【9/25日法話】「四弘誓願という生き方」

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9月25日㈬に、およそ2か月ぶりとなる「一行写経と法話の会」を開催いたしました。

こちらは当日導師をつとめた久保田智照の法話です。

今回のテーマは四弘誓願文しぐせいがんもん

衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど 煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん 法門無量誓願学ほうもんむりょうせいがんがく 仏道無上誓願成ぶつどうむじょうせいがんじょう

菩薩様の生き方を表したこの短い願文について、久保田が自身の経験と照らしながらお話いたしました。

Contents

菩薩の誓願

本日は四弘誓願文しぐせいがんもんについて、お話しさせていただきます。

この四弘誓願文は、出家し正式な修行をする以前の私にとって、「秘密のことば」「謎の呪文」というものでした。

お寺で生まれ育った私ですから、法要の最後に祖父と父が唱えている四弘誓願文を耳にすることは度々あったのです。

「シュジョームヘンセイガンドーボンノームジンセイガンダン……」

まだ漢字もろくに知らず、難しい熟語も分からず、ましてや仏教用語などチンプンカンプンの幼い私にとって、意味不明な言葉の羅列である四弘誓願文は、何やら秘密めいた神秘的なものに感じられて仕方ありませんでした。

まさに「呪文」です。

年齢を重ねてからも、特にその意味を調べるでもなく生きてきた私でしたが、修行道場に入ったことで自らも四弘誓願文を唱える身となりました。

修行道場では、毎日の日課として、早朝・昼・夕方に法要をお勤めします。

そして夕方の法要の最後には四弘誓願文を三回唱えながら礼拝を行じます。

修行生活が始まって幾日か過ぎたある日、ふと「あー、これは…、お父さんやお祖父ちゃんが法要の最後に唱えていたあれだ。」、と気づきました。

衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど 煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん 法門無量誓願学ほうもんむりょうせいがんがく 仏道無上誓願成ぶつどうむじょうせいがんじょう

この時はじめて、秘密の呪文が四弘誓願文であることが判明し、その意味を知ることになったのです。

 

「迷いの衆生は無辺なり、これを度さんと誓願す

迷いの根源の煩悩は無尽なり、これを断たんと誓願す

仏の教え法門は無量なり、これを学ばんと誓願す

仏の道仏道は無上なり、これを成就せんと誓願す」

 

この四つの誓願は、仏の道を歩もうと決めた菩薩様が心に願いながら行為に表してゆく生き方です。

菩薩様の生き方の基本として知られています。

以前、菩薩様とは、仏教の最大の目標であるお悟りへとほとんどたどり着いているにもかかわらず、一切の迷い苦しむものを救おうと、あえて悩み苦しみの尽きない娑婆世界にとどまり、自らの仏道実践として一切衆生救済の道を歩まれておられると、お話をいたしました。

その菩薩様のお心を象徴しているのが、この四弘誓願文です。

ここで皆さん、この四弘誓願文を冷静に考えてみましょう。

無辺の衆生を度さんと誓願する。衆生は無辺。つまり、限りがありません。

したがって、救済し終わることは決して無い事になります。

煩悩も無尽ですから尽きる事がありません。断じ尽くすことなど不可能です。

法門も無量ですから、学んでも学んでも終わりがありません。学び続けてゆくしかないことになります。

そして、仏道は無上です。どんなに修行してもゴールに辿り着くことはないのです。

その終わりの無い仏道を歩んで行こうという、誓いと願いに生きるのが菩薩様です。

菩薩様=スーパーヒーロー?

