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今回の記事は、去る11月22日に千秋楽を迎えた、大相撲11月場所がテーマ。
大ファンである大相撲をきっかけに久保田が得た、とある気づきについて書いていきます。
Contents
11月場所振り返り
それでは今場所をざっと振り返るところから始めたいと思います
普段であれば九州で行われるはずだった、11月場所。
今回は新型コロナウイルスの影響のため東京国技館で行われ、15日間の激闘が繰り広げられました。
場所前から休場を決めた両横綱に加え、場所中にケガをしてしまった朝乃山関、正代関の2大関が休場となった11月場所。
相次ぐ休場によって見どころに欠ける場所になってしまうのではないか、そんな心配をよそに今場所も力士たちの熱い戦いが繰り広げられました。
ケガから復帰した返り十両の宇良関が、持ち味の「反り技」を披露したかと思えば、
これまたケガを乗り越えた元大関の照ノ富士関が「吊り出し」「きめ出し」という豪快な技を見せつけつつ、優勝決定戦までもつれ込ませた展開は、1億2千万の相撲ファンを魅了しました。
また前頭17枚目で幕尻の志摩ノ海関も粘り強い取り口で、最後まで優勝争いに絡む健闘を見せてくれました。
一方で切ないニュースもありました。
元小結臥牙丸関の引退、元朝潮の高砂親方の定年……
そして、優勝経験もある元大関の琴奨菊関の引退です。
激しい立ち合いから、安定した身体を十分に使った一気の寄りは未だに熱く目に焼き付いています。
そして先場所、新入幕ながら11勝を挙げ、台風の目となった翔猿関。
星こそ6勝9敗と振るわなかったものの、優勝した貴景勝関に土をつけ、新関脇の隆の勝関や小結(元大関)の高安関を破る健闘を見せ、今場所も大いに盛り上げてくれました。
そして優勝は大関の貴景勝関。
場所前に結婚していたということもあってか、今場所の貴景勝関の相撲にはいつも以上の迫力がありました。
来年の初場所がどのような展開になるのか、
進退のかかった両横綱はどうなるのか、
場所が終わったばかりですが、今から楽しみで仕方ありません。
場所中のもう一つの楽しみ
さて季節外れの熱さを見せた11月場所。
本場所が楽しくて仕方ないのはいつものことですが、場所中の楽しみはもう一つありました。
それは元横綱、北の富士勝昭さんのコラムのチェックです。
場所中の15日間に毎日更新され、世相を斬りつつ、相撲について語り、最後はその日の晩ごはんを書いて締めるというコラム。
(↓リンクはコチラ)
北の富士コラム はやわざ御免
「今日の大相撲について北の富士さんは何と言っているかな?」
と、毎日読み進めているうち、
私、久保田はすっかりファンになってしまいました。
北の富士さんのコラムの最も大きな魅力はその自由さです。
変幻自在の文章で毎回読者を幻惑し、
テレビ中継の解説の際には、そのニヒルな諧謔味がはじめは気になる部分もありますが、
それも次第に癖になってきます。
大相撲が終わった夜は、インターネットで北の富士さんのコラムをチェックする。
そんなある日、元横綱・北の富士勝昭さんのコラムによってある大きな気づきがもたらされました。
北の富士さんのコラムを読んで気づいたこと
その気づきとは……
いいコラムを書こう、なんて北の富士さんはかけらも思っちゃいない!
ということです。
このように感じさせたのは、この日のコラム。
『弓の矢も引かなければ飛びません…』新小結のころ故坂田藤十郎さんにもらった言葉は今でも忘れない【北の富士コラム】
揚げ足を取るような内容にもなりかねないので、あらかじめ言っておきますが、私はこのコラムを読んで、目からうろこが落ちる思いがいたしました。
その内容とは……
読んでみると、書き出しから相撲の話をする気配が、
まるでありません。
記事の書き出しが、ゴルフのマスターズと坂田藤十郎さんが逝去されたというニュースの振り返り。
ほとんど相撲とは関係のない話題ですが、自由な北の富士さんのことですから、そういうこともあるかとこの時は思いました。
その日は翔猿関が貴景勝関を破った相撲をはじめ、熱戦が多かったことから、最後はしっかり相撲のことについて書いてくれるだろうと思っていたのですが……
そこからがすごかった!
「今夜は先約がありますので時間もありません。少しは相撲のことも書かなければいけません。」
……ん?相撲がオマケなの?
「今日は本当に熱戦が多く、全部書きたいぐらいですが、結びの貴景勝と翔猿の相撲を振り返ります。」
……え?全部書きたいの?
「もっとほめたいが、制限時間いっぱい。それでは行ってきます。」
!?
いやいや!
記事の前半、相撲と関係ない話をずっとしてましたよ!?
というか、記事の8割が相撲と関係ない話ですよ!
しかも、数日前の相撲中継では、
「なんだか凡戦が多いなあと思いました」
と残念そうにコメントしていた北の富士さん。
じゃあ、熱戦が多かった日は相撲の話をしてください!
と、コラムを読みながら思わずツッコミを入れてしまいました。
しかし、それと同時に気が付いたのです。
「これくらい自由に書いてもいいのではないか」
と。
知らぬ間に記事の「出来」に囚われていた
毎週アップロードしている禅活ブログの記事。
先日、久保田も累計50本の記事を書きましたが、さすがにそれだけ書いていると、いささかネタ切れの様相も呈してきます。
毎回頭を悩ませながら記事を書いているうち……
「今日は何をテーマに書こうか」
「前回とは違う仏教語を紹介しよう」
「大変だ!笑いどころがない!」
このように。
気が付けば、コラムの出来不出来に囚われている自分がいたのです。
うまく書けないこともあるのですが、そんな時は「こんな記事を上げたら恥ずかしいなあ……」と。
知らないうちに、いっぱしの作家気取りで「上手な」文章を書こうとしている自分がいました。
私はいい文章、悪い文章を自分の中で勝手に決めつけて、評価していたのです。
しかし、自己評価の優れた作品が必ずしも名作となりえないというのはよく聞く話で、自分の評価ほど頼りにならないものはありません。
私は自分の書いた文章の出来に必要以上にこだわり、自己評価の枠の中で苦しんでいたのです。
まとめ
仏教の大切な教えの一つに、中道があります。
中道とは、両極端を離れ、ただ単に真ん中を取るというだけの意味ではありません。
善悪・是非・有無といった、比較によって成り立つ価値観から離れた上で、ものを見ることであると私は理解しています。
もちろん、比べるということは、時に私たちが生きる上で必要なことでもあります。
しかし、その比較という行為が行き過ぎることによって、必要のない囚われや苦しみも生まれてしまうのだ、と、
北の富士さんのコラムを読んで、あらためて気づかされました。
それでは皆様、
来場所まで2か月弱もありますが、
四股でも踏みながらゆっくりと待つことにいたしましょう。
はー、どすこいどすこい。