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「当たり前」というと、普通、常識、一般的というイメージです。

辞書的な意味を紐解いてみますと、

当たり前
① だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また、そのさま。 「困っている人を助けるのは-のこと」
② 普通と変わっていない・こと(さま)。世間なみ。なみ。 「 -の人間」 「 -にやっていたのでは成功しない」
※weblio辞書:三省堂 大辞林 第三版より

、なっています。

言うまでもなく、私たちが生きるこの社会は多くの「当たり前」があって、はじめて成立するものです。

「困っている人がいたら助ける」「人を傷つけない」といった道徳も「当たり前」なことですし、

「季節は移り変わる」「昼の後には夜が来る」という、時間の「当たり前」や、

「時刻表に合わせて電車が来る」「税金を払う」「買い物をしたら代金を払う」など、

私たちはまさに膨大な「当たり前」に囲まれています。

こうした「当たり前」に従うことは、自分自身の行動を保障し安心感を与えうるものであると同時