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先日、お彼岸のお手伝いに伺ったお寺での出来事。

そのお寺のお手伝いをする時は前日から泊まりがけでいき、当日は朝の読経にもご一緒します。

お経が終わり、そのお寺にあるそれぞれの仏壇や床の間にお線香をあげる際に、私は3つのお部屋の床の間を担当。

一つ目のお部屋、二つ目のお部屋と順番にお線香を一本ずつあげていき、三つ目はまだ私が入ったことのないお部屋でした。

襖を開けてお線香をあげ、部屋を出ようとした時、ふと足元を見ると、まだ陽が差さないその部屋にうっすらと浮かび上がる影。

それは

 

大量のレコード。

 

あ、すいません怖い話とかではないです。

100枚くらいはあったでしょうか。

整理のためにつけられたラベルを見た感じ、それがコレクションの一部であることがわかりました。

朝食の時、さりげなく聞いてみると、それは副住職さんの持ち物でした。

しかも、その副住職さんは元DJで、学生の頃は渋谷のクラブでレギュラーをもっていいたのだとか。

さらに僧侶となってからもお子さんが生まれる前までは定期的にDJをしていたそう。

驚きでした。

何せその副住職さんは穏やかで物腰が柔らかく、ヒップホップ文化とは縁がなさそうとだったからです。

(ヒップホップ文化を揶揄する意図は一切ありません。むしろ大好き。)

大学生の頃の話

意外と多いんですよね、僧侶でヒップホップやレゲエ、スケボー等、ストリートカルチャーと言われる文化が好きな人。

かくいう私もその一人。

私は大学生の頃、ストリートダンスサークルに所属し、ブレイクダンスをやっていました。

と言っても実力は箸にも棒にもかからない、趣味のようなもの。

それでも私にとってはかけがえのない青春です。

そしてこれはそんな青春真っ只中の大学三年生のある日。

一学年上のサークルの先輩からこんなお誘いが。

 

「神奈川県の教会のクリスマスパーティーでショーやらない?」

 

当時すでに得度(出家の儀式)はしていましたが、お坊さんがクリスマスパーティーに行っても問題はありません。

詳しいことはこちらの記事をどうぞ。

私は二つ返事で快諾。

その先輩と、後輩二人と一緒にショーをすることになりました。

クリスマスの教会で

会場である教会は想像していたものとかなり異なりました。

前に十字架がかかった、ステージのような場所があって木の椅子が並んだようないわゆるチャペル的な教会を想像していましたが、会場は小さな体育館のようでした。

当然礼拝をする場所は別にあるのだと思いますが、その広さと、教会に日本人が集まっているということがとても新鮮に見えました。

出演者はその教会に縁のある和太鼓奏者や、世界中の教会を回っている海外のドラマーや聖歌隊など、実にバラエティに富んでいました。

会場の方々は私達に対してもとてもフレンドリーで、ダンスショーも盛り上がってもらえました。

そしてダンスチームは私達だけではなく、その教会内での韓国人の先生を中心としたブレイクダンスのチームもいました。

お互いのショーが終わると、わずかな英語と身振り手振りでお互いのダンスを讃え合いました。

ドラマーの言葉と、祈り

パーティーは大盛り上がりのまま佳境に入り、最後は出演者の楽器の演奏に合わせてダンスのセッション。

そこには先ほど紹介したドラマーも加わります。

そしていよいよパーティーが終わろうという頃、演奏が静かになり、ドラマーが話し始めます。

通訳の方がいうには

「今日はとても素晴らしい夜だ。こうしてたくさんの人が集まって一つになって楽しんでいる。そこには国籍も性別も年齢も関係ない。」

本当にその通り、良いこと言うなあと思いながら聞いていました。

しかし、最後にこう言います。

「今日のこの瞬間も全ては神が創りたもうたのだ。みんなで祈りを捧げよう、アーメン。」

その場にいるみんなが手を合わせ、祈りを捧げます。

私はこの時初めて、自分とは信仰の異なる宗教の場にきていたのだ、と感じました。

ここにいるみんなが、この瞬間を神が創ったと本当に思っているんだ。

「あらゆるものはご縁によるものと」考える仏教とは違う。

どうしよう、一緒に祈るべきなのか。

形は周りに合わせながらもそんなことを考えていました。

…いや、待てよ。

みんなが祈っている神は仏教の縁とどう違うのだろう。

宗教としての違いだけで言えば、キリスト教は一神教で仏教はそうじゃない、だから違うことはわかる。

しかし、自分の力ではない大きな「何か」に対して色んな人が集まって出会いを喜び、楽しい時間を共にして、それに感謝している。

何かを信じ、感謝し、この瞬間を噛み締めているということに仏教とキリスト教の違いなんかないのではないか、そんなことを思ったのです。

この時代にこそ

私達人間は、誰もが自分や自分の愛する人、そして信念や信仰を大切にし、幸せを願っています。

しかし、今の国際情勢や日本のネット社会を見ていると、国や宗教や言葉や文化の違いが、人間の違い、さらには命としての違いであるかのようなヘイトの言葉で溢れています

好みが違う、文化が違うことが「悪」であるかのように揶揄をするコメントの数々を見るたび、私はあの日の教会での経験を思い出します。

国も宗教も言葉も違う韓国人のブレイクダンサーとの間に共通した、ダンスが好きだという気持ち。

そして、あの会場にいた全ての人と共通していた、生きていくうえで宗教を大切にしたいという気持ち。

表面は色々なことが違っても、根底にある何かを「大切にしたい」という気持ちに気づいた時、宗教どころか、世界中の人とと分かり合うための「何か」に気づいた気がしました。

きっと私達は無意識のうちに、他人との違いを見つけては自分と比べて優劣をつけようとしてしまうのかもしれません。

本当はそれがサッカーと野球のどっちが強いかを比べるくらい無意味なものだとも気づかずに。

星野源さんが「くせのうた」という曲の中で

 

”知りたいと思うには全部違うと知ることだ”

 

と言っていますが、その通りです。

所詮人間は一人一人が全部違うんです。

今見ている景色一つを取ったって、経験や知識によっては違う見え方をするように、好みも意見も違うのが当たり前なんです。

大事なのは人間として共通する「大切に思う気持ち」に想像をはたらかせてみること、それが今の時代に必要な平和への第一歩なのではないでしょうか。

そんなことを思わせてくれる経験でした。

 

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