1月28日に初開催された【一行写経と法話の会】では、諷経の後に15分ほどの法話を聞いていただきます。

実際の様子は以下の記事をご覧ください。

ここでお話した法話はこれから毎月このウェブ上に掲載いたします。

早速今回は私西田がお話しした「心を浄める生き方」という法話をご覧ください。

仏教の広がりと七仏通誡偈

今月よりここ、東長寺様で月に一度「一行写経と法話の会」を開催させていただくことになりました。今回は第一回ということで、皆様に「仏教とはどんな教えか」ということをお話しさせていただきます。

二五〇〇年前のインドでお釈迦様によって説かれた仏教はそこから様々な地域に広がっていきました。インドから南に向かって伝わった仏教は上座部仏教としてタイやミャンマーなどに今も伝わり、北に向かって中国、朝鮮、そして日本へと伝わり、大乗仏教として今の私たちに伝わっています。そしてその過程で仏教はさらに枝分かれをして宗派が生まれ、日本でも代表的なものだけで十三の宗派があります。

これだけの広がりを見せた仏教ですが、どの国のどの宗派にも共通する、仏教という教えを端的に示した短い詩があるのをご存知でしょうか。七仏通誡偈しちぶつつうかいげといいますが、どのようなものかというと、「諸悪莫作しょあくまくさ 衆善奉行しゅぜんぶぎょう 自浄其意じじょうごい 是諸仏教ぜしょぶっきょう」という十六文字だけの一句なんです。ここにお釈迦様の教えが集約されているのですが、その意味は簡単にいうと「悪いことをせず、いいことをして、心をきれいにする。これが諸仏の教えです。」というとてもシンプルなものです。しかしシンプルなだけにかなり漠然としているようにも思えます。「悪いことをせず良いことをする」というのはまだわかるとして、心をきれいにするとはどういうことなのでしょうか。今回は七仏通誡偈の中でも「自浄其意」という部分に関して、修行から学んだことをお話をさせていただきます。

修行時代とチョコレート

私は駒澤大学を四年で卒業し、二十二歳の時に福井県の永平寺での修行生活に入りました。お寺に生まれたものの、ごく普通の生活を送ってきた私にとって、永平寺の生活は辛く感じることが多々ありました。特に辛かったのが食事です。肉魚卵を使わない精進料理と細かな作法が私を苦しめました。日本に曹洞宗を伝えた道元禅師が、この作法を定められた鎌倉時代には、物も豊かではなかったので、精進料理を質素とは感じなかったことでしょう。しかし、平成生まれの私にとってはコンビニやファストフードがあるのが当たり前で、大学生の頃は食生活に制限や細かい作法などありませんでした。そのため、それまでの自分の生活を悔やむほどに、生活習慣の差は大きく、私はコンビニのチキンや牛丼など、学生の頃によく食べていた物に思いを馳せていました。

その中でもかつてないほどに食べたくなったのが、甘いものです。疲れなのかストレスなのか、砂糖でもいいからとにかく甘いものが欲しい、そんな日々が続いたある日のこと。大学からの知り合いである同期の修行僧の一人が、先輩修行僧から内緒でチョコレートをもらってきたことがありました。彼は電気の消えた部屋に私を含めた数人を集め、小さな包みに入ったチョコレートを一つずつ配りました。その様子はさながら闇取引をしているようでしたが、そのおかげで私も久しぶりにチョコレートを口にすることができたのです。その甘さに、その日怒られたことや辛かったことも吹き飛ぶようでした。「ああ、今日はなんていい日なんだ」そう思いながら部屋を出ようとすると足に何かが当たりました。つい先ほど手にした、幸せをくれたあの四角い包みが一つ、落ちていたのです。人間とは恐ろしいものです。つい先ほどまで一つのチョコレートで「今日はいい日だった」と思えていたのに、周りに人が居ないところでもう一つ目の前に落ちている、そう思った時にはもうそれを拾って包みを開け、口に入れていました。それは一つ目のチョコレートと同じように、口の中に甘さが広がっていきました。

しかし冷静になった時に襲ってきたのが、自分に対する落胆でした。それまでの私は周りから「良いやつだなあ」と言われることがあり、自分でも少なからず自分は「良いやつ」だと思っていました。しかし永平寺に来てからの私はどうでしょう。食べ物に限らず、少しでも長く眠るため、先輩に怒られないため、などと常に自分のことばかり考えている自己中心的な人間でした。本当に追い詰められて初めて自分の汚い部分が垣間見え、私は自分が嫌な人間に思えました。そして友人や家族と離れて福井の山奥まできて何をやっているのだろうと、惨めで仕方がありませんでした。

そしてある時、本を読んでいる時に七仏通誡偈と出会いました。わずか十六文字のその言葉の意味はと言うと

諸々の悪をなさず、多くの善を行い、自らその心を浄める。これが諸仏の教えである。

この言葉を読んで、今の自分は真逆じゃないか、と私は思いました。辛いのはみんな同じなのに自分のことばかり考えて行動をして、自分が嫌になっている。さらに考えてみれば自分はこれまで、身近な人には優しくして「良いやつ」と言われながら、実は一方で電車で席を譲るための声すらかけられないような人間でした。自分で善人だと思っていた私は実は自分の都合の良い時だけ善人のふりをする偽物だったことにまで気づかされたのです。そう思ったら僧侶として生きていける人間なのだろうかと、ふさわしくない人間なのではないかと、不安になっていきました。

仏教から生き方を学ぶ

それから私は仏教への向き合い方が変わっていったような気がします。私のような人間が本当に僧侶として生きていくにはどうしたらよいのか、問いかけるような思いで仏教書を開いてみると、今までとはその教えが違って見えるようになりました。大学の頃はテストや課題のために仏教を学んでいましたが、仏教の教えの中に自分の生き方の道標を探し求めるようになったのです。そうして学んでいくうちに、仏教は人の弱さや自分勝手さやずるさを認め、その上で正しく生きるための道を示してくれていることが段々わかってきました。ではその教えをどのように生活に活かしていくのが僧侶として正しいのか、そう考えていくうちに、気づけば仏教は私の生き方の指針になっていきました。

私たちの人生は、日々の行いの積み重ねでできています。「諸悪莫作 衆善奉行」という言葉だけをみると、あまり難しいことではありません。しかしその心に自分勝手さや褒められよう、好かれようという気持ちがある時は「自浄其意」とは言えないでしょう。私が尊敬する奈良康明ならこうめい老師という方は、「心を浄めるとは仏教の真実に身を投じて生きようとする強い意欲と、そのための努力を続けること」とおっしゃっています。仏教で説かれる、自分の心が欲望に振り回されることのない生き方を願って生きていくことが心を浄めることであり、それが自然と「諸悪莫作 衆善奉行」になっていくのです。

今思えば、私は拾ったチョコレートを食べて後悔したあの時、初めて僧侶として、仏教徒として生きていく道の入り口に立ったのかもしれません。学生時代の自由な一人暮らしから修行道場へ移って、その生活のギャップの中で苦しみ、追い詰められたことで自分の心の汚れと向き合えたことで、私は初めて自分が心を清めなければならない人間に思えました。それまではそもそも自分の心にそんな汚れがあることにすら気づかず、浄めるべき自分の心と出会えてなかったのです。そして自分が嫌になるような汚れに気づいたからこそ、生き方として仏教を学ぼう、仏教に生きようと思えました。そして実は私は自分の心の汚さに気づいたあの瞬間からの修行の一日一日、そして今がまさに、自らの心を浄める日々の中にいたことに気が付きました。

困難な道を行く

言っていることはわかるけど難しいよ、と思われると思いますので最後に一つあるエピソードをご紹介します。昔中国の山奥に住んでいた鳥窠道林ちょうかどうりんという僧侶の元を尋ねた白楽天という詩人が仏教とはどんな教えかを尋ねると、「諸悪莫作 衆善奉行」と答えたそうです。尋ねた方は拍子抜けして、「そんなことは三歳の子供でも知っている、馬鹿にしないでくれ」と言うと鳥窠道林は「三歳の子供でも知っているようなことが、八十歳の老人にすら難しい。」言われ、返す言葉がなかった、というお話です。そう、難しいんです。難しくていいんです。大切なのは自分の心の弱さずるさに気づき、それを浄めようという確固たる思いと、それに突き動かされて生きていくということなのです。

仏教というと、その歴史や宗派の多さからたくさんの教えがあり、とても複雑なものように思いますが、実はすべきことはシンプルなものです。しかし同時に行うのは難しいことでもあります。しかしその難しいと思いながら歩む一歩一歩こそが確実に心を浄めているのです。私は最近ようやく、頭で考えるより先に電車の席を譲れるようになりました。まずは自分の心と向き合い、心浄らかであろうと願いながら生きて行く。その道のことを仏教というのだと、私は修行生活と七仏通誡偈から学びました。

 

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心を浄める生き方

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