仏教経典では、お釈迦様を名医、その教えを薬に例えるという表現がよく登場します。
では、自らが行いによって仏として生きる曹洞宗では、
僧侶はお釈迦様と同じ医者にならなければならないのでしょうか?
今回は、私が仏教をお伝えする立場として悩んでいたこの問題について、
現時点での見解をお話ししたいと思います。
Contents
Dr.ブッダの処方箋
さて、今回のテーマは僧侶以外では今ひとつピンとこないかもしれません。
しかし、仏教を伝える姿勢というのは、自分が学ぶ姿勢とも直結しています。
そのため、これは仏教を信仰・信頼する全ての方に共通するお話だと私は考えています。
それでは本題に入りましょう。
仏教経典では、お釈迦様は人生の苦しみを診察してくれる名医に例えられたり、
ご自身でもそう仰る場面が登場します。
我は良医の病を知って薬を説くが如し。
服すと服せざるとは医の咎に非ず。『遺教経』
私は名医が薬を教えてくれるのと同じように説法するのであり、
その薬を飲むか飲まないかは医者の責任ではないという、
仏教が主体性を重んじる宗教である部分が色濃く現れた箇所です。
人生の苦しみという病に対し、それを治療する薬として教えを説くわけです。
曹洞宗でも『修証義』で「法は良薬なるがゆえに帰依す」とありますし、
お釈迦様→お医者さん
教え(法)→薬
という表現は伝統的な鉄板例えなのです。
自分も医者になる?
では、曹洞宗の僧侶、あるいはその教えを伝えようとする人はどうなるでしょうか。
曹洞宗では、お釈迦様の覚りを坐禅だけでなく生活に表していくという、
言ってしまえばお釈迦様のように生きることを重んじます。
ということは、その教えを伝えるならば私もお釈迦様のように名医にならなければいけないのでしょうか?
実はここに、私の年齢や立場だからこその葛藤があります。
それは、仏教を伝える現場で目の前にする方は、人生の大先輩であるケースがほとんどで、
自分が「薬を教える」という立場で話すのはかなり難しいことなのです。
それは法話をするようになって間もない頃、総合研究センターの実習で伺った特別養護老人ホームで、
自分が本で学んだより遥かにリアルに「老」や「病」、
そして決して遠くないところに「死」を感じている方々の前に立ってよりはっきりしました。
学んだから教える、知っているから説くなんて、今の自分にはとてもできない。
当時20代前半の私にとって、法話や布教活動というもののハードルが一気に上がった瞬間でした。
あのCMがヒント?
そう思っていたところに師匠からアドバイスを受けました。
「今のあなたの立場なら自分の気づきを伝えていくことこそが布教教化だ」
仏教を知識や学びとして教えようとするからいけないんだ、
その年齢で上から教えを垂れてもそう聞いてもらえないぞ、
とビシビシ私の悩みどころの秘孔を突いてきます。
そう考えると、今の自分に課せられた役割とは、医者として薬の処方箋を出すよりもまず
自分自身がお釈迦様の薬を飲んでその効果を実感することなんじゃないか!!
そうか、未熟で悩みも辛いことも多い自分が、教えという薬を飲んで快方に向かったなら
それは説得力があるけど偉そうにならない!
つまり、最近膝の調子が悪かった職人さんがグルコサミンを飲んだら調子が良くなったという
健康食品のドキュメントCMと同じことなのではないだろうか!?と気づいたのです。
あまりに卑近な例を出しすぎてふざけているように見えてしまったかもしれませんが、
私はいたって真面目に書いています。
私はこういう悩み苦しみ(病)がありましたが、
お釈迦様(医者)が説かれたこの教え(薬)によって救われたんですという元患者の姿勢が、
教えを伝える上では重要になるのではないでしょうか。
まとめ
ここまで、お釈迦様が医者に例えられるというところから、自分も同じように医者であるべきか
ということについて考えてみました。
そもそも、お釈迦様自身がとてつもない苦しみを抱えておられて、
修行の中でそれを解消する道を見つけられています。
つまり重症な患者でありながら自分で治療法を見つけ出し、それを広める医者になったようなものなのです。
そう考えたら、まだまだ30歳の未熟な私はお釈迦様の薬を眺めるだけでなくちゃんと飲んで、
身を以て知った効果を伝えていく元患者でいいのだと思います。
そしてそれを繰り返す中で、人からは医者に見える未来もあるかもしれませんが、
自分からなろうとする必要はなかったのです。
これは僧侶でなくとも、仏教を学ぶ人全てに言えることかもしれません。
薬の種類をたくさん知って、飲んだことはないけど人に処方するのではなく、
自分自身がその効能を感じることが大切なのではないでしょうか。
人に伝えるなら、自分にとってどんな効能のある薬だったかを紹介するだけで、
その良さは十分伝わるはずです。