敷居は下げても無くしてはいけないと思う

布教教化活動に携わっていると、
お寺の敷居を下げる
という言葉に出会うことが度々あります。

今回はこの「敷居を下げる」ということと「敷居を無くす」ことの違いについてのお話です。

Contents

お寺の敷居

SNSが普及して以降、布教教化の中に意外性を武器にする手法が台頭してきました。

お坊さんなのに意外と○○!
お寺って実はこんなに○○!
のように、古くからのイメージを覆すような意外性から親近感を得るというこの手法は、
SNSではかなり効果を持っているような気がします。

お前もそうだろ!と言われてしまいそうですが、
実は禅活はグループとして暴露や意外性で売るのはやめようという誓いがあります。(これでも)

お寺や仏教に対する必要のないガードや、漠然とした嫌悪感を取り除くことは重要でも、
一定の敬意というものは無くてはならないと思うからです。

この敬意がお寺の敷居だと、私は思っています。

そして、敬意であるところの敷居が必要な理由は、お寺が宗教施設であるからです。

宗教施設としてのお寺

布教教化の活動をしていると、より広くより多くの人に仏教を!という思いのあまり、
お寺や僧侶の自分が有名になることが重要だと錯覚してしまうことがあります

もちろん多くの参拝者が訪れる大きな寺社仏閣にも素晴らしい宗教施設としての意義はあります。

ところが地方の一寺院に関してはどうでしょうか。

お檀家さんや地元の方が、心を落ち着けたい時、仏様に手を合わせずにはいられない時など、
祈りや誓いのためにお参りをすることも多いでしょう。

人の出入りは多くなくとも、掃除が行き届き、
静けさが保たれた空間だからこそ過ごせる時間があるはずです。

そんな、有名で大きな寺院ではないからこそ、静かに1人で思いと向き合う、
そんな役割を小さなお寺は果たしているのではないかと、私は思っています。

そうした誓いや祈りの空間としてのお寺を保つのが敬意であり信仰です。

確かにたくさんの人に来てもらえれば、
お賽銭や御朱印、お守りの売れ行きも良くなるでしょう。

しかし、敬意や信仰が伴わなければ、
きっと宗教施設として果たしていた役割は薄れてゆくのではないでしょうか。

タイ旅行での話

以前このブログでも書いたように、タイ旅行に行った際、
私は翡翠色の美しい仏塔、ワット・パクナームをお参りしました。

SNSなどでも写真が話題を呼び、日本人観光客に人気の場所です。

そう、「日本人”観光客"」にです。

知らなかったから仕方ないと言えばそれまでですが、
現地では日本人が着くなり仏塔を背に写真を撮り始めたり、
足を投げ出して仏塔に向けて座っていたりしました。

それをよそに、現地の方々は仏塔にお花を供え、礼拝します。

仏教に限らず、宗教の多くでは信仰の対象にお尻や足の裏を向けることはしないはずです。

私はその光景に、敷居を失ったお寺の未来を見たような気がしました。

親しみやすいとは?

そして先日、縁あって私がTシャツのデザインをしているYouTuberの芳賀セブンさんが、
曹洞宗寺院とコラボした動画投稿され、TikTokで話題になりました。

同時に、曹洞宗の関係者の中ではずいぶんと多くの批判が上がっていたようです。

その動画の内容は、簡単に言えばお寺で芳賀セブンさんと僧侶がふざけているというものです。

私はそこで特に問題だと思ったのが、まさにワット・パクナームと同じことでした。

それは、芳賀セブンさんが御本尊様にお尻を向ける形で、胸に風船を詰めていくというものです。

芳賀セブンさんの名誉のために申し上げておくと、彼は仏教に対してすごく敬意を持ってくれていて、
私たちに失礼がないように、という思いでいてくれています。

つまり問題になのは、僧侶による線引き、敷居の設定です。

本堂の中での撮影でしていいことと悪いことの判断は、
その状況ではご住職が一任されていたでしょう。

その動画には「お寺って実はこんなに親しみやすいんです」と付されていました。

お寺に親しむとはこういうことなのでしょうか?

敷居を下げるor無くす

私の判断基準では、ワット・パクナームでの観光客の様子や芳賀セブンさんの動画は、
お寺の敷居を下げたのではなく、無くなったものだと思います。

あくまでも私個人の判断基準の中では、です。

確かに宗教施設は敷居が高く人が来なければ、それを維持することが難しくなるでしょう。

しかし、敷居が無くなって宗教施設としての空間が保たれなくなれば、
最終的にはお寺である必要すらなくなっていくのではないでしょうか

私たち僧侶は、一歩間違えるとお寺を私物のように思ってしまったり、
時にはお寺の人気によって自分が評価されていると勘違いしてしまうこともあります

お寺はあくまでも三宝によって保たれてきた空間であることを
忘れないよう肝に銘じていたいと思います。

これは私の見解であり、当然他の捉え方もあってしかるべきです。

いずれにしても、寺院を預かる僧侶はこの敷居のあり方については、
各個人が一度は必ず考える必要があるような気がします。

信仰や敬意を持った、あるいは救いを求める人が踵を返してしまわないよう、
敷居は下げても無くさず、お寺の存在意義を保った布教教化の形を、
禅活として、一僧侶として模索してまいります。

 

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