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曹洞宗の立場から肉食を捉え直し、そこから広がる様々な問題点や課題を検討してきたこの企画。
前回は「食べることで成仏する」という文脈が、曹洞宗の教えに適う部分もある一方で、食肉加工業や漁(猟)に対する差別を生んできた歴史と繋がってしまう場合があることをお話ししました。
今回から、肉食を捉え直すことが曹洞宗の掲げる「人権・平和・環境」のスローガンと密接に関わっていることについて、数回にわたってお話ししたいと思います。
今回は、その前段として、食の教えが曹洞宗の活動全体とどのように関わってくるのかを考えてみます。
Contents
「人権・平和・環境」のスローガン
曹洞宗は1991年から、宗派としての活動目標として「人権・平和・環境」を掲げています。
この年は、戦時中の布教の在り方やそれ以降の人権関係の諸問題に対する大きな転換のタイミングでした。
そうした曹洞宗としての課題と共に、国内外の社会問題に取り組んでいこうという意思表明ともいえるものが、このスローガンだったのです。
この3つの項目が、曹洞宗の布教や社会活動などの取り組みの基本方針となり、現在も様々な取り組みが行われています。
曹洞宗のHPにはそれぞれの項目に取り組む理由をお釈迦様・道元禅師・瑩山禅師の言葉も引用しながら、教えの実践であることを解説しています。
連載のきっかけ
この連載のきっかけは、私が食肉加工場に行った時の経験でした。
私は永平寺での修行生活を通して、曹洞宗や仏教が伝統的に説いてきた食に対する精神性を肌で感じ、心から納得していました。
重要なのは肉か野菜かではなく、食そのものをどう捉えるかという教えの普遍性と今後の社会での必要性に、それを伝えることへの使命感すら感じました。
しかし、食肉加工場見学で、と畜(屠殺という言い方をしなくなりつつある)や皮革産業に対する社会からの扱や、社会に広まった日本仏教の不殺生観がある種の枷となり、時には刃にもなって従事してきた方々を傷つけていたことを知りました。
そしてそれは決して過去の出来事ではなく、現在も心ない声を浴びせられたり、「いただきます」という言葉に罪悪感を感じる方がいることを知ったのです。
私は、曹洞宗の教えが、一部の方にだけ罪悪感を背負わせるものであるわけがないと、肉食の再解釈を自分の研究テーマにしました。
食に関する布教の現状
曹洞宗では、他の宗派と比べても食に関する布教活動が活発です。
しかし実は、その教えをどう解釈しどう布教を行うか、という共通認識はなく、現場で各僧侶に一任されているのが現状です。
そのため、実に様々な形での布教が可能である一方、危ういものもあります。
たとえば、以前別の記事で触れたように「曹洞宗の食=精進料理」と位置付けて、菜食を是として説かれる場合、実際には曹洞宗の僧侶の多くが肉も魚も食べているので、非常に建前的な話になってしまいます。
あるいは、心や愛があれば精進料理や、真心さえあればという一般論の域を出ない場合もあるでしょう。
ネット上での活動や本、テレビ出演された方の布教の内容を概覧するに、曹洞宗の教えによって食を裏付けるということがあまりなされていない印象があります。
もしかすると『典座教訓』や『赴粥飯法』に出てくる言葉の範囲で解釈が収まってしまっているのかもしれません。
曹洞禅の食と肉食と…
そこで、曹洞宗の教えによって食を捉えなおそうとしてきたのがこの連載でもあります。
食べるということは殺すことなのか、殺すとはどういうことなのか。
逆に不殺生とは何か、曹洞宗にとっての「いのち」とは何か。
そうした肉食に関する疑問を曹洞宗の教えによって一つ一つ解釈し、それをまとめて「曹洞禅の食」として定義づけました。
そこから見えてきたのは、食事という行為は誰もが行う行為でありながら、修行観や仏性観、戒の解釈など、実に多くの曹洞宗の教え内包したものである、ということでした。
そして、肉食というのは人権問題はもちろん、いのちの捉え方、環境問題とも密接に関わったテーマです。
つまり、曹洞禅の食という立場から肉食を捉えることが、実は「人権・平和・環境」のテーマとも直結しているのではないか、というのが私の見解です。
次回以降は、「人権」から順に肉食の解釈を通して考えていきたいと思います。