食べ物の安全と環境の話~私は皮を捨てている

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現代社会の食の在り方は、その安全性や環境配慮、自給率などの観点からしばしば問題視されています。

私たち禅活が月に一度開催しているほっと晩ご飯でも、作法やお料理を通じて、食との向き合い方を様々な角度から考えています

そこで今回は禅活の奉行ぶぎょうこと久保田が、食品の安全性と環境に焦点を当てて、考えてみようと思います。

Contents

ぶっちゃけ捨ててる

先日、西田が人参の皮の食べ方を紹介した日経新聞の記事が炎上した騒動について書きました。

西田の記事の要旨は「食材の命の尊さを受け止め、それを生かしきる姿勢が必要」というものです。

皮一つとっても、私たちの前に現れた大切な命。

無駄にしないのは当然のことだと私も思います。

 

……しかし、

それでもなお、私は大抵の食材の皮やヘタをそのまま捨てています

(言い訳しておくと北海道の実家では家庭菜園を営んでおりますので、冬場以外は発酵させて堆肥としています。)

捨ててしまうことへの抵抗感も勿論あるのですが、そもそも私の場合、皮を可食部位と思えないのです。

なぜ、皮が食べ物だと思えないのか。

その理由はいくつか思い浮かびますが、もっとも大きな理由は食品の安全に関してこれまで受けてきた教育にあるでしょう。

例えば……

食中毒を起こすからジャガイモの皮と芽は食べてはいけない」

タマネギは放射線処理されているから一枚余分に剝きなさい

寄生虫(特にエキノコックス)の可能性があるから野菜はよく洗って」

「安いお肉は抗生剤をたくさん入れたエサを家畜に食べさせて作られている」

「食べられると人に教えてもらったキノコしか採ってはいけない(本で確認したとかではダメ)

「果物の皮には農薬やワックスが残っている(あるいは意図的にかけられている)」

などなど……。

もともと食材が持っているリスクに加え、残留農薬や寄生虫など食品の安全性を脅かす要素は実に多くあります。

こうした教育の結果、外気に触れる皮の部分洗いづらい部分はどうしてもリスクが高いように思えてしまい、料理の仕方を知った今も食べることにかなりの抵抗があるのです。

目をつぶって食べているという状態

事実、私たちが手にすることのできる食材のすべてが安全か、と言われると決してそうではありません。

ひとつの食材は、収穫されてから私たちのもとに届くまでに実に多くの過程を経ます

収穫、洗浄、仕分け、出荷を経て、スーパーで陳列されて……その過程のすべてを私たちが知る方法はありません

その食品が本当に安全であるかどうかは、産地や日付など与えられた情報をもとに私たちが推測するしかないのです。

情報という点では、産地の表記や厚生労働省による安全基準などは一定の信頼がおけるものと言えるでしょう。

しかし、そもそも提供する側が信頼できなければ、どれだけ私たちが推測したところで無駄です。

産地や消費期限を偽ったいくつかの食品偽装の問題しかり、悪質なものでは危険性の高い事故米を食品用に流通させたなんて事件もありました。

また、外国産の食品の危険性は絶えず叫ばれ続けています

これら食品の持つリスクは、もはや一般常識と言っていいほど浸透していると感じます。

 

……とはいえ!

少しでも危険性があるとされた食材をすべて回避していったら、どうなるでしょうか

当然のことながら食事にかかる労力は増え、使える食材も限られて、普段の食生活に大きな制限がかかります

特に外食なんて絶対できなくなることでしょう

私たちの食生活を成り立たせるためには、こうした事実を知りながらも、

「まあ。多分、大丈夫だろう」

と、ある程度のリスクには目をつぶらなければならないのが現実ではないでしょうか。

その中で、許容できるリスクと、なるべくなら回避したいリスク絶対に許容できないリスクが生まれてくるのも自然なことだと思います。

剝いた皮を捨てることは私にとって、ひとつのリスクヘッジなのです

自然の中に返すことが容易ではない

さて食材のリスクの話をしましたが、これはあくまで皮を食べようと思えない理由の一例です。

理由はどうあれ、私のように、皮を食べることへの抵抗が捨てきれないという方も多いことでしょう。

無駄にしないために、我慢して食べるのがいいのか……。

それを強制するのが正しいのか……。

 

ここで、曹洞宗の大本山永平寺の食事の話をいたします。

多くの若い僧侶が修行生活を送る大本山永平寺では、坐禅堂で作法にのっとって食事をいただきます

様々な食事の決まりごとがある中で、落としてしまった食べ物についてもルールがあります。

それは、落とした食物を拾って食べることはしないというものです。

落ちてしまったものは自分にご縁がなかった食べ物なのだから、鳥獣の餌として自然に返すのだそうです。

 

ただ捨てるのではなく自然に返すということ。

目の前にある命を生かそうとするならば、これこそが、私たちに求められる姿勢ではないでしょうか。

 

しかし、それも容易ではないのが、私たちの生きる社会です。

都会のど真ん中で鳥のエサ台を作れば、カラスが大挙してくることでしょう。

自然に返す!と言い張って、生ゴミを近所の河川に流せば「妖怪川汚し」の所業となります。

また生ゴミを堆肥にして利用できる環境のある人がどれだけいるでしょうか

多くの場合、本人の意思にかかわらず捨てざるをえないのが現実でしょう。

先ほど、リスクに目をつぶらなければ食生活が成り立たないという話をしましたが、捨てる後ろめたさにも目をつぶらざるをえないのが私たちを取り巻く現状なのだと思います。

どうやって捨てればいいのか:熊本県水俣市の取り組み

日本は世界的に見ても自然環境が豊かな国です。

そこで育まれた私たちにとって自然を大切にし、自然とともに生きるということは、それこそ自然なことのように思います。

今の社会には、自然環境に対して私たちがそうしたいと願うを形にできるシステムが必要なのかもしれません。

最後に、熊本県水俣市の環境保護の取り組みを紹介して、記事を終えます。

かつて、企業の無責任な行動で重大な公害問題が引き起こされた熊本県水俣市。

水俣市は過去の経験を踏まえて環境モデル都市としての取り組みを進め、家庭から出る資源ごみをなんと「22品目」に分別しています。

初めてこの話を知ったときは、なんて面倒なんだ……と驚いたものですが、今はゴミの分別を通して環境への優しさを育てることのできるシステムだと考えるようになりました。

自然を大切に、末永く自然とともにありたいものですね。

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