僧侶の立場から「文化の盗用」について考えた

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文化の盗用」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。

ある文化圏の要素や物を、他の文化圏の人間が流用することを指し、特にアメリカなどでは大きな論争のきっかけになるほど、重要視されている問題です。

おそらく、僧侶はもちろん日本人にはあまりピンとこないことかもしれません。

しかし、今後の社会で布教活動をしていくなら、慎重にならなければいけない問題です。

そこで今回は、布教活動に携わる僧侶の端くれとして、「文化の盗用」について考えてみたいと思います。

Contents

そもそも「文化の盗用」ってなに?

文化の盗用(英: Cultural appropriation)が問題となった発端は、アメリカで植民地支配の歴史がある先住民族の文化を搾取的に取り扱ったことでした。

それから、アメリカでは異文化の扱い方について様々な議論が起こり、文化の盗用に関して社会が非常に過敏になっていきます。

その異文化には、当然日本や中国など、アジア圏の文化も含まれます

近年、特に大きな話題となったのがこちら。

 

記憶にある方も多いのではないでしょうか。

アメリカでモデルや女優として活躍する、キム・カーダシアンさんが、自身がプロデュースする補正下着に「KIMONO」と名付けて発表し、大炎上しました。

日本の着物がその名の由来となるわけですが、あまりに着物とはかけ離れており、文化への理解度の低さが取り沙汰され、結局この名称は取り下げれらました。

実は、日本の着物や中国のチャイナドレスを着るだけでも、アメリカでは文化の盗用として問題になるケースがたびたびあります。

この背景には、マイノリティーの権利の侵害や支配に対する反省という、アメリカならではの慎重さがあるのかもしれません。

参考や影響も盗用になる?

しかし、いつしかアメリカではどれだけ敬意があったとしても、マジョリティがマイノリティの文化を取り入れることそのものが文化の盗用として問題視されるようになっていきました。

アーティストが着物のような衣装を着ることや、髪の毛を編むことすらも糾弾されるようになります。

もちろん、異文化を取り入れたり、紹介するときには、深い敬意や理解は欠かせません。

悪意のある扱い方や、利益のために特定の文化をないがしろにすることも許されません。

ただし、特定の文化に影響を受けたり参考にすることすら「盗用」とされてしまっては、自由な創作が不可能になると、行き過ぎた問題意識がむしろ問題視されているのです。

サンプリング大国、日本

この、アメリカを中心に広がる文化の盗用への問題意識は、日本人にはあまりピンとこないのではないでしょうか。

なぜなら、大陸から伝わった稲作に始まり、現代の創作物に至るまで、日本は異文化を取り入れ、独自にアレンジすることで文化を形成してきた国だからです。

仏教ですら、インドから中国を経て伝わったものを、独自の宗教観の中で解釈・発展させてきました。

しかし、これは仏教的には何も不思議ではなく、お釈迦様も当時のインドにあった宗教観や価値感の上に、仏教を説き、それを融和させながら教えを広めました

私の好きなヒップホップカルチャーには、曲を作る際に元々存在する楽曲を取り込んでアレンジする、サンプリングという手法があります。

これは音楽に限らず、ブレイクダンスもカポエイラなどの技をサンプリングしていて、異文化を自分なりに昇華されることで大きな発展を遂げてきました。

日本というのは、このサンプリングが非常に上手な国なのだと、私は思います。

パンの作り方が伝わったらあんこと合わせてあんパンを生み出したように、取り込んだものを丁寧に分析し、サンプリングしてきた歴史が、日本の歴史と言っても過言ではないのかもしれません。

だからこそ、少なくとも私は「文化の盗用」とは敬意と理解のない、雑な文化の流用のことを意味するべきで、敬意と理解のなさを問題視すべきだと考えています。

お坊さんによる「文化の盗用」!?

そこで、翻って自分自身はどうなんだ?という話になります。

特に私は、ヒップホップカルチャーを通した仏教の発信をしているので、ここは非常に気を使う部分です。

自分の好きなヒップホップカルチャーを、自ら踏みにじってしまったらどうしようという思いは常にありますが、現時点ではそうしたお叱りを受けず、比較的好意的に受け止めていただけているようです。

しかし、今後どのような評価を受けるかわかりませんし、人によっては不快に感じるだろうなとも思っています。

実は和尚さんの中には、布教への熱意があるあまりここに意識が届かないケースもあります。

わかりやすいのは「精進料理」の扱い方でしょう。

以前記事にも書いた通り、精進料理は仏教の経典や書物には登場しない名称で、生み出したのは僧侶よりも在家信者の可能性が高いという見方がされています。

また、貴族を中心とした在家信者が仏教行事などにちなんで肉魚・五葷などをを断った「精進そうじ」という期間に食べられた「精進物そうじもの」が原型となっている可能性が高いため、肉魚・五葷を使わないことが最も重要視されていたことは間違いありません。

しかし、この精進料理を、曹洞宗の食の教えの中に根源があるとしたり「気持ちがこもっていれば精進料理」と定義づけてしまう和尚さんも少なくはありません。

これは社会がなんとなく納得しているから問題にならないものの、非常に慎重になるべき事例だと思います。

仏教を広めるために特定の文化を軽んじたり、都合よく歪曲することがあれば、大きな問題となる可能性があるのではないでしょうか。

まとめ

「文化の盗用」という言葉には、たとえ悪意がなくとも、ひとたび指摘を受ければ重大な権利侵害をしたかのように聞こえるニュアンスが含まれています。

そのため、ポリコレ棒のように安易に他人に使う言葉となってしまうと、自由な創作や表現・発言ができなくなってしまうでしょう。

ただし、「今自分はその文化を踏みにじってはいないだろうか」と自省し、一度ブレーキをかける上では非常に大切な考え方でもあるような気がします。

僧侶である私は、布教活動のために何かを傷つけてしまうことのないよう、常に心に留めておきたい問題であると感じました。

参考記事

「文化の盗用(Cultural Appropriation)」、その不完全な用語が担うものとは。【コトバから考える社会とこれから】

 

 

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