マスク着用をめぐる正義

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新型コロナウイルスの流行が始まっておよそ9か月。

ウイルスの脅威が完全になくなったわけではありませんが、

GoToキャンペーンなどに代表されるように、

コロナウイルスをめぐる政策の焦点は、停滞してしまった経済や人の交流をいかにして戻していくかにシフトしつつあります。

そんな中、このようなニュースが飛び込んできました。

Contents

マスク拒否し「非科学的だ」と乗務員威嚇の男性客、関空行きピーチが新潟に着陸し降ろす

詳細な内容はタイトルを見ての通りです。

格安航空会社ピーチ・アビエーションの機内でマスク着用をめぐるトラブルによって、本来降りる予定ではない空港で降ろされてしまったというもの。

今回はマスク着用について、このニュースから久保田が思うところを書いていきます。

マスクを拒否する人へのイメージ

このニュースについて興味を持って調べるうち、

この男性と客室乗務員との実際のやり取りを記録した2分程度の動画が、YouTubeにアップされているのを見つけました。(※リンクは貼りません)

その動画では男性による、

「他の乗客と十分な距離を取れる席を用意した」という、乗務員の「合理的配慮」を拒否している様子や、

マスクをつけてくださいという要請については承諾するが、付けることはないとする主張など……

短い映像の中で男性の「頑なさ」ばかりがクローズアップされていました。

この動画だけを見ていると、問題は男性の方にあるように思えてしまいます。

事実、私も最近問題視されているモンスタークレーマーの映像と思いながら、動画を視聴していました。

しかし、男性はクレームを付けることによって、不当に利益を享受しようとしたわけではないようです。

航空機を下ろされた後のテレビのインタビューでは、

「自分を含め、マスクを付けられない人もいる」

「マスクの着用をめぐり、その度に自分の病状についてカミングアウトしなければならないのか」

「自分は間違ったことはしていない」

という趣旨の主張をしていました。

当該男性のものとみられるツイッターのアカウントでは、極めて冷静に報道や航空会社の公式発表についても事実と相違する点があると訴えています

なぜ、この男性はここまで頑なにマスクを拒否したのか。

そのことを考えるうち、私が「マスクの着用拒否」について無意識に抱いてしまっているイメージに気が付きました。

マスクをつけない人は自分勝手?

当初は議論があったものの、コロナウイルスという新しい脅威に対して、

マスク着用は一定の効果がある、というのが一般的な認識のようです。

コロナウイルスの脅威が依然として存在する中、マスク着用は一種の義務、あるいは社会のルールとして浸透してきました。

そして、たとえばこれらの記事

なぜマスクしないんすか? アンチマスカーさんたちの回答集

「マスクしない!」は、個人の自由?着用拒否する人のおかしな「理由」と矛盾した「信念」

にあるように、

「個人の自由」を理由にマスク着用を拒否することは、「公共の利益」に反するとして「社会悪」であるかのような扱われ方もしています。

私自身、交通機関や街中で「マスクを着用しないのは身勝手」だと考えていました。

おそらくこうした情報に多く触れることで、マスク着用を「怠る」、ということが「自分勝手」だと決めつけてしまっていたのでしょう。

しかし、感覚は人によって様々です。

ネットで調べてみたところ、感覚過敏ですとか、呼吸器官が強くない場合にはマスクを付けるのが苦痛となるという情報を目にしました。

そうした人々にとってマスク着用にどの程度の苦痛が伴うか、正しく把握できている人がどれだけいるでしょうか。

これは想像に過ぎませんが、マスクを付けることが例えば「濡れたパンツをそのまま履いている」ほどの不愉快さ、あるいは「タオルで鼻や口を塞がれている」ほどの苦しさなのかもしれません。

こうした人にとってマスクを付けることが「当たり前」だと考えられている世の中では、どれほどの生きづらさを抱えることになってしまうでしょうか。

もし、普段から男性がマスクをつけられないことで、こうした生きづらさを抱えているのだとしたら、航空機の中でその感情が爆発してしまったのではないかとも思えてくるのです。

規制が緩和され、様々な活動が再開されていく中で、一つの選択として「マスクをはずす」という人はこれからも増えてくる可能性もあります。

私はこれまで、マスク着用は「当たり前」のこと、と考えていましたが、

「着用が容易ではない」人も存在するということを改めて認識し、対応を考えていく必要があるのだろうと感じました。

定められたルールとの狭間で

私たちが生きる社会には様々なルールが存在します。

憲法、法律、条例など明文化されているもの。

地域の風習や、慣例などそこだけで通用するもの。

そしてグローバル化する世界の中、ルールをめぐるトラブルは数多く引き起こされています。

ルールをめぐる紛争を解消するには、お互いの理解が重要となるでしょう。

その点で今回のケースを考えると、遅延に伴う航空会社や他の乗客への影響を考慮していない男性の側には大きな問題があるように思えます。

しかしその一方で、私が「マスクを着用しないのは身勝手だ」と反射的に思ってしまったように、

マスクを付けない、あるいは付けることができない人のことは、どれほど考慮されているか疑問も残ります。

 

新型コロナウイルスが大きな問題になって以降、世間の正義は「ウイルス感染を食い止めること」に集約されてきました

その中で、自粛警察、マスク警察という言葉に現れているように、相互監視に近い状況ができてしまったのも事実です。

しかし本来、様々な規則は多くの人が円滑に過ごすために存在するものです。

決して、従えない人を排除するために存在するのではありません

そもそも、ウイルスを食い止めなければならないのは、ウイルスによる苦しみから人を守るためです。

ウイルスを食い止めるために人を攻撃するようになってしまっては、本末転倒ではないでしょうか。

様々な正義が交錯する中、今もっとも必要なのは、他の人に対する思いやりであり、慈悲の心なのではないでしょうか。

 

今回のマスク着用拒否による一連のトラブルは、転換期にある日本のコロナ対策を今後どのようにしていくかを考える上で、とても重要な投げかけであるように思います。

 

「自粛警察」については、こちらの記事も是非ご参照ください↓

まとめ

人から人へと感染するコロナウイルス。

感染防止の3つの基本として、厚労省は、

①身体的距離の確保

②マスクの着用

③手洗い

を挙げています。

こちらの項目に挙げられていることからもわかるように、マスクの着用は感染防止における大切な取り組みの一つです。

しかし、外から見て着けているか、着けていないかが一目でわかってしまうマスクは「私はコロナ対策をしていますよ」という証明書(あるいは免罪符?)のようになってしまっているように感じます。

これが行き過ぎれば、マスクの有無だけで「この人は配慮が足りない」「この人は思いやりがある」と短絡的に人を判断してしまうことにつながってしまうのではないでしょうか。

 

今現在、日本のコロナウイルスは落ち着いたように見える状況ですが、

世界では依然としてコロナウイルスは感染を拡大し続けています。

今後、マスクの重要性がさらに高まるということも想定されます。

変化し続ける状況に翻弄されないためには、柔軟に生活スタイルを調えていくことが必要なのだと私は思います。

一つの結論や思い込みに流されず、常に慈悲の心を持ちながら人に対していきたい。

今回のマスク着用拒否報道から、このようなことを考えました。

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