報地はどこにある?〜お彼岸にちなんで〜

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2021年になって早三ヶ月。

今年も春のお彼岸を迎えました。

お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後3日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。

私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。

まさにこれを書いている前日がその棚経の日で、今年も1日で約90軒のお家でお勤めをさせていただきました。

棚経は、そのお宅のお仏壇や祭壇の前でお経をあげるお勤めですが、お経の後には必ず、そのお経を何のためにお唱えしたか、を申し上げる「回向えこう」もお唱えします。

その回向でかなりの確率で登場する言葉が、今回のテーマ「報地ほうち」です。

口が勝手に動くようになるくらい、何度もお唱えしたこの「報地」。

仏様のいらっしゃる場所」という意味のこの言葉を、どう受け止めていくか私なりに考えていきます。

Contents

報地を荘厳す

曹洞宗の回向にかなりの高確率で登場する「報地を荘厳しょうごんす」の一説。

報地というのは曹洞宗が好む言い回しなのか、『仏教語大辞典』では「報土」として掲載されており、意味としては「仏様の住む土地」のことです。

修行をした結果、その修行に応じてそれぞれの報土を持って、安住する場所、といったところでしょうか。

つまり、回向でお唱えする「報地を荘厳す」というのは、「ご供養の対象である仏様のいらっしゃる場所を功徳によって彩る」といった意味になります。

ただ、私はこの目で見えない世界の話を雰囲気的に納得しなくてはいけない感じがどうも苦手で、自分がお檀家さんだったら納得いっていなかったような気がします。

では、報地というものをどう解釈すると、より生き方に活かしやすいものになるのでしょうか。


(画像出典:Wikipedia)

棚経での出来事

今年で3年目になる山梨での棚経ですが、毎回お昼頃に伺うお宅があります。

そちらでは、お昼ご飯といえるくらいお茶や食べ物を出して下さって、必然的に色んなお話を伺うことになります。

そして昨年の春、そのお宅の女性が、私にこんなことを尋ねてくださいました。

「最近妹が亡くなってしまったんだけど、生まれ変わったりするんですかね、どこに行っちゃうんですかね。」

その方は、生まれてずっと一緒に育ってきて、この先も同じように時を過ごすと思っていた妹さんの死を、どう受け止めていいか、どう諦めていいかがわからないというご様子でした。

曹洞宗では、葬儀によって故人を仏様とし、生まれ変わりといったことは説きません。

ではその仏様となった妹さんがどこにいらっしゃるかというと、それは遺された方お一人お一人の心の中です。

ありきたりな言い方にはなってしまいますが、仏様として見る人の心に、仏様は存在しているのです。

私がそのような旨のことをお伝えすると、その方も「どこかに遠くに行っちゃったわけじゃないんですね」と納得し、ご安心いただけたようでした。

そして、自分でお話をしておきながら、私自身も妙に納得がいったのです。

報地の在り処

私はこの、仏様のいらっしゃる心の中を「報地」というのではないかと思っています。

遺された私たちが、先に旅立っていった方を葬儀や法事を通して少しずつ仏様として受け止め直し、

「あなたに導かれて、良い生き方をしようと前に進んでいますよ」という、

人生という修行の成果こそが報地なのではないかと、私は思うのです。

辞書の意味をそのまま受け取れば、〇〇という戒名の仏様がどこかにいて、その方が守っている場所が報地という風に捉えてしまいますし、その方が画は思い浮かぶでしょう。

しかし実際には、生前の関係によって、一人の仏様も人によって色んな受け止め方があります

私にとっては優しかった祖父が、父にとっては厳しい存在であったように、生前の人間関係や立場によって、その仏様から学ぶことは異なります。

そう考えた時、報地というのはなにも一箇所、一つの場所を指すのではなく、その仏様を思う人の数だけ、心の数だけ存在するものなのではないでしょうか。

仏様と私たち一人一人の心の合流地点、と言ってもいいかもしれません。

仏様とお一人お一人の間にあるからこそ、法事やお彼岸といったお勤めを通して、一つ一つの報地が功徳によって彩られますように、と回向をするのが、私たち僧侶なのではないでしょうか。

これはあくまでも個人的な見解で、学問的な裏付けがあるわけではありません。

しかし、自分の心の中にお一人お一人の仏様との報地があると思うことで、よりご供養というものが自分事となっていくのではないかと、私は思います。

 

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