【肉を食べるということ】「食べて成仏」の問題点

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曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えるこちらの企画。

前回は僧侶が肉食を肯定する際にしばしば引用される「三種の浄肉」が日本社会でもつ危うさについてお話ししました。

今回もそこにやや似た話題です。

Contents

食べることが成仏?

我々僧侶の間で、動物性の食品を口にする際に、やや冗談めかして「食べることで成仏するから」という言い方をすることがあります。

これはある意味では的を射ていて、食べて、仏道を生きていくことで食べ物を「仏のいのち」として引き継ぐという、以前ご紹介した不殺生の在り方と通じています。

故・宮崎奕保禅師が履き物を揃えることも「成仏した」と仰った話は有名ですね。

私が修行自体にお仕えした老師も、いただきもののカニをみんなで綺麗にいただいた時に「おおこれで成仏だ」と仰っていました。

そのものに備わった「はたらき」を正しく活かすところに仏のいのちがある。

初めから仏だったものを、食べてもなお仏であるようにいただく。

このように捉えることができればいいのですが、日本の社会でこのような捉え方をすることはあまりなかったようです。

殺生で仏果が顕れる

中世以降の日本の肉食文化の中に、殺生仏果論(観)と呼ばれる考え方があります。

日本には仏教伝来以前から、人の死や願い事があると肉食を避ける習慣がありました

そこに、肉食禁止を説く中国の戒律が伝来し、特に中世以降は肉食への忌避感がより強くなっていきます。

しかし一方で、日本にはその土地の魚や動物の肉を好むと言われる神様が祀られる寺社がありました。

それを供えるのは地元の猟(漁)師の役目でしたが、殺生すれば地獄に堕ちると言われる時代です。

供物は必要だが殺生は戒められている…。

その狭間で生まれたのが、「宗教儀礼によって動物を仏の世界に導く」という形でした。

動物(=畜生道)に生まれた存在は元々仏道に縁がないが、供物にするなどの宗教儀礼を経ることで、その機縁となるというこの理論が、殺生仏果論です。

一見、曹洞宗の食の捉え方と似ているようですが、実はわずかな違いが大きなずれとなります。

いのちの違い

ここで重要なことは、動物は仏道に縁のない存在とされていることです。

曹洞宗の捉え方を振り返ってみましょう。

一切衆生悉有いっさいしゅじょうしつうは仏性」という道元禅師のお示しから、曹洞宗では人間、動物、魚、虫、植物、石、建物や道具にいたるまで、ありとあらゆる存在が仏の性質を表した「仏のいのち」であると捉えます。

つまり、動物はそもそも仏のいのちとして存在しており、我々人間がそのように見ることさえできれば、決して人間より劣った存在ではない、むしろ最初から仏の世界にいる存在なのです。

殺生仏果論では、殺生をしたけど儀礼によって仏の道に入れたのだから罪ではないという理論で、猟(漁)師を安心させようとしました。

しかし、根本的には動物のいのちの捉え方は曹洞宗とは異なっていることになります。

そして何より、この殺生仏果論には、「儀礼を通して罪ではなくなる=儀礼を通さない猟(漁)は罪」であるということを浮き彫りにしてしまったのです。

食べる前から仏

ここで本題の「食べて成仏」という話に戻りましょう。

要するに、曹洞宗の立場からすれば動物も食事もはじめから仏のいのちです。

そしてそのはたらきを損なわないように食べ、生きていくのが、曹洞禅の食の教えです。

儀礼や食べることで初めて仏になるという殺生仏果論的な在り方とは、わずかなようで大きな違いがあるのです。

曹洞宗で「食べて成仏」という時には、その後の生き方まで含めて、断続的に仏のいのちを繋いでいくという意味でなければならないでしょう。

これは殺生仏果論を否定するものではありません。

曹洞宗のいのちの捉え方や食の教えが、今後の社会で果たしうる役割が浮かびあがってくるのです。

曹洞禅の食の可能性

先ほど触れた通り、殺生仏果論は結果的に職業としての猟(漁)やと畜そのものを肯定できるものではなかったといえるでしょう。

儀礼のためには認められるのであって、根本的には罪であるという認識を変えるものではなかったことは、職業差別・部落差別が生まれる要因の一つとなっていったと考えられます。

これは長い歴史の中で社会全体に認識された感覚だったはずなので、曹洞宗の僧侶といえど、もしかするとこれを信じていたこともあるかもしれません。

しかし、今改めて曹洞禅の食の教えを見直した時、様々な問題を好転させていく可能性があるのではないでしょうか。

例えば、このコラムの出発点でもある食肉加工場、と畜業従事者の方への職業差別や、鯨肉や犬肉などの特定の食文化に対する攻撃など、動物のいのちや食をめぐる人権問題や国際問題などの解消の糸口となるかもしれません。

単に「食」というところに止まらない、様々な役割を果たす可能性が、そこにはあるのです。

参考書籍

苅米 一志 (著)「殺生と往生のあいだ: 中世仏教と民衆生活 」(歴史文化ライブラリー・2015年)
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