「ヤジ」を考える

参議院議員選挙を翌々日に控えた、去る7月8日。

応援演説中の安倍元総理が、銃による襲撃を受け、亡くなられました。

歴代最長となる8年8か月もの間、わが国の首相を務められた安倍氏が、

このような形で命を落としてしまったことは多くの方に大きなショックを与えたことと存じます。

本記事の執筆にあたり、まずは安倍晋三氏のご冥福をお祈り申し上げます。

 

さて、今回のテーマを「ヤジ」としたのは、

安倍元首相の警備に「ヤジ排除」地裁判決は影響したか? 元警察官僚の弁護士の見方

「選挙の現場で職務質問をやらなくなっている」安倍元総理へのヤジ排除裁判の敗訴が影響? 手薄にみえた警備に政治記者が持論

これらのインターネットニュースを目にしたことが理由です。

 

ことの真偽はともかく、

これがきっかけで、「ヤジ」について考えてみようと思いました。

基本的にヤジは好きじゃない

そもそも私は一部の例外を除いて、ヤジという行為が好きではありません。

 

特定の人物・団体を一方的に貶め、そしる目的で行われるヤジ。

そこに込められた悪意や敵意に、耐えがたい不快感を覚えるからです。

 

たとえば、私の大好きなプロ野球では、かつてヤジは風物詩のようなものでした。

 

「ひっこめー!」

「くたばれー!」

「このハゲ―!」

 

といった、罵声ならまだかわいいほうで、

 

「借金で生活苦しいんだろ?これやるわ!(10円を投げつける)」

「奥さんに逃げられたらしいなー!」

 

という選手の尊厳やプライバシーを踏みにじるようなものまであったと言います。

 

球場や、あるいはテレビ中継でこういった声が聞こえてくるたびに、本当にイヤな気持ちになっていました。

 

しかし、そういったヤジも現在では少なくなってきているようです。

 

今はコロナのこともあってヤジ自体が難しい状況ですが、

かつてよく聞かれた、

 

「○○(球団名)倒せ!オー!」

 

というコールは段々使われなくなってきています。(使用している応援団もありますが)

この背景には多くのファンたちが、ヤジによる悪意や敵意の応酬に辟易としてきていることがあるのではないでしょうか。

実際に、

 

「倒せコールは嫌いだ」

「ヤジがひどい球団は応援できない」

 

という声もよく聞かれます。

 

不満や鬱憤をヤジという形で発散させたいという気持ちも確かにわかりますが、

こうした「汚いヤジ」は対象の通常の行動を妨げ、精神面から攻撃する妨害行為です。

それに肯定的な感情を持つことは、私には不可能です。

「いいヤジ」もある

とはいえ「ヤジ」の中には、

 

思わず納得させられてしまったり、

ついクスリと笑わされてしまったり、

何かしらの気づきを与えてくれたりするような、

 

「いいヤジ」もあります。

 

プロ野球なら、

 

「振らなきゃ当たらんぞ!」

「いっちょ前に悔しがってんじゃねーぞ!胸張れー!」

 

と選手に奮起を促してみたり、

 

「構えでサインばれてるぞ!」

 

と、選手のクセを指摘してみたり、

 

「今日はススキノ禁止だ!」

 

と、選手の大好きなススキノを禁じてみたりする。

こうしたものは「いいヤジ」と呼べるのではないでしょうか。

 

「いいヤジ」の条件には、

 

物事の核心を突いている、

言葉のチョイスが絶妙、

周囲を不快な気持ちにさせない、

相手へのリスペクトがある、

 

などが挙げられると思います。

 

逆に言えば、これらがないヤジは、ただの罵声、絶叫、悪口、ぼやきの域を出ません。

 

仮に、ヤジを一種の自己表現だと認めるにしても、

その発露が罵声、絶叫、悪口、ぼやきだというのはあまりにダサいと感じてしまいます。

ヤジを「適切な表現」として昇華させるためには

私は、ほとんどの場合、ヤジは表現として適切ではないと考えています。

悪意や敵意に基づくヤジは、

そのまま周囲に悪意や敵意を振りまきます。

 

この記事を書くきっかけになった、選挙戦でのヤジを「適法行為」とする判決。

(※ヤジを理由に、男女2名をその場から遠ざけた警察の対応に違憲判決が出た)

 

この判決について、私は、

 

ヤジという行為はあくまで「法に適っている」に過ぎず、

品位があるか、

他の人の迷惑になっていないか、

対立や憎悪を増幅しないか、

「倫理や道徳に適っている」かは別の問題だと捉えています。

 

少なくとも私は、

「○○やめろ」

「帰れ」

とヤジを飛ばすことに、品位や正当性を感じることができません。

 

また悪意や敵意によるヤジは、妨害行為以上の意味は持ちません。

それがその人にとっては重要な意志表示だとしても、あくまで意志を表示しただけで伝わらないと思います。

なぜなら、ヤジられる側には、相手にしない以外に適切な対応がない場合が多いからです。

 

ヤジを認めないことは、民主主義の後退につながるという主張もあります。

一方で、あらゆるヤジを、あらゆる場で表現の自由の名のもとに認めてしまったら、

まともな議論は成立しなくなり、混沌と対立が深まり、

それこそ民主主義は衆愚政治へと後退してしまうのではないかと思います。

 

政治に物申したいというのであれば、

投票する、立候補する、

意見書や署名を集めて送る、SNSなどで自分の意見を発信する、

公開討論会に参加する、

対立候補を応援する、

などが適切な表現と言えるのではないでしょうか。

私は、選挙戦に限らず、何かしらの表現をするにあたり、

最終的に「ヤジ」に頼らざるを得ないという状況はまれであると考えます。

 

その中でもあえて

「ヤジ」という表現を選択するのであれば、

自らの言葉から悪意や敵意を排除し、

短く、センス良く、相手が応えざるを得ないほどの重大な指摘をする。

こうしたことが必要になると思います。

おわりに

私たちが口にする言葉は、大きな影響力を持ちます。

使い方を誤れば、

言葉は「口中の斧」として、

人や自分をも切り付け、傷つけます。

 

一方で、真に人のことを思いやって、優しくかけられる言葉は、

「愛語」として、

時に人を正しい道へと導くほどの力をも持ち得ます。

 

言葉が持つ力。

 

常に使い続けるからこそ、その影響力を意識しつつ、

正しく使っていきたいものです。

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