【2/18法話】平常心是道ということ

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2月18日に【一行写経と法話の会】の第2回を開催しました。

今回の法話は「平常心是道ということ」というタイトルで、私、久保田が担当いたしました。

「平常心」と言うと、一般には「へいじょうしん」と読まれ「普段と変わらぬ心持ち」といった意味で使われます。

しかし、もともとは禅の故事に由来する、仏道の境地を表現した言葉です。

その場合、読み方も「びょうじょうしん」となります。

落ち着こうと思っても、なかなか落ち着かない私たちの心。

禅僧たちが伝えた「平常心」とは、何なのか?

瑩山禅師のお言葉を引用しつつ、私自身の経験と照らしながら考えてみました。

Contents

煽り運転に思うこと

私は、毎日のニュースをスマートフォンで確認することが多いのですが、最近報道される中で、

運転マナーを逸脱した自動車の悪質運転、いわゆる「煽り運転」が、しばしば取り上げられています。

重大事故を起こした加害者の供述を見ると、「むしゃくしゃしていた」「相手の割り込みに腹が立った」など、自己中心的で些細な理由ばかりで、その結果が痛ましいものとなっていることに、胸が痛みます。

加害者を許せない気持ちになると同時に、どうしてこうも激情に駆られて短絡的な行動に出てしまったのだろう、という疑問も感じます。

そこで、加害者の「むしゃくしゃしていた」という心の状態を、我が身に引き当ててよく考えてみました。

すると、私自身、やり場のない怒りや逃げ場のない苦しみに、人を傷つけかねないくらい追い詰められていた時期があったのです。

一人暮らしと修行生活

それは、大学時代、一人暮らしをしていた頃のことでした。

アパートの管理人さんともめたり、好意を寄せていた相手が陰で私のことをバカにしていたという話を聞かされたり、無気力に陥り部屋の片付けもせず大事なモノを失くしたり……。

思い通りにならないことが積み重なり、いつしか悪循環を生み、気が付けば私の心は常にささくれ立っていました。

街を歩いていて人と肩がぶつかっただけで、殴り掛かりたくなるような衝動を覚えたこともありました。

また、聞こえてくる笑い声の全てが私をあざ笑っているように思え、耳栓をして帽子をかぶりマスクをつけていなければ外に出られないような時期すらあったのです。

それでも、自分を誤魔化しつつ、半年留年することにはなりましたが、何とか大学は卒業しました。

しかし、大学を卒業したからと言って、急に転機が訪れるわけではありません。

一時期の激しい怒りは鳴りを潜めたものの、有り体に言えば、生きていく気力が湧いてこない無気力な状態は続いていました。

こんな私に転機をもたらし、悪循環に陥っていた心を救い、落ち着いた状態にしてくれたのが、修行生活でした。

「修行」と「日常」のギャップ

修行生活と言うと、どんなことを想像されますか?

滝に打たれ、火の上を歩くなどの荒行や、不眠不休で山を歩き、断食ばかりか水さえ飲まない千日廻峰行など、過酷な自己鍛錬を思い起こされる方もいらっしゃるかと思います。

でも、私達曹洞宗の修行は違います。

夜明け前に洗面し坐禅、続いて読経。

それが済んだら、朝のお粥をいただいて、掃除をします。

日中には作務や法要をつとめます。

それら日常生活の一つ一つに作法があり、その作法に則り粛々と専念して執り行う、それが修行です。

実はそれだけなのです

それだけなのですが、それがなかなか簡単にはできません。

現代社会にドップリ浸かって生きてきた者にとっては、生活習慣が違い過ぎるのです。

個室のない団体生活、プライバシーなんてありません。夜、空腹を覚えてもコンビニに行くこともできません。

大好きなファミチキを食べることも夢のまた夢です。

わずかに空き時間があっても、洗濯や着物の繕いをしたり、さらに、お経を覚えたり、法要の練習もしなければならないのです。

自由な時間はトイレに入っている時くらいしかありません。

ときに先輩の修行僧から厳しく叱責されることもあります。

そのような、プライバシーの存在しない生活が、慣れるまでは息苦しく、無理をして身体を壊したこともありました。

なんとか耐えなければ……そんな思いで過ごした日々をよく覚えています。

ところが、修行も数か月が過ぎ、私の身体と意識に変化が芽生えてきました。

修行道場での生活に身体が慣れた頃、それまでつらいばかりだった修行が、むしろ心地良く思えてきたのです。

自由を謳歌していたはずの学生時代、常に不満を感じ、悪循環に苦しみ続けていた私が、プライバシーのかけらもない修行生活の中で、そうした苦悩からほぼ解放されていたのです。

世情を離れ、時間や作法が厳密に定められた生活が、いつしか私の苦悩の原因を取り除いてくれていたのです。

瑩山禅師様が伝えた「平常心是道」

曹洞宗の大本山總持寺を開かれた瑩山禅師様は、ある夜、お師匠様である徹通義介禅師様が「平常心是道」の教えを説かれるのを聞いて、大いなる仏道の境地に至ります。

その境地について義介禅師様に問われると、

黒漆こくしつ崑崙こんろん はしる」

とお答えになりました。

「黒漆の崑崙」とは、真っ黒な玉のことです。

それが「夜裏に奔る」ですから「真っ黒な玉が真っ暗闇の夜に転がっている」ということです。

真っ黒な玉は、間違いなく生き生きと転がっている。

しかし、闇と一体になってしまっていて全く判別出来ない様子です。

瑩山禅師様は、御自身の仏道修行の境地を、闇に融けて見分けが付かない真っ黒な玉の如く、

24時間365日、日常生活の一切が修行であり、修行の中に投げ込んだ我が身が跡を留めていない、と答えられたのです。

すると、義介禅師様が「もう一言言ってみよ」と畳みかけられます。

瑩山禅師様は「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」とお答えになりました。

「お茶の縁に遭えばお茶を頂くことに専念し、食事の縁に遭えば食事を頂くことに専念することです」と答えられたのです。

つまり、瑩山禅師様は、修行とは決して特別な人が特別なことをすることではなく、誰もが平凡な毎日を過ごす中で、その時その時の一つ一つに心を尽くして丁寧に取り組むことだとおっしゃられたのです。

本当に、一所懸命に取り組んでいる時には、「私がやっている」などという思いはありません。

「私」は黒漆の崑崙となって修行という闇夜に融けてしまい、「私」がなくなるのです。

「私」が「私」を苦しめる

先ほど述べた、私自身の学生時代の苦い経験ですが、今思えば、あの苦悩の悪循環を作り上げていたのは、「私は間違っていない」「私をバカにするなんて」「私の思い通りにならないのはおかしい」という、「私」を核にした自己中心的な考えでした。

自由なんて存在しないはずの修行生活が、不思議と穏やかで落ち着いていて、むしろ学生時代よりも苦悩から解放されていたように感じられたのは、日常の一つ一つを作法に則って専念する修行が、苦しみの根源である「私」という我を崩してくれたということなのでしょう。

本日は平常心是道をテーマにお話をさせていただきました。

「一行写経と法話の会」にご参加の皆さまの中にも、慌ただしい毎日の中で落ち着ける時間が欲しい、という動機を持ってやってこられた方もいらっしゃるかと思います。

この後は写経の時間となりますが、墨をすり、丁寧に一文字一文字をしたためるという行いを通じて、きっと穏やかな時間を過ごせることと思います。

以上で法話を終わります。ご清聴ありがとうございました。

 

法話原稿はこちら

一行写経と法話の会原稿「平常心是道ということ」久保田

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