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11月6日(水)、新宿区四谷にある萬山東長寺、檀信徒会館「文由閣」にて、【一行写経と法話の会】が開催されました。
今回の法話は私、本田真大が「自灯明 法灯明~学びと実践の有り方~」というタイトルでお話をさせていただきました。
Contents
様々な学びのカタチ
法要のお勤め、ありがとうございました。
あらためて、本日こうして「一行写経と法話の会」に足をお運び下さいました皆様に御礼申し上げます。
さて、今日は「自灯明・法灯明」を主題に、「学びと実践の有り方」についてお話をさせて頂きたいと思います。
私たちは生きてゆく上で、様々なカタチで学びを得ながら生きています。
親や先生から学んだり、本や新聞、ラジオやテレビから情報を得て学びとすることも少なくありません。
皆さんには、現在学ぶことを目的として関わっている人や講座はありますか?
人から学ぶ姿勢を表す言葉として「◯◯さんに師事しています」と言う言い方があります。
この「師事」という言葉の意味は「師としてつかえ、教えを受けること」です。
師弟関係というと少し古い言い回しに聞こえてしまうかもしれませんが、こうした「師としてつかえ、教えを受ける」という学びの有り方は、茶道や華道、武道や伝統芸能などの世界では健在です。
そんな師弟関係の代表格といえば、私たち仏教徒にとっては何といってもお釈迦様とその弟子たちです。
お釈迦様とその弟子たち
その人格と深い智慧を慕って、お釈迦様のもとには数多くのお弟子が集まっていらっしゃいました。
そしてその大勢のお弟子の中でも、お釈迦様が身に具えた優れた特徴を受け継がれ、身につけられたお弟子さんは「十大弟子」と称され、特に尊敬されました。
その中でも今日は阿難尊者という方にスポットを当ててお話したいと思います。
阿難尊者ってどんな人?
阿難尊者は、お釈迦様のお父様の弟の子、つまりお釈迦様の従弟にあたります。
お顔が端正でお姿が美しく、今流に言うとイケメンでした。
その上、お声が上品でお心がとても優しかったようです。
言ってみれば福山雅治さんのような方でしょうか?こうなると、女性に好かれないはずがありません。
阿難尊者の、女性に好かれすぎるが故の災難のエピソードを集めた、「阿難の女難」という本が出版された程です。
しかし、さすが十大弟子のひとりです。
そうした誘惑に惑わされることなく精進され、27歳の時には阿難尊者はお釈迦様の付き人、侍者に指名されます。
以来25年、それはそれは献身的にお仕えになり、お釈迦様の御説法の時には、全身全霊で一言一句聞き逃すことのない阿難陀尊者がいました。
その尋常ではない集中力を物語るエピソードがございます。
ある時阿難尊者の背中に腫物ができ、切除しなければならなくなりました。
お釈迦様の説法に集中する阿難尊者を知っていた医師は、阿難尊者がお釈迦様の説法を聞いている最中に手術を敢行したのです。
そしてなんと阿難尊者は手術をされたことさえ知らずに手術を終えたことが経典に残っています。
先ほども触れましたが、お釈迦様のおそばにあって誰よりもたくさんその御説法を聞き、類まれな集中力と記憶力でそれを記憶していたために、多聞第一と言われたのが阿難尊者でした。
実際、現代に伝わっている古い経典の多くは阿難尊者の記憶から紡ぎだされたものなのです。
これはとても凄いことです。
もし、阿難尊者がいなかったら、今、私たちが接しているお釈迦様の教えが伝わっていなかったかもしれません。
また、十大弟子の他の方々は、私たちと比べるとどこか超人的で、自分とは遠くかけ離れた存在のように思えますが、一方で阿難尊者には、私たちに近い別の一面もあったのです。
阿難の悲しみと、私たち
仏教の様々なエピソードを伝える絵の中に、お釈迦様の臨終の様子を描いた涅槃図というものがあります。
お釈迦様がお亡くなりになられた2月15日には、多くのお寺でこの涅槃図を掛けて涅槃会法要をお勤めしますので、皆さんもご覧になったことがあるかも知れません。
この涅槃図には、高い確率でお釈迦様の傍らに横たわる1人の僧が描かれています。
実はそれが阿難尊者なのです。
涅槃図の多くには、亡くなられたお釈迦様の傍らに、悲しみと不安から倒れて気絶している阿難尊者の様子が描かれています。
実は、阿難尊者は十大弟子の中でたったひとり、お釈迦様が生きていらっしゃる間にお悟りを開くことができませんでした。
