「かつて天才だった俺たちへ」を僧侶の視点から考えてみた

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人には必ず、他者と自分を比較せざるをえない時期があります。

その比較や競争が能力や成績、果てには社会の向上へと繋がるのも事実でしょう。

しかし、その比較や競争を楽しめる人というのはごくわずかで、それまで信じて疑わなかった自分の能力や才能の限界を突きつけられ、挫折や絶望を抱くことになった人が大多数のはずです。

今回は、そんな比較の中で自分の限界を知ってしまった人に向けられた曲Creepy Nutsの「かつて天才だった俺たちへ」を、僧侶の視点から考えてみます。

Contents

Creepy Nutsについて

Creepy Nutsクリーピーナッツは、以前も何度か当ブログで取り上げたラッパー、R-指定さんと、DMCという世界大会での優勝経験をもつDJ松永さんからなるヒップホップユニットです。

2017年のメジャーデビュー以来メディアでの露出も増え、今ではテレビやラジオでも活躍しています。

そんなお二人の特徴は、根底に抱えるコンプレックスや劣等感を表現の武器としているところでしょう。

そして、そんなコンプレックスや劣等感を武器に変えてくれたHIP-HOPという文化への愛情が原動力となっている点も彼らの重要な要素です。

その点でいうと、以前ご紹介したPUNPEEさんとも共通している部分がありますね。

(出典:公式HPhttp://creepynuts.com/)
©Sony Music Entertainment Inc

かつて天才だった俺たちへ

今回ご紹介する「かつて天才だった俺たちへ」はそんなCreepy Nutsの最新ミニアルバムの表題曲で、帝京平成大学のCMソングとして作成された曲です。

そんな、大学のCMソングでもあるこの曲は、こんな風に始まります。

苦手だとか 怖いとか 気づかなければ
俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか 思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた

「かつて天才だった俺たちへ」より

これはR-指定さん自身の体験だそうですが、「球技が苦手だ」と気づいたあの瞬間に、「キャプテン翼」翼君のようにボールと友達になる可能性が断たれてしまった。

さらには、頭が悪いと思った瞬間、力が弱いと思った瞬間、人生の要所要所で人と比べては、いくつもの可能性に蓋をしてしまったことが語られます。

そんな、「誰かと比べたあの瞬間まで天才だった自分」が「かつて天才だった俺たち」なのです。

フック(サビ)のこの部分は、思わず苦笑いしてしまう人も多いのではないでしょうか。

かつて天才だった俺たちへ
神童だった貴方へ
似たような形に整えられて
見る影もない

「かつて天才だった俺たちへ」より

かつて天才だった稔光へ

私にも、自分の能力や才能を信じてやまない時期がありました。

体が大きかった幼少期の私には、テレビでプロレスを観て技を覚え、自分が地上最強だと思ったことがあります。

しかし、柔道を習い始めみて、自分の気質、腕力、根性、諸々含めて全く大したことないという現実に直面しました。

あるいは、ほとんどダンスをやっている人がいない高校から東京の大学に進学して、自分が素人に毛すら生えていない存在だと知りました。

小学校では人前で発言することが善とされていたのに、中学ではそれが笑われ、恥だと感じた時、私は人前に立つことも避けるようになりました。

天才だと思った稔光は、人生を重ねるごとに影を薄め、ついには見えなくなってしまったのです。

ただの社会批判の曲?

では、この曲はそんな自分の限界を知ってしまったことに対する共感を求める曲なのでしょうか?

それとも、そんな風に自分の可能性の蓋をすることになる社会を批判したものなのでしょうか?

曲の真意は後半の歌詞で語られます。

風まかせ
どっちみちいばらのway
俺らは大器晩成
時が来たらかませ

「かつて天才だった俺たちへ」より

何かに挑戦してもしなくても、恥をかいてもかかなくても、生きていくというのは決して楽なことではありません。

そんな茨の道の上で、今もう一度、過去に蓋をしてしまった可能性や、見送り三振してしまったものに目を向けてはどうか。

成人した頃には、ある程度自分に見切りをつけてしまうこともあるけど、まだこの後が本番やで!とR-指定さんは言っているのです。

受験を経て、大学に入学しようとする、あるいは現在通っている学生にとって、非常に意味のあるメッセージですね。

偏差値やスポーツの成績などで、色々な秤にかけられた学生には必要な言葉だなあと、しみじみ思います。

無力さを知ることは悪いことか

ではそもそも、私たちが人生の中で、自分の才能や可能性の限界を感じ、無力さを知ることは悪いことなのでしょうか?

私はそうは思いません。

以前、長野県にある善光寺で、お戒壇巡りをした時のこと。

その修行の意味自体は割愛するとして、お戒壇巡りは、本堂の地下の真っ暗な通路を手探りで歩きます

この通路というのは本当に真っ暗で、目の前を歩いている人にすら気づくことができません。

そんな中で、壁に触れることで、自分が進むべき方向がわかるのです

仮にこの壁が一切なく、真っ暗な広間だったら、怖くて歩き出すことすら難しいかもしれません。

そんな風に、人間は壁に触れることで、自分の幅や大きさというものを知ることができます。

苦手なこと、できないことがあると知ることで、人を頼るということも覚えます。

自分の無力さ知ることは、ある意味では自分という存在の「輪郭」を知ることでもあるのです。

大したことないけど、捨てたものじゃない私

私はこの、自分の限界と可能性を知ることは両方とも人生に欠かせない経験だと思います。

自分は思いあがるほど特別な存在ではなく、かといって何の価値もないわけではないと知ることで、人の力を借りながら、そして人の力になろうとしながら生きていく、縁起の生き方が生まれてくるのではないでしょうか。

永平寺での修行生活は、まさにそうでした。

周りよりも優れていると思っていた自分は平凡どころかできないことだらけで、それでも力になれることがないわけではない。

この「思ったより大したことないけど、捨てたもんじゃないな、自分」と思えたことは、私が仏道を歩む上で非常に重要だったと、今では思います。

かつて天才だった稔光くんが、思い上がりすぎず、卑屈にもならずに生きていくには、限界と可能性の両方が大切な役割を果たしているのだと、この曲に教えてもらいました。

 

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