本格的に僧侶としての道を歩む前の私は、菩薩様という存在をスーパーヒーローのように考えていました。

苦しむ人々を残らず救ってくださるという菩薩さまは、まさに恐るべき悪に立ち向かうヒーローのように思えたからです。

しかし、ヒーローのように菩薩様を見てしまうと、この誓願は悲愴な決意のようにも思えてしまいます

全てを救えるなら自分はどうなってもいい。

滅私奉公や、ある種の自己犠牲というか、にえとなるのもいとわないような姿勢を感じたものでした。

このこともあって、僧侶として歩み始めるまでの私は、僧侶や牧師という宗教者を、神様・仏様に自らを捧げる生け贄的存在ではないかと思っていたのです。

一般大学に進み、それなりに青春を謳歌していた私にとって、衣・食・住、生活全般の自由を奪う戒律に縛られ、頭を剃り黙々と厳しい修行を続けなければいけない、禁欲的で抑圧的な戒律を受け入れている宗教者の姿を理解するには、彼らが「神に捧げられる生け贄のようなもの」だから、という理由がしっくりくるように思えたのです。

また、神様や仏様への滅私奉公が宗教行為であるとも、考えていました。

一方で、その姿に私は崇高で清潔な聖者を感じてもいたのでした。

修行生活と四弘誓願文

そして大学卒業を機に、そんな私がついに僧侶として生きようとの決心をしたのです。

僧侶となるべく修行道場に入るにあたり、私は修行で自分自身をなんとか変えなければならないと思っていました

そこには、清らかな人、立派な人でなければ宗教者たりえないという考えがあったからです。

迷っては立ち止まり、悩んでは後ろを振り返り……成すべきこともなさず時間を無駄にしてきた、女々しくてどうしようもない、これまでの自分は僧侶にふさわしくない。

これからは、僧侶としてふさわしい、新しい自分に生まれ変わるのだ。

そのためには、修行は絶好のチャンスじゃないか。

そう思って道場の門を叩いたのです。

それは当時の私にとって相当の決意でした。

 

いざ修行生活が始まってみると……

堕落した生活を送ってきた私にとって、初めのうちは本当につらいこと、厳しいことだらけでした。

叱られたり、なじめなかったり。

それまでの私であれば、すぐに弱音を吐いて逃げ出してしまいそうなことの連続の中で、なんとか折れず続けることが出来たのは、他の修行僧や指導して下さる和尚さん方の助けがあったのはもちろんですが、はじめに抱いた決意をなんとか保ち続けられたということも大きな要因でした。

そして、その決意を後押ししてくれたのが、四弘誓願文だったのです。

一日の法要の最後に、礼拝しながら三度、四弘誓願文を唱えると、自然と元気が湧いてきて、菩薩様から自分が励まされているような気がしてきて、また頑張ろうと決意を新たにできたのです。

その後も、山あり谷あり、紆余曲折がありながらも、なんとか一年半の修行生活を終えることができました。

修行道場を出てから

そして、道場を出るときには私はとても晴れやかな、すがすがしい気持ちで、門を出ていきました。

「あー、ようやく解放された!これからは好きなものを何でも食べられるぞ!」

……というわけではないですよ(笑)

その時の私は自分で納得できるだけの修行生活を送れた充実感や、修行道場で学んだことを活かしていこうという新たな決意に満たされていたのです。

 

ところが。

私を待ち受けていたのは、修行に入る前と何ら変わりのない、弱虫で、情けなくて、だらしなくて……どうしようもない自分の姿だったのです。

初めの数週間は、それでも修行生活の習慣を維持できていたように思います。

しかしほどなく東京での一人暮らしが始まると、私の生活は修行前の習慣にどんどん戻っていってしまいました

食べ過ぎ飲みすぎは言わずもがな。

夜更かし、寝坊は当たり前。

些細なことですぐに落ち込み、少し疲れているからと言っては片付けをさぼり、部屋を散らかしてしまう。

修行の時は問題なくできるようになっていたはずのことが、道場を出た途端に再びできなくなってしまったのです。

 

