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今回の記事は、やや重いテーマです。
現代社会に生きる私たちが触れる「死」について、思うところを書かせていただきたいと思います。
Contents
踏切の花束
このテーマで記事を書きたいと思ったのは、禅活メンバーも所属する、曹洞宗総合研究センターの僧侶の一人が話した、
「供養」についてのお話がきっかけでした。
そのお話は、こんな出だしです。
「今日もどこかで誰かが死んでいる」
いわく、その彼は週に一度、温泉施設に行って身体を休めるのを習慣にしていたそうです。
ある日、施設への道すがら、いつも通る踏切に、花束やお菓子が供えられているのを見つけました。
即座に、
「ああ、ここで誰かがいのちを落としたのだ」
そう、思ったそうです。
今はスマートフォンで簡単に情報を検索することができる時代。
彼はつい、そこで起きた事故について調べてしまいました。
亡くなったのは高校生で、どうやら自死の可能性が高いとされている事故だったようです。
若い高校生がどれほどの苦悩を抱えていたのか。
何とかできなかったのか。
温泉施設に行ってからも、その事故のことがどうしても頭から離れず、とてもリラックスどころではなかったそうです。
スッキリしない気持ちのままの帰り道。
彼はその踏切に差し掛かると、自動販売機で缶ジュースを買って供え、
その場にしゃがみ込んで手を合わせたそうです。
見も知りもしない人だけれども、そうせずにはいられなかった。
この話を聞いて、それは人間の持つ慈悲の心の発露であるのだろう、
と思うと同時に、
私は、人の「死」を単なる情報として受け止めてしまう危険性について思いを巡らせました。
単なる情報と化す「死」の危うさ
道端にふと供えられている花束。
それを目にすれば、ここで誰かが亡くなったということがわかります。
しかし亡くなった方がどのような人で、どのような人生を歩んだ人なのだろうか、と思いを巡らすことが果たしてどれだけあるでしょうか。
もしかすると、
ここで「事故」があったんだなあ……
と、無意識のうちに「死」をオブラートに包んで理解しようとしてしまうことの方が多いかもしれません。
私は常日頃、特に都市部において、社会からリアルな人間の死が遠ざけられているように感じています。
考えてみればそれは当然のことで、道端に死体が打ち捨てられているような社会は、
公衆衛生など様々な点で問題があることでしょう。
一方でそれは、僧侶をはじめ、医療関係者、葬儀社など、職能として人の生死に携わることが求められるものを除き、
私たちが身近な人や、親類縁者など、ごく限られた人の死にしか触れる機会がないということも意味します。
そう考えると、私たちが日ごろ受け取る「死」の大部分は、テレビや新聞を通じて伝えられる「情報化した死」ということになるかと思います。
そして、
「本日、○○県で交通事故があり、△人の死亡が確認されました」
このような「情報としての死」ばかりを目にする状況は、現代人のいのちに対する考え方をゆがませることにならないかと不安になることがあるのです。
かつて、僧侶の立場から自死対策に携わり、小学校や幼稚園で生徒にいのちの大切さを伝える活動をしているご老師がこのようなことを言っておりました。
「今の小学生たちの中には、人間のいのちというものを理解できていない子が存在します。教会に行けば死んだ人が甦る、と本気で信じている生徒すらいるのです。これは大変なことですよ。」
いのちが持つ、掛け替えのなさ、尊さ。
あらためてこのことを伝えていく必要があるのではないでしょうか。
「死」の情報化を補うには
科学が発達した現代社会では、ありとあらゆるものが「情報化」しています。
テーマに挙げた「死」に限らず、地球の反対側で今起こっていることや、世界を席巻するコロナウイルスの状況など、科学が発達する前であれば一人の人間が知りえないはずの情報までが検索一発で手に入る社会は、確かに便利です。
しかし便利さの一方で、膨大にあふれかえる無機質な情報は、人間から「大切な何か」を奪ってしまったような感覚にもなります。
「大切な何か」とは、リアルな人間の温かみであったり、「知識」ではなく「経験の重み」であったりするのかもしれません。
そこを補うのは、人間の想像力であり、それを養う智慧だと私は考えています。
情報として、単なる数字として伝えられてしまいがちな「死」ですが、その背後には間違いなく人間が存在するのだということ。
ここを忘れ去ってしまえば、この世から「死者」は消え果てて「死体」のみが残ってしまうことになります。
いや、単なる「記録」になってしまうかもしれません。
そしてさらに想像力を働かせれば、自分という存在の内部にも、生死の循環が存在します。
代表的なものは「代謝」です。
腸壁は1週間から2週間ほどで死に、新しい細胞に入れ替わると言います。
そう考えると「死」は常に私たちと共にあり、逆に言えば、その「死」があるからこそ、私たちはいのちを繋ぎ、いのちを紡ぐこともできると言えます。
私たちが普段口にする食物、父や母から既に亡くなったご先祖様、あるいは自らの体内にあってその生命活動を支える細胞の一つ一つ。
いのちとは生老病死の循環の中にあって、それぞれが掛け替えのないワンピースであるのです。
まとめ
最後に「供養」の意味について、思うところを述べて終えようと思います。
記事を書くきっかけとなった、一人の僧侶の供養。
事故があった場所で、あらためて手を合わせた彼の行動には、大きく2つの意味があると思います。
一つは、死者の冥福を祈るということ。
そしてもう一つは、供養することによって自分の心の中にある生と死のバランスを取るということです。
踏切に供えられた花束を見て、彼の心は大きく揺れ動きました。
言わばこれは、心が「死」に大きく傾いてしまった結果とも言えます。
そこで手を合わせ、冥福を祈ったとき、私は彼自身も救われたのではないかと思うのです。
先ほど述べたように、生も死も地続きで、その循環の中に私たちは生きています。
そこでどちらか一方だけ見るというのはアンバランスです。
生だけを見つめればかえって死への恐怖が増大し、また死だけを見つめても生きることの意味が見失われてしまうのではないでしょうか。
亡くなった方のための供養という行いは、同時に私たちが生きるための手助けともなっている。
このように思いました。