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精進料理。
動物性の食材や、ネギ・ニラ・ニンニクなどの匂いが強く、精力がつく香味野菜、いわゆる五葷を使用しない日本の食文化の一つです。
この精進料理、しばしば「鎌倉時代に禅宗の僧侶によって中国から伝えられた」と紹介されることがあります。
しかし、実は「精進料理」という名称は仏教経典や禅僧が著した書物にも登場することはありません。
いわば、日本語として存在しても仏教から生まれた言葉ではないのです。
今回は、そんな精進料理という言葉が持つ複雑な背景と今後の課題についてのお話です。
Contents
精進という言葉
精進という語を仏教語辞典で引くと、このように出てきます。
・物事に精魂をこめて、ひたすら進むこと。
・善をなすのに勇敢であること。
・努め励むこと。
・心を励まして道に進むこと。
これらは「今後も精進致します」というような現代日本人の使い方ともニュアンスが近く、インド・中国を経て日本に伝わり、社会に浸透した仏教語の一つであるいえるでしょう。
しかし、日本で最初に浸透した「精進」という言葉は少し意味が異なっていました。
実は奈良・平安時代から使われた「日本オリジナルの精進」があったのです。
その背景には以前【肉を食べるということ】で触れた日本の社会と仏教、そして肉食への考え方が関係しています。
日本オリジナル版の「精進」という言葉
現在、仏教語辞典の「精進」の項目には、先ほどご紹介したようなインド・中国の経典由来の意味の他に、日本の書物由来の意味が掲載されています。
その意味は
「身心を清める」
「肉食、飲酒、性行為を絶って潔斎をする」
というものです。
以前、#2でもどき料理について考えた時にも触れたように、奈良・平安時代には「精進」という一定期間肉食を断つ習慣が生まれます。
そしてこの「精進」という言葉は仏教本来の意味合いを凌駕して世間に浸透していくのです。
それが分かる資料の一つに、江戸時代、ポルトガルの宣教師が日本語を知る為に編まれた『日葡辞書』という、日本語をポルトガル語に翻訳した辞書があります。
そこには「精進(シャウジン)」と「精進(シャウジ)」という二つの項目が掲載されますが、どちらもそれぞれ
「魚や肉を食わず、夫婦の営その他の儀式や務めをも禁じて、身を清浄にすること」
「穀類や野菜で作る食事」
という意味になっており、仏教本来の仏道を努め励む意味は掲載されていないのです。
さらにこの『日葡辞書』は宣教師用に作られたため、仏教由来の言葉には「仏法語」と記されていますが、「精進」にはそれがありません。
つまり、江戸時代の時点では精進は「肉を食べないこと」を意味する言葉であって、現代のように「努力をする」という意味では使われていなかったのです。
精進料理=仏教の食なのか
そして、奇しくもこの江戸時代が、炒める・揚げるといった調理法が中国から伝わり、精進料理が現代に近い形に大きく発展した時代でもありました。
しかし残念ながら、精進物がいつ精進料理という名前に変わったのかについては、私はまだ明らかにできていません。
ただし最近では、精進物や精進料理という名称については、僧侶や仏教界が自分たちの食をそう名乗ったのではなく、社会や世間によって名付けられていったという見解もあります。
実は、曹洞宗の食に関するバイブルとも言える書物『典座教訓』と『赴粥飯法』には精進料理という言葉も、肉を使ってはいけないという記述も一切ありません。
あるのは、食材をどう扱い、食事をどういただくかという仏教徒としての精神性です。
つまり本来の意味に立ち返るのであれば、仏教徒としての精神性を持ってすれば、どんな食材でも、どんな料理でも精進になるはずなのです。
ところが、現在の曹洞宗の動きとしては、曹洞宗の食=精進料理と位置付け、動物性の食材や五葷を使わず、厳格な作法で食べる食事として紹介している場合がほとんどになっています。
精進料理という名称が持つ問題
また、そうして肉食をしないことが仏教や曹洞宗の食事だとすると、ある問題が起こります。
それは差別や対立の助長をしてしまう可能性が生まれることです。
不殺生という教えを基に、動物性食品を使わないことを是とした時、食肉加工や漁業の従事者はどうなるかを考えてみればわかるでしょう。
それは経済的な打撃とかではなく、もっと根深い、大きな問題です。
以前、「肉を食べるということ」でも、日本の歴史の中で屠畜解体の従事者は差別を受け、今もなおその問題は根をはっていることをお伝えしました。
そしてそこには、日本仏教や僧侶も大きく関わっていたという事実があります。
私の母は離島の出身で、叔父は漁師をしていて、祖父はその島で唯一牛の解体ができる人でした。
叔父は獲れたてのカツオを送ってくれたり、祖父は牛を売ってできたお金を孫たちへのお小遣いに充ててくれて、私はそれで自転車を買ったこともあります。
そうして自分の生業を一生懸命に勤めている人を、教えに反していると弾き出すのが仏教だとは、私はとても思えないのです。
精進として捉え直していく
精進料理という名称を歴史から見れば、やはり肉を使わないという意味があることは否定できません。
そして肉を食べないということが、当時の人々が一族や子孫の繁栄、世の平穏を願う心の拠り所になっていたということも事実です。
医療や科学が発達していない時代には、人はおまじないや願掛けによって心を支えられていたし、物理的な距離を超えて交流することも不可能でした。
しかし、医療も科学も発達して解明できることも多く、世界中の人々とリアルタイムで話すことができる時代です。
現代的に精進料理を考えるのであれば、誰もが心の中に持っておける食の精神性として、さらには食の上での生き方の修行、「精進の料理」として捉え直していくことが必要なのではないでしょうか。
実は今回の記事は、これ一本で完結するものではありません。
これから、もっと具体的に曹洞宗の立場で食を考える記事を執筆していく予定です。
また最後に、今回申し上げていることは、曹洞宗僧侶としての立場を「私の見解」から述べているもので、曹洞宗全体の共通認識ではないということをご理解ください。
禅活の活動としては、「これが私たちの〈精進の料理〉です」とご紹介できるよう、活動と勉強を積み重ねていきたいと思います。