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終活という言葉を聞くようになってずいぶん経ちました。
その流行はエンディング産業という新たな市場も生まれるほどの、もはや社会現象といえるものです。
いずれやってくる自分の死の瞬間や死後について、整理や準備をしていく終活はには、もちろん良い点がたくさんあります。
死を恐れ遠ざけるのではなく、いずれやってくるものとして迎え入れる準備をするのは、
仏教的な生き方とも言えるでしょう。
ただし、向き合い方によってはむしろより死を恐れることになりかねなかったり、
残された方を混乱させてしまうことにもなりかねません。
そこで今回は、私が最近気づいた「危ない終活」についてのお話です。
Contents
死後のオーダーメイド
終活ブームの始まりは、少子高齢化社会が叫ばれるようになってからのこと。
当初は子や孫が混乱したり苦労をしないよう、生前に身辺の整理や遺言などの意思表示をしておくことが終活の中心だったようです。
特に高齢でなくてもエンディングノートなどで、万が一の時に必要になる情報を書き留めるなど、
ある種の備えとしても機能していました。
生前葬と呼ばれるものも話題になり、生きている間にお別れを済ませておく、ということも流行しました。
それから年月を経る中で、終活は一大産業となっていきます。
お別れの仕方や生前の墓じまいなどだけでなく、様々な商品やサービスが開発されていきました。
それからでしょうか。
自分の死は自らコンパクトでスマートに収めることが、ある種の「きれいな死に方」であると思われるようになりました。
自分の死後はこういう送り方で、こういう風に扱ってほしい。
まるで自分の死後をオーダーメイドするかのような、そんな潮流を感じるのです。
仏教にとっての死の本質
冒頭で申し上げたように、終活そのものは死と上手に向き合っていく、ある種仏教的な営みといえるでしょう。
しかし、その中で自分の死を自分の理想の形に近づけようという思いが働き始めると、少し話が違ってきます。
仏教では、死は生・老・病と合わせた四苦の一つであると説きます。
たびたびこのブログや動画で触れてきたように、苦というのは単に「苦しい」という意味ではありません。
古いインドの言葉ではドゥッカという言葉が、中国で翻訳された時に「苦」という字が当てられました。
ではこの本来のドゥッカとは、制御が利かない馬のような状態のことで「不満足な」といった意味があり、
コントロールがきかない、思い通りにならないということなのです。
死苦を「死ぬのは苦しい」という感覚として捉えた場合、これには個人差があります。
しかし「死ぬのは思い通りにならない」と言った場合には、全ての人に共通した事実になります。
仮に自ら命を絶った人でも、そこまでの経緯が思い通りのものであったわけではないでしょう。
このように、仏教では死の本質を思い通りにならないけれど必ず訪れるというところに見出します。
一方、終活が死後をオーダーメイドするような方向に行きつつあるのはなぜでしょうか。
それは、現代は科学や医療の発達によって、
人間がかなりの範囲のものを思い通りにできるようになってしまったからではないでしょうか。
多くを思い通りにしたことで、どう足掻いても思い通りにならない死への恐怖が、
むしろ強調されてしまったのではないかと、私は思っています。
お釈迦様の終活
お釈迦様は、長きにわたる説法の旅の末、80歳で最期を迎えます。
その様子を記した経典は『涅槃経』と呼ばれ、成立年代などによっても様々な特徴を持っています。
そんなお釈迦様の最期を記したお経の中に、弟子たちに遺言を残していく様子を描いた
「遺教経」と呼ばれるお経があります。
これは、私の実家のお寺ではお通夜の際にお唱えし、故人が残された私たちに最期の教えを説いているという形で、
お釈迦様が弟子たちに遺言を残された最期の瞬間を再現します。
では、お釈迦様はどんなことを仰るかというと、そのほとんどがご自身がいなくなってからの弟子たちの生き方に関することなのです。
お釈迦様は様々な場面を想定して、弟子たちが後から迷うことがないよう、懇切丁寧に教えを説かれます。
別のお経では、お釈迦様が自分の葬儀に関わるなと仰ったという風にありますが、
それは人生の有限性を示した上で、少しでも弟子たちに修行励んでもらいたい、という親心だったと思われます。
そして最期の最期に、もう聞いておきたいことはないかと繰り返し確認をした後、息を引き取ります。
お釈迦様は、残される人の生き方を気にかけて、最後まで対話をやめませんでした。
この、弟子たちとの対話、コミュニケーションこそが、お釈迦様の終活だったのではないかと私は思います。
人は一人で死なない
死後をオーダーメイドするような終活の仕方には、実は特徴があると私は捉えています。
それは、死を自分一人のものだと思ってしまうということです。
確かに理屈としては、人は一人で死んでいきます。
しかし、人は死ぬ時、関わりのあった人の心の中でも死んでいきます。
仮に私が死んだとしたら、両親の中で息子という私の死があります。
禅活をご覧いただいている方にとっても、禅活のしんこうが死ぬでしょう。
そうやって、関係性の数だけ、人の死はあります。
死は自分一人だけのものではないのです。
生き切る終活
その中で、迷惑をかけたくないという判断だけで、相談もなく墓じまいをしてしまうと、
場合によっては残された方は供養したくてもできない、手を合わせる場所もない、ということになってしまいます。
ならば迷惑をかけたくない、という思いではなく、最も良い道を選ぶ。
そのためのコミュニケーションこそが一番重要な終活なのではないでしょうか。
コミュニケーションをとるべき人としっかりとって生き切れば、
死後は残された人たちがその意思を汲み取ってくれるはずです。
「自分の葬式はこうしてくれ」と言わなくても、きっとその通りになると信じていいんです。
逆に言えば、生前の関係性がうまくいかなければ、残された人がその通りしてくれないかもしれません。
死は思い通りにならないのだから、生き切ることで安心して後を任せるような、
そんな仏教に基礎に立ち返った終活が見直されてもいいのではないでしょうか。