いわば一人立ちができる状態ではなかったということです。
ですから、お釈迦様のご臨終に際して不安で悲しくて、取り乱し泣き崩れたり、気絶している阿難尊者が涅槃図には描かれているのです。
このエピソードを知って、私は阿難尊者に人間味を感じ、親近感を持ちました。
心から頼りにしていた人が自分の元から居なくなってしまう、そんな時に不安にならない人はいません。
阿難尊者の気持ちは私たちにとって、とても身近なものなのではないでしょうか。
私自身のお話を少しさせていただきますと、私は今年の4月から他の3名と共に所属していた曹洞宗総合研究センターを離れ、曹洞宗の行政機関の職員となりました。
新しい職場で、右も左も分からない私に、一から仕事を教えてくださったある先輩がいました。
その先輩は見た目も性格もクマのプーさんのような方で、とても優しくおっとりしていて、いつも親身になって私を優しく指導してくださる、そんな先輩でした。
ですが、入庁して4ヶ月が経ったある日、私は先輩と別な課に異動となり、まったく違う環境で職務につくこととなったのです。
今まで何をするにも頼りにしていた先輩に頼ることができなくなった私は、悲しみと不安でいっぱいになり、お釈迦様を失った阿難尊者も、今の私のようであったかもしれないと思ったものです。
自灯明 法灯明とは
さて、話を阿難尊者に戻しましょう。
お釈迦様亡きあとの阿難尊者はどうなったでしょうか?
いつまでも悲しみに暮れていたでしょうか?
嘆き悲しんでいたでしょうか?
そうではありません。
実はお釈迦様は亡くなる直前、枕元で悲しみに暮れる阿難尊者に次のようなお言葉を遺されました。
「阿難よ、悲しんではいけない。私が涅槃に入れば、そなたは、これで我が師の言葉は終わった、自分にはもはや師がいないと思うであろう。そうではない。阿難よ、私の亡き後は、私の説いた法と律とが、弟子たちの師である。それを忘れてはならない。このことを常のごとくに記憶して、弟子たちに正しく伝えよ。」
阿難尊者はこのお釈迦様最後の教えを護り、記憶した教えを師として修行を完成し、遂に覚りを開かれたのです。
このことは、『雑阿含経』という古い経典の中にあります。
今日は、その『雑阿含経』の中の一節を、写経していただきます。
當作自洲而自依(まさに自らを洲と作し自らをたよりとすべし)
當作法洲而法依(まさに法を洲と作し法をよりどころとすべし)
(「雑阿含経巻二十四 」)
洲は川にある中洲、文字通り島のような部分をさします。
中国語に訳される過程で洲を灯と意訳し、「自灯明 法灯明」の教えとして尊重されてきました。
お釈迦様は「はかなく限りある私の肉体をよりどころとしてはならない、自分自身をよりどころとしなさい。そして、私が説いた教えをよりどころとして精進しなさい。」と、おっしゃったのです。
この教えに導かれて悲しみを乗り越えられた阿難尊者は、一層の精進を重ねられ、ついにお覚りを開かれたました。
そして持ち前の記憶力を生かして、お釈迦様が生前お説きになられた言葉を、お経として文字に残す事業、つまりお経の編纂事業に多大な貢献をされたばかりか、教団を率いる存在になられたのです。
何を拠り所に生きていくか
私は「自灯明 法灯明」の教えは今の自分のためにあるように感じています。
先輩が側にいた時の私は何か分からないことが有ればすぐに頼り切り、自分の足で立つことを忘れていたのです。
突然の異動でどうすれば良いか分からない状態に陥るべくして陥っていたのかもしれません。
しかし、私が本当に拠り所とすべきはその先輩ではなく、先輩の指導をもとに行動し、自らの足で一歩二歩と前に進む自分自身だったのです。
このことに気付いてから、大変なこともありますが私は以前のように途方に暮れるようなことはなくなりました。
私たちは、様々な人と出会い関わりながら人生の学びを深めてゆきます。
そして出会いがあるということは即ち別れも必ず訪れることを意味します。
しかし、別れても遺された教えを実行してゆくことで、たとえ側にいなくとも共に生きることができるのではないでしょうか。
お釈迦様と阿難尊者の師弟関係は、人ではなくその教えに導かれていく、そんな学びの有り様を示してくださったのかもしれません。
今日はお釈迦様十大弟子のお一人、阿難尊者とお釈迦様の最期のエピソードを通して、「自灯明 法灯明」の教えから学びの有り様をお話させていただききました。
ご清聴ありがとうございました。