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未熟な若手僧侶が坐禅にについてブツブツとお話しするこちらの企画。

今回は僧侶の側も勘違いをしてしまうことのある調心ちょうしんについてのお話です。

坐禅に興味を持たれる方の多くが気になっておられるはずの「心」について、僧侶もしてしまうことのある誤解に関するお話です。

調身・調息・調心

現在、曹洞宗の僧侶は坐禅をご指導させていただく際には、「坐禅で重要なのは調身ちょうしん調息ちょうそく調心ちょうしんの3つです」とご案内する場合が多くあります。

「整」という字を使わずに「調」と言う字を使って「調える」と言うのは、やはり坐禅の本質が型にはめて矯正することではなく、チューニングをすることにあるからでしょう。

ただし、この「調身・調息・調心」という言葉がいつ頃使われるようになったのかを、私は学が浅く存じておりません。

実は曹洞宗の坐禅を説かれた道元禅師はこの言葉を使っておられませんが、いつの間にか「調身・調息・調心」が一般の方への坐禅の説明の基本となっていました。

この言葉自体は坐禅を伝える上で必要な要素が集約されていていいと思うのですが、一つ誤解されがちな部分があります。

それが「調心」。

時々、坐禅の説明や禅を取り上げた本で「心を調える」という言葉を目にすることがあります。

確かに、「身(体勢)を調える」「息(呼吸)を調える」ときたら「心を調える」と言いたくなってしまいます。

しかし思うんです。

調えたくても調わないから人は坐禅を必要とするのではないでしょうか?

心と体の関係

「心を調える」ということの難しさ

「調心というのは心を調えることです。何かが頭に浮かんでも追いかけるのをやめましょう。」という説明は、一見禅らしいことを言っているようですが、実際にそんなことができるでしょうか?

何をしていても頭を離れない悩みや不安があるから坐禅をしに来られた方が、「考えたことを追いかけない」なんていうことができるなら、苦労はないはずです。

そこで一度曹洞宗の根本的な心と体の関係に立ち返ってみたいと思います。

実は誰もが経験している「調心」

曹洞宗には身心一如しんじんいちにょという考え方があります。

身と心は一つであるが如く密接に関係し合っているという意味で、「身と心は一つである」受け取ってもいいかもしれません

ところが、身と心のうちで、意図的にコントロールできるのは実は「身」だけです

例えば、面接や発表などの緊張する場面で「落ち着け」と思って落ち着くことができるでしょうか?

心は自分でコントロールしようとしたところで、行ってはいけない方向にばかり進んでしまうものなのです。

ではそんな場面で日本人が何をするかというと、日本人は手のひらに「人」と書いて飲んだり深呼吸します。

結局心を心で落ち着かせることはできないから、行動を変えるのです。

身と心はグラスと水のような関係です。

水が揺れるのを止めるには、グラスを安定させるしかないのです

だから曹洞宗の修行生活には作法があり、修行生活に中心には坐禅があるのです。

食事も、洗面もお風呂もお手洗いも、お釈迦様の教えに則った作法によって調えることで心が調い、仏道を歩く心となっていきます。

坐禅だって、身を調え、息を調えるから、結果として心が調うのです。

つまり「調身・調息・調心」というのは「身を調えて、息を調えて、心を調える」ということではなく、「身を調え、息を調えると、心が調う」ということなのです。

より「リアル」な坐禅を目指して

私たち曹洞宗の僧侶は多くの場合、修行を機会に突然坐禅と出会います。

私もその一人で、お寺に生まれたというご縁があっただけで、自分から求めて坐禅と出会ったかというと、決してそうではないいと言えるでしょう。

だからこそ、「坐禅は辛いもの」という気持ちで向き合っていた時期があり、自分でよくわからないまま見過ごしていた課題もありました。

その一つが「調心」です。

私は「思いが頭に浮かんでも追いかない」「心を調える」という言葉を実際には分かりもせず、出来もせずに鵜呑みにしていました。

しかし、人に伝えることになると、いつしかそれが自分自身の課題となり、自分のこととして坐禅と向き合ってみると、実はそうした心のことをうやむやにしていたと気づいたのです。

「調身・調息・調心」という言葉が使われる以前には「端坐・調息・致心」という言葉がありました。

それはやはり「体勢を調えて坐り・息を調えると、心に至る」という意味なのです。

身心一如であり、心と身の性質を考えるなら、やはり調心とは「心を調える」ということではないのです。

坐禅とは、限られた人間にだけできる心の操作法ではなく、身体を通して心にアクセスする一つの生活の知恵になると私は考えています。

私たち禅活-zenkatsu-は、坐禅が「手のひらに「人」と書いて飲み込む」に代わる存在になることを目指しています。

 

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