おかしい。こんなはずじゃなかった。

修行とは何だったんだろうか。

悩めば悩むほどわからなくなりました。

かといって戻ることもできません。

たやすく決意も揺らぎ流されてしまう自分に幻滅し、普段の生活を送る自分と、僧侶としてお檀家さんのお勤めをしている自分の姿がどんどん離れていきました

とはいえ、お勤めをおろそかにするわけにはいきません。

お檀家さんのイメージを損なうまいと必死で自分を取り繕っていました

しかし、やがてそのような虚構の生活にも限界が近づいてきます。

時には、自分がまるで僧侶のふりをしている詐欺師であるかのような感覚すら、味わうようになってしまったのです。

あらためて四弘誓願文を唱えて

そんな私が立ち直るきっかけとなったのも四弘誓願文でした

修行道場を出てからの私は、特に理由はありませんが四弘誓願文を唱える機会がありませんでした。

法要の際にお唱えする短いお唱えごとは、四弘誓願文をはじめいくつかあるのですが、私はなぜか四弘誓願文以外のお唱えごとばかり読んでいました。

しかしある日、ご先祖供養のお勤めする際に、何故か私の口は四弘誓願文を唱えたのです。

ただ何となく、師匠が法要の最後に四弘誓願文を唱えていたことを思い出し、本当にただ何となくお唱えしたのです。

衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど 煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん 法門無量誓願学ほうもんむりょうせいがんがく 仏道無上誓願成ぶつどうむじょうせいがんじょう……」

久しぶりに唱えてみると、ご供養のために唱えた筈なのに、どういうわけか四弘誓願文の一つ一つのことばが、私の心のひだに染み入ってくるように感じられました

お檀家さんの御供養のために唱えたはずの四弘誓願文が、私の中に向かって入ってきたのです。

先程、宗教者とは神や仏に身を捧げる生け贄のようなものと考えていた、というお話をしましたが、思えば修行生活を送った後の私も、宗教者に対するこのイメージをどこかで持ち続けていたのです。

清くあろう、毅然としていようとする心がけは、もちろん大切なことです。

しかし、私の場合その宗教者らしい姿勢は、いつしか自らが自らを保つ姿勢ではなく、自らを飾り立てるためのものになってしまっていたのです。

四弘誓願文という菩薩様の誓いと願いにあらためて触れたこの時、私は生け贄のような存在であるという間違った宗教者像にとらわれ、僧侶として生きることの本当の意味を見失っていたことに気が付きました

誓願の中を生きる

その時以来、法要の最後に四弘誓願文を唱えるのは、私の新たな習慣となりました。

相変わらず私は、自分の至らなさに、日々、心を痛めながら、毎日を過ごしています。

しかし、以前ほど思い悩んだり、怒ったり、落ち込んだりということは少なくなりました。

そのように変わったのは、四弘誓願文を通じて菩薩様の本当のお姿に気づけたからです。

衆生無辺誓願度しゅじょうむへんせいがんど衆生とは自分自身の悩み迷い苦しむ衆生性だったのです。

無辺ですから悩み苦しみが尽きることはありません。

自らの煩悩は無尽です。何時までも自らの煩悩と向かい合って行くのです。

法門も無量です。

悩み苦しみ煩悩の尽きない自分だから、学び続けて行く、何処まで歩んでもゴールがないからこそ、歩みを止めてはならない

私の誤った考えは、修行が終わったんだから宗教者として完成しているはずだ、迷いや悩みがあってはならないとして、本来存在しないはずのゴールに到達したふりをしようとしていたのです。

菩薩様の誓願が、無辺・無尽・無量・無上終わりやゴールが無いところに設定されているのは、悩みや迷い、苦しみや悲しみの日々を逃げずに堂々と生きて行く生き方を示しているからだったのではないでしょうか。

四弘誓願文は、達成目標ではなかったのです。

自らの衆生としての有り様や煩悩から逃げずに向き合い、何処までも学び続け、仏の道仏道を歩んで行きます、との生き方の表明だったのです。

私の祖父や父親も、法要の最後に必ず四弘誓願文を唱えていたのは、もしかすると私と同じように悩みや苦しみを抱えた日々を送っていたからかも知れません。

そして、人一倍、迷いや悩みの多い私だからこそ、四弘誓願文に自分を重ね合わせ、大切にしながら歩んでいこうと決めました。

そのことで悩みや迷いは尽きませんが、安心して迷い悩めるようになりました。

もう私の中に、宗教者に対する生け贄のイメージはありません

お互いに、悩み苦しみの多い人生です。四弘誓願文の誓いと願いに生きて参りましょう。

本日は、私にとって四弘誓願文の意味が「秘密の呪文」から「菩薩様からの励まし」、そして「自分の生き方」へと変わっていった

こうした経験をお話しさせていただきました。

ご清聴ありがとうございました。

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