【永平寺から無一文で歩いて帰るもん。】vol.18  私の3.11

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これは私、深澤亮道が福井から岩手までの700Kmを無一文で歩いて帰った物語である。

Contents

前回までのあらすじ

8日目

永平寺修行時代の後輩である、古川竜洋さんが副住職を勤める「龍泉寺」に一泊した、深澤亮道。

2日ぶりの日本海からの吹き付ける風がない中で、十分な休息をとり、9日目は柏崎市を目指して出発したのでした。

その、道中またしても40代半ばと思われる男性から「車に乗っていかない?」と話しかけられたのでした。

前回の記事はこちら↓

バックナンバーは以下から読むことができます↓

【永平寺から無一文で歩いて帰るもん。】

今回は、またしても脱線してしまいますが、この男性と話した中で感じたこと、そして私が経験した「3.11」についてお送りしたいと思います。

岩橋さん

9日目 11:00〜

柏崎市に向かって歩いている道中、お笑い芸人の「プラスマイナス 岩橋」に似ている男性(以下、岩橋さん)の車に、乗せていただくことになりました。

実は、例えがマニアックすぎるという声をいただきました!

リンク先をクリックするとご確認できるので、是非「プラスマイナス 岩橋」をご覧ください。笑

前回の記事でもお伝えしましたが、一応車内での会話はこんな感じでした。↓

お坊さんどこまで行くんだい?

福井県の永平寺を出発して岩手県の花巻まで歩いて帰る予定です。
あの・・・
乗せていただいてありがとうございます。
本当に少しの距離で大丈夫ですので・・・

そうなんだ!
凄いねー!
実は、俺今から宮城県の石巻市に行くんだ!
もしよかったらそこまで乗って行く?

いや、有り難いですが、それだと歩いて帰る旅では無くなってしまうので、本当にすぐそこまで大丈夫ですので。

そっかー・・・
了解!
実は俺、昔は新潟に住んでいたんだよね。
でも、東日本大震災があってから石巻に引っ越してさー
今はそっちに暮らしているんだよね!
ちょうどこっちに残っている荷物を取りにきて帰るところだったんだー。
話を聞くと、岩橋さんは大工さんをしているとのこと。
いや、厳密に言えば話を聞いた訳ではなく、勝手に話出したんですけどね。笑
しかし、岩その話を聞いていて、私にとっての3.11とはなんだったのか、を考えるきっかけになりました。

9年前のあの日

平成23年3月11日 午後2時46分

周知の通り、宮城県沖で震源規模マグニチュード9.0の地震が発生し、東北地方を中心に大津波が襲い、これに伴い東京電力福島第一原子力発電所では大量の放射性物質が漏洩し、原子力災害を巻き起こしました。

災害関連の死者・行方不明者は2万人を超え、戦後日本における最大の自然災害であることは言うまでもありません。

皆さんは、この日、この時、この時間、この瞬間何をしていましたか?

政治や経済、交通、スポーツなど様々なところに混乱、影響を与え、東北地方だけではなく多くの日本人がこの震災によって本当に辛い経験をしたかと思います。

しかし、私はこの東日本大震災を実際に経験していない、いや、むしろ全く知らなかったと言っても過言では無いのかもしれません。

なぜなら、東日本大震災が発生した時、私は永平寺で修行を初めてまだ間もない時であり、一連の情報や状況が一切知ることができなかったからです。

私の3.11

永平寺で修行を始めて20日ほど経った、3月11日。

しんしんと降りしきる雪が舞うなか、少し大きめの地震が起きたと思ったと同時に、屋根に厚く積もった雪がドドドッと音を立てて地面に落下しました

しかし、この出来事を特段気にすることもなく、修行生活に全くと言っていいほど慣れていない私は、この日も寒さと空腹と眠気に耐えながら、覚えなくてはならない公務やお経を一生懸命勉強していました。

次の日。

お昼過ぎに修行僧全員が大講堂に集められ、東北地方を中心に大きな地震と津波が襲ったことを伝えられ、東北出身者は1年目であろうと、電話で家族の安否を確認することが許されました。

緊急事態なので当たり前と言えば当たり前なのですが、永平寺は修行に入って3ヶ月は手紙を送ることも許されないのところなので、かなり異例中の異例の出来事でした

私も岩手県の出身だったので、家族に電話をすることが許されました。

しかし、この時私の頭の中はパニックだったのでしょう。

もし家族が被災していたら?

