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ある出来事が年月を経て、自分の中での受け止め方が変わってくる、ということがあります。
たとえば、
「あの時、厳しい言われ方をして、一時はあの人を憎んだけれど、実は自分のことを思って言ってくれていた」
「いつも人のせいにしていたけれど、本当の原因は自分にあった」
など。
今回は久保田が経験した、ある出来事について考えてみます。
Contents
東京都某居酒屋重大事件勃発
もう3年ほど前のことになります。
その日は夕食に東京のとある居酒屋を訪れていました。
店内には私のほかに一組の熟年のご夫婦がいらっしゃって、隣のテーブルで食事を取っていました。
初めて訪れるお店でしたが、提供される料理はいちいち美味しく、また接客担当である年若い男性の店員さんに元気があふれていたためか、気持ちのよい食事の時間を過ごすことができていました。
そんな時、隣から突然……
ガシャーン!「うわあ!」
大きな物音と男性の慌てた声が聞こえてきました。
思わず振り向くと、くだんの店員さんが品物を提供する際に手元を狂わせたようで、ご夫婦のテーブルの上に料理が飛び散っていて、見るも無残な様相を呈していました。
不幸中の幸いか、ご夫婦の服に食べものや液体が付くということはなかったようですが、明らかに狼狽した様子の店員さんは、慌ててこのような謝罪の言葉を口にしました。
「うわあ!ごめん!」
「マジ、ごめん!」
「スーパーごめん!」
……
はて、「スーパーごめん!」とはどういうことであろうか。
とっさのこととはいえ、
「失礼いたしました!大変申し訳ございません!お洋服には付いておりませんか?すぐさまおしぼりをお持ちいたします!」
このような謝罪の言葉が聞こえてくると思った私は、予想だにしていなかった「スーパーごめん!」に笑いを堪えるのに必死でした。
さらに「スーパーごめん」という言葉の軽薄さとは裏腹に、店員さんは必死の形相で後片付けをしています。
人の失敗を笑うのはよくないことだと思いつつも、かえってそう思えば思うほど、言動のミスマッチに不謹慎な笑いがこみ上げてきてしまいました。
一方、ご夫婦は突然の出来事に戸惑っていたようでしたが、店員さんに対して怒りをぶつけるようなことはなく、落ち着いた対応を見せていました。
お店の責任者もやってきて、ご夫婦に対して、今度は丁寧な謝罪を述べて事態は収束に向かいます。
一瞬の喧騒に包まれた店内でしたが、ほどなくして片付けも終わり、その後は何事もなく食事を済ませて店を出ることができました。
とはいえ、ショッキングな出来事にざわついた心はなかなか落ち着いてくれません。
「やっぱり、いくらなんでも“スーパーごめん”はないよなあ」
「でもまあ、きっとあの店員さんにしてみれば、誠心誠意のお詫びのつもりだったんだろう」
「自分だって人の言葉の乱れを嘆くほど、普段からきれいな言葉を選んで使えているわけでもないし、とっさのことならなおさらだ。自分も精々気を付けることにしよう」
事件を反芻しながら、考えを整理しつつ、家に帰りました。
「スーパーごめん」への違和感
この出来事は「スーパーごめん事件」として、私の中でひとつの小さな笑い話として記憶されていました。
しかし、一度は笑い話として整理したものの、その一方でどこか心に「ひっかかる」部分が残っていました。
その違和感は一体何なのか。
時たま「スーパーごめん事件」のことを思い出し、違和感の正体が何なのか考えることがありました。
(いわゆる”言葉の乱れ”がどうしても気になっているのだろうか?)
(いや、もしかすると日本語に不慣れな外国の人だったのかもしれないし、それは責めても仕方のないことだ。)
(粗相をした店員さんが、その場では何らの叱責も受けなかったことか?)
(いや、そもそも自分が店員さんを断罪する立場にはないし、叱られてほしいわけでもあるまい。)
こんな風に自問自答を繰り返すうち、ひとつの推測にたどり着きました。
それは、私が違和感を覚えたのは、おそらくあの「スーパーごめん」がご夫婦へのお詫びの言葉になっていないからだろう、というものです。
本気で詫びるのに「ごめん」「許して」はありえない
そもそも「ごめん」という言葉は、軽めの謝意を表すときに使われる言葉です。
「お客様のテーブルに料理をぶちまけてしまった。」
このような場面で使うことは不適切というほかないのですが、とっさの判断でそれを何とか適切な言葉にしようと考えた結果「マジ」「スーパー」という修飾語をつけて、謝意を強めたということなのでしょう。
しかし「ごめん」という言葉の意味をよく考えてみると、ほぼ「許してください」と同じです。
そこには相手を慮るニュアンスもなければ、過ちを悔いる心も表れていません。
無論、あの店員さんは、申し訳ないという気持ちを抱いていたこととは思うのですが、適切な言葉を用いなければそれは伝わりません。
必死の形相でテーブルを掃除する姿も、「お客様のため」ではなく、「自分のミスをカバーするため」のものに思えてしまいます。
ちなみに……
私は「許してください」はまったく詫びる言葉ではないと考えています。
むしろ、何かを詫びる際にこの言葉を使うのは「あなたに許してもらえないと私が困ります」という、およそ詫びるとは程遠い自分本位な態度のように受け止めてしまうことすらあります。
ですから、いくら言葉を強めたところで、
「どうか!どうか!寛大なお心でお許しください!」
(私のために!)
「お慈悲を頂戴したく存じます!」
(でなければ、困るんです!)
と、言外の意味が見え隠れしてしまうのです。
「詫びているようで、詫びていない。」
これこそが「スーパーごめん」の違和感の正体でしょう。(だからこそ「ごめんね、ごめんねー!」がギャグとして成立するのです。)
詫びているふりになってしまう言葉たち
さて、本気で詫びる際に「ごめん」は論外ですが、その他にも、一般に使われるけれども、意味をよく考えてみると詫びるには不適切と思われる表現がいくつかあります。
たとえば、
「知らぬこととはいえ、失礼をいたしました」
どうして詫びる前に自己弁護をしてしまうのでしょうか。
「遺憾の意」もそうです。
自分の過ちを詫びるのに「残念なことだと思います」はないでしょう。
結局のところこれも「言葉の乱れ」に行きつく話なのかもしれませんが、先にも述べた通り、適切な言葉を用いなければ意図は正しく伝わりません。
それどころか、自分の過ちを「知らなかった」「残念だった」という言葉で塗りつぶしていけば、
自分の中にあったはずの申し訳ないと思う気持ちもいつしか薄れ、消えてなくなってしまうのではないでしょうか。
懺悔(さんげ)
華厳経というお経に、懺悔文という偈文があります。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
この意味は、
私はこれまで数えきれないほどの悪い行いを積み重ねてきてしまいました。
その理由は心の中に貪り・怒り・愚かさという苦しみの根源が常に存在し、
それらが自らの行いに表れてしまったからです。
そのすべてを仏さまの前で心より反省し、悔い改めます。(私訳)
人は誰しも間違いを犯します。
間違いを犯す原因が自分にあり、その結果が行動に表れてしまった。
そのことを素直に認め、しかるべき対象に、しかるべき言葉を用いて謝意を伝える。
当たり前のことですが、こうでなくては詫びるとは言えないのではないでしょうか。
さて今回は、いささか偉そうなことを言ってしまいました。
衷心より、お詫び申し上げます。
「スーパーごめん」
おあとがよろしいようで。