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去る12月25日

禅活のワンマンクリスマスこと久保田は、帰省のついで、札幌の街中をポツポツと歩いておりました。

クリスマスの賑わいの中、たったひとり行くあてもなく街をさすらう久保田。

中学の3年間に始まり、その後、浪人時代、大学時代、修行時代と人生の大半を過ごした札幌の街を歩いていると、様々な想いが胸に去来してまいります。

「まだあのお店やってたんだなあ。」

「この辺りも変わっちまったなあ。」

そんな懐かしさに浸りながら街を歩いていると、ふと一枚の看板が目に入りました。

「ああ、そう言えば……」

今回はかつて札幌でよく見かけた、ある托鉢たくはつ僧の話をいたします。

初めて目にした托鉢僧の衝撃

その托鉢僧を見かけたのは、今からおよそ10年前のこと。

場所は札幌の狸小路商店街です。

当時私は大学に通っていて、普段は仏教と無縁の生活を送っておりました。

アーケードに覆われた全長900mもある狸小路商店街は、札幌の名所の一つ。

近年は海外からの観光客の増加ということもあって、平日も休日も関係なく、人で賑わっています。

仲の良かった友人と商店街を歩いていると、リンリンと、何とも場違いな鈴の音が聞こえてきました。

音の発生源を探すと、そこには黒い衣を身に着け、網代傘あじろがさ目深まぶかにかぶった一人の僧侶兀然こつぜんと立っていました。

「これはいわゆる托鉢……か?」

托鉢僧を目にするのはこれが初めてのことでした。

子どものころ大好きだったアニメ、「一休さん」で托鉢に出る描写がたびたびありましたが、それはあくまでアニメの、しかも異なる時代のお話

自分の日常にほど近いところで托鉢の姿を目にするとは全く想像しておらず、ひたすら般若心経を唱え続ける僧侶の姿に強い衝撃を受けました。

「なんだか、すごいものに出くわした!」

まるでその僧侶の周りだけ街の喧騒から切り取られて、神聖な空間が現れているかのような感覚でした。

消えた托鉢僧

それからというもの、用事があって狸小路に行くと、3回に1回はその僧侶を目にするようになりました。

出会う時刻はだいたいお昼から夕方の間。

おそらくは3~4時間くらい、その場で読経を続けているのでしょう。

その姿を見るたびに、ねぎらいの思いと、仏教の「頼もしさ」を感じていました。

自分が目にしない時でも、きっとこの僧侶は世の中やそこにいる人たちのために祈っているのだろう。

仏教が身近にあることをありがたく思いました。

……そして季節はめぐり、北海道に長く厳しい冬がやってきます。

さすがにこの寒さだ。今日は托鉢をやっていないだろう。

案の定、狸小路商店街でその托鉢僧の姿を目にすることはなくなりました。

「次は、春かなあ。」

と、思っていたのですが、その托鉢僧は札幌駅の地下街のはずれで、相も変わらず托鉢を続けていたのです。

そこは地下街で屋根があるとはいえ、出入口に近く、じっと立ち続けるには寒さがこたえる場所です。

それでもなお、托鉢を続ける僧侶の姿が私にはとても尊いもののように思えました。

ところが……

ある時を境に、その僧侶の姿を見ることはパタリとなくなってしまったのです。

望まれぬ托鉢

「もうやめてしまったんだろうか。残念だなあ。」

そんな風に思っていましたが、それから数週間ほど経って、その僧侶が托鉢をやめてしまった理由が判明します。

それは、いつも僧侶が立っていた場所に掲げられていた看板でした。

「この通路での托鉢行為は、ご遠慮ください。」

近隣の百貨店とパチンコ店、駅の開発会社によるその看板は、「托鉢」「迷惑行為」の一つであるかのような書かれ方で掲げられていました。(“行為”とつけるだけで、一気に印象が悪くなる)

「ご遠慮ください」と、柔らかめの文言であることから、大きな問題になったということはないと思いますが、ともかくそれ以降、その托鉢僧を札幌で見ることはなくなりました。

無許可だったのか、苦情があったのか、営業妨害になっていたのか、はたまた単に目障りだったのか……。

看板が掲げられるに至った詳しい理由まではわかりません。

あれから10年ほど経ちましたが、今でもその看板は同じ場所に掲げられています。

ちなみに、これは余談ですが、托鉢僧が姿を消して以降、その場所では夜22時から24時くらいまで、音楽を鳴らしてダンスの練習をする若者の姿が見られるようになりました。

(不思議なもので、こちらは注意された様子もなく、その後しばらくは同じグループがダンスの練習を続けていました)

日本の法律と周囲の理解

さて、現代の日本では「物乞い」は法律によって禁止されています。

日本国民は憲法において勤労の権利が保障されると同時に、その義務も負っています。

僧侶の「托鉢」が認められるのは、托鉢が同じく憲法によって保障される「信教の自由」のもと行われる「僧侶の業務」の一種であると考えられるためです。

深澤の「永平寺から無一文で歩いて帰るもん。vol.5」で、駅前で托鉢をする際に事務所に許可を求め、身元保証書と本山からの許可証を提示する場面がありましたが、これは「托鉢」の適法性を保証するためと言えるでしょう。

しかし、いかに「適法」であろうとも、周囲の理解を得られるかどうかは別の話です。

また、あの僧侶の托鉢が宗教心の伴わない「職業托鉢」だったという可能性がないわけではありませんが、托鉢が「迷惑行為」として排除されたという事実に違いはありません

それは、私にとって「仏教そのものがもはや必要とされていない」と言われてしまったように感じられ、それだけにショックでした。

時に日本の仏教が「葬式仏教」と揶揄され、僧侶個人のスキャンダルが取りざたされる中で……あるいは現代僧侶の肉食・妻帯などが批判を浴びる中で……それでも仏教という教えやそれにしたがって生きる人々への信頼は社会に根付いていると、当時の私は思いこんでいたからです。

「行」と「行為」

「托鉢」ですら「迷惑行為」と見做されてしまう。

ついネガティヴに捉えてしまいがちですが、この現実はある一つの教訓を与えているようにも思えます。

曹洞宗の教えでは、私たちが送る日常のすべて……食事から睡眠に至るまで、そのすべてが仏教者としての修行、すなわちぎょうであると捉えます。

目的の「為の行い」である行為に対して、行とはそれを行うこと自体が目的であり、ゴールであり、自分の生き方となるものです。

だからこそ、一つ一つ大切にして、決しておろそかにしてはならないと言うのです。

しかし今年一年の自分を省みて実際にどうであったかと言えば、様々な行いをおろそかにしてきたことが思い当たります。

ある時は食欲の為、またある時は怒りの為

無料という文字を見ただけで反射的に大盛りにしたり、相手の迷惑も考えず愚痴をこぼしたりしてきました。

ぎょうではなく「行為」を積み重ねてしまいました。

今なお掲げられている「この通路での托鉢行為はご遠慮ください」の看板は、大切なはずのぎょうも、一つ間違えれば簡単に「行為」に転じてしまうのだ、と警鐘を鳴らしているものなのだと捉えるべきなのかもしれません。

クリスマスに札幌の街をひとり歩きながら、あの托鉢僧を思い出し……

来年は自分を省みつつ日常の一つ一つをぎょうとして過ごしていこうと思いました。

それでは皆様、よいお年をお迎えください。

今年もありがとうございました。

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