ネットで様々な意見が飛び交う中で、自分の正しさをわかりやすく証明するには、他をたたき潰してしまうのが近道です。(勝者は正しく、敗者は間違っている……!圧倒的二元論……!)
このような状況はネットにとどまりません。
テレビのワイドショーなどで、行き過ぎた批判が人格否定にまで及んでいるケースもしばしば目にします。
子どものころ、間違いを犯した人を「い~けないんだ!いけないんだ!せ~んせ~に言ってやろ!」と責め立てた、なんて経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
このような、間違えた人はどれだけ責めてもいいという風潮に嫌気がさしている人も多いと思います。
そして「ポリティカルコレクトネス」は、差別というわかりやすい悪に対するわかりやすく強力な正義です。
言ってみれば「ポリティカルコレクトネス」は小学校の先生みたいなものかもしれません。
子どもが、先生の権威をかさに他人を責め立てるように。
「ポリコレ棒」で叩けば、誰でも正義の執行者となれるのです。
「ポリコレ棒」が叩いているもの
差別や偏見は悪です。
あえて言うまでもないかもしれませんが、世の中にある差別や偏見を解消し、不当な扱いを受ける人を減らそうというのは少しも間違っていません。
しかし、ここで改めて確認しておきたいのは「ポリティカルコレクトネス」は差別的表現が世に出てくるのを止めるだけのものだということです。
もちろん、差別的な言説・行動が表に出ないということは、差別解消に一定の効果はあるでしょう。
しかし、誰もが大なり小なり心のうちに持っている差別心や偏見は「ポリティカルコレクトネス」だけで解消できるものではありません。
「ポリティカルコレクトネス」によって実現されるのは差別のない社会ではなく、差別の見えない社会のような気がします。
そして「ポリコレ棒」は差別を叩くように見せかけて、人格を打ちのめし排除するものです。
より多くの人が受け入れるためにポリティカルコレクトネスがあるのに、差別をしている人そのものを排除するために使われるのなら、ポリティカルコレクトネスの意義は「戦争をなくすための戦争」のように矛盾に満ちたものになってしまいます。
分別の中に生きてしまう私たち
私たちは自分が生きる中で、いい・悪い、好き・嫌いを常に判断しています。
その中で、いいもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなものと、線引きが発生してしまうのもまた自然なことだと言えるでしょう。
その線引きのハザマで苦しむのが仏教の考える人間の姿です。
仏教では人間の理性によるこうした価値判断を「分別(ふんべつ)」と呼び、人間の苦しみの原因の一つと考えます。
分別を離れ、執着を手放し、なにものにも囚われずあるのが仏教の求める理想の姿の一つです。
私たちは自分が正しいと思うと、ついその考えを誰かに押し付けたり、あるいは意見の違う人を責めたりしてしまうことがあります。
一方的な善の立場から、他者を悪として貶める「ポリコレ棒」は、実は誰もが心に持ってしまっているのかもしれません。
正しさに溺れることなく毎日を生きていきたいものです。
おしまい♡