もし家が倒壊していたり、住めない状況になっていたら?

いや、そもそもこれが事実だと言われても、中々信じることができません。

様々な思いが頭に巡りながらも、私は母親の携帯電話の番号を押していました。

プルルル、プルルル・・・

数コール鳴った後、

はい、もしもし。

と、母親が電話に出ました。

久々に聞いた母親の声に安堵するも束の間、実家の様子、家族の状況を聞きます。

前年の3月11日が祖母の命日であり、この日家族みんなで1周忌法要を行っていた時に震災が発生したとのこと。

電気、ガス、水道は止まっているが、家族みんな命に別状はなく、家も大きく損傷を受けているところは無いだろうとのこと。

こっちは大丈夫だから、とにかく今は修行に専念しなさい。

 

ものの2分くらいだったと思います。

頑張って!とも、何かあったら連絡して!とも言えず、「それじゃ」とだけ言い、そのまま電話を切りました。

実のところ、私が経験した「3.11」はこれだけだったと思います。

もちろん気にならないと言うと嘘になります。

しかし、情報を仕入れる術が無い、いや、もし情報が入ったとしても今はここから離れることもできないので、とにかく気にしないふりをしていました。

そして、私にとっての3.11とはどこか知らない国で起きている出来事か、もしくは虚構の出来事のような感覚がありつつ、とにかく日々の修行を送ることで精一杯でした。

1年後の4月。

1週間の他出を許された私は久々に帰省し、そこで初めて震災の映像や、津波によって被災した岩手県の沿岸部を目の当たりにしました。

小さい時から毎年訪れていた、思い出の高田松原や広田海岸が跡形も無く、そこには1本の松だけ残され荒涼とした景色が広がっていました

恥ずかしながら、この時初めて震災の現実が自分の中に押し寄せてきた瞬間だったのです。

時は流れて

震災当時の状況を何も知らなかったこと、そして何もできなかったことに後悔の念のようなものが心の奥底に塊として残りながらも、私は4年8ヶ月修行を続けました。

そして、今回【歩いて帰るもん。】で出会った岩橋さんと出会ったことで、当時のことがフラッシュバックしました。

あの日、あの時、あの瞬間の出来事で、何もできなかった私。

あの日、あの時、あの瞬間の出来事で、おそらく自分の人生を捧げる覚悟で移住を選択をした岩橋さん。

その行動に尊敬をすると共に、私の中で問いが生まれました。

 

あの時何もできなかったからこそ、これから私は何ができるのだろうか?

 

数キロ先まで乗せてもらったので、およそ10分ほどだったと思います。

ただこの短い車中でも岩橋さんとの出会いは、その後私が実際に行動することになる被災地におけるボランティアや傾聴活動に少なからず影響を与えた一つのきっかけとなったのでした。

 

岩橋さん
それじゃー気をつけて帰るんだよー!

 

岩橋さんは最後までハイテンションで、白の軽バンは石巻に向け走り出し、私もまた目的地に向けて歩き出したのでした。

続く

次回予告

岩崎さんとの出会いをきっかけに、今回は私が経験した3.11をお送りしました。

またまた、横道にそれてしまいました。

実際旅とか関係なく、人生で起こる出来事、そして出会いは全て偶然ではなく、もしかしたら必然ではないかとも思った瞬間でした。

次回は、柏崎市にある修行時代仲間のお寺「寿慶寺」までの道のりをお送りできたらと思います。

「vol.18 私の3.11」をお読みいただきありがとうございました(^ ^)

続きはこちら↓

 

 

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