あおり運転の心理と煩悩の関係

スポンサードリンク

昨今のニュースのトレンドと言えば、あの東名高速での痛ましい事件以来となるあおり運転、もとい危険運転。

人から借りた車で危険な運転をした挙句、人に暴行を加えた男性と、それを撮影していた女性、二人の犯人の行為が「悪」であることには全く異論はありません。

ただ連日それだけでニュースが持ちきりになるほどのことなのか、ましてや犯人のSNSやプライベートを探って嘲笑う必要があるのか、という疑問もあります。

あと、個人的には池袋で事故を起こした元官僚の男性が逮捕されないことの方がずっと納得ができなかったりと、まあ報道に関しては受け取り方を気をつけないといけない時代だなあと思わされていたわけです。

ところがそこにこんなニュースが。

事件自体は今年の2019年だったようですが、もうため息しか出ません。

ただし、ここには私も決して笑っていられない重大な問題が含まれています。

そこで今回は怒りに身を任せて過ちを犯してしまった僧侶から考える、仏道修行と煩悩についてのお話です。

Contents

怒りの源

まずはあおり運転に共通する、「頭にきた 」というワード、つまり怒りがどこから来るのかということについて。

仏教では、カッと頭に血が上るような怒りのことを、「瞋恚しんに」と言います。

瞋恚は煩悩の根本とされる三毒さんどくの一つ。

貪欲とんよく・瞋恚・愚癡ぐち

私たちの心に、いつ覚えたともなく生まれる根本煩悩である三毒は、最後には己を苦しめる恐ろしい毒です。

以前、映画「アラジン」から、煩悩が生まれるメカニズムについてご紹介しました。
今回はそのおさらいもしつつ、話を進めます。

煩悩のサイクル

三毒の初め、貪欲とは貪りの心です。

これは対象を自分のものにしたいという煩悩ですが、同時に生存本能でもあります。

食料を手に入れようとすることや恋愛をすることは生き、子孫を残していくのに必要なことですが、これが様々な経験の中で膨らんでいくのが人間というもの。

今日の食料が手に入れば、明日の分も手に入れてしまいたくなる、明日の分が手に入ればあさっての分も…という風に欲が満たされると同時に次の欲が生まれていきます。

ところが誰もが同じ欲を持っているので、今度は思うように欲しいものが手に入らないということが起こると、瞋恚、怒りが湧き上がります。

この怒りは視界を狭め、自分の欲のためにとんでもないことをさせることがあります。

それが愚癡、愚かさです。

自分が欲に振り回されていることにすら気づかず、人を傷つけてでも自分の欲を満たすために過ちを犯してしまう愚かさです。

この愚かさの恐ろしいところは、どんどんレベルが上がって次のステージに進んでいくこと

貪りの心が起こり、それに満たすための瞋りに振り回されて過ちを犯し、その愚かさを咎められること反省することもなく過ぎてしまうと、今度はより大きな貪りの心が起きていくのです。

そのサイクルの中でどんどん自分を見失い、気づけば思いやりのかけらもない自己中心的な人間を作り出すのが三毒の恐ろしさです。

修行生活と煩悩

よく、修行中に煩悩とどう向き合ったかを聞かれますが、修行中の自分というのはこれまでの人生で積み重ねた煩悩が全て吹き出したような状態でした。

それもそのはず。

学生の頃には超贅沢な生活こそしていなくても、食事に困らず、娯楽もあって自由な時間もあるという生活によって、ある程度の欲は常に満たされていたわけです。

しかし、それすら満たされなくなれば、貪りの心が全開になるのは当然です。

ただ、そこで定められた作法や規則、仲間や先輩後輩との関係などの修行道場という環境が、自分に自制と反省を促してくれます。

「周りのみんなも同じように辛いんだ」「修行にきてこんな有様じゃいけない」という風に欲をコントロールできることもあれば、うまくいかずに欲に振り回されて「自分はこんなに汚い人間だったのか」と思わされることもありました。。

しかし、そうして満たされない生活の中に現れた「汚い自分」と向き合うことは修行の重要な要素の一つなのです

自制と反省

また、曹洞宗の修行道場では半月に一回、その間の自分を振り返り、反省する「布薩ふさつ」という行事を行います。

そこでは、懺悔文さんげもんと呼ばれる短いお経で

「自分がその間に犯した過ちは三毒に振り回されて生まれたもので、私はこれを深く反省し、懺悔いたします。」

という旨の言葉を唱えます。

これはお釈迦様がおられた当時から行われていた行事で、僧侶はこうして定期的に自らの過ちを振り返り反省してきました。

さらに重要なのが、この行事は修行僧だけでなく指導にあたる老師方も一緒にお勤めするということです。

煩悩というのは生活のふとした瞬間に現れ、常に私たちを振り回そうとするもの。

修行を長くしようが年長者であろうが、常に自分を反省し、煩悩と向き合うことをしなければいつの間にか取り込まれてしまうのです。

仏道修行には完成がありません。

どこにいようと、常に自分の行動や言動に気を配り、反省をしていればそれは仏道になります。

しかし、どれだけ僧侶の格好をしようが、反省を忘れ、傲慢で傍若無人になってしまえばそれはもう仏道から外れた道になってしまうのです。

あのいつ現れるかわからない「汚い自分」を常に心に留め、ちょっとしたきっかけで戻ってしまうということを覚えておく必要があります。

仏道修行で最も重要なこと、それは自制と反省を続けていくことなのです。

社会に出て気づいたこと

私は修行道場を離れた後、初めて師匠の葬儀の手伝いをしました。

そして師匠と共に初めて葬儀場に行った時のこと。

師匠と共に車を降りると、葬儀場の方が私に駆け寄って「ご住職、お荷物をお持ちします!」とおっしゃるのです。

私はその数日前まで永平寺で老師方や荷物持ちをしていた身だったので、驚いてしまいました。

ましてや、住職は師匠で、私は副住職ですらありません。

そんな修行道場での待遇との差に驚くと共に、恐ろしくなりました。

修行道場から帰ってきた20代そこそこのうちからこんな待遇を受けて、それが当たり前になってしまったらどうなるんだろう…。

注意してくれる先輩もいなければ、気づきをくれる仲間もいない、そんな環境になってみて初めて、自分は永平寺に護られていたことに気づいたのです。

修行から帰ってきて、お檀家さんや葬儀屋さんから持ち上げられて名誉欲の貪が満たされ、ひとたび勘違いしてしまえばあっという間に三毒のサイクルに飲み込まれるでしょう。

そうなればあとは簡単、欲張りで、気に入らなければ怒鳴り散らして、そんな自分の愚かさにも気づかない人間の出来上がりです。

今回、ニュースになってしまった61歳の僧侶は、決して他人事ではなく一歩間違えれば自分の未来の姿になりかねません。

僧侶として社会生活を送ること、それは油断の許されない茨の道であると肝に銘じたいと思います。

 

[adesense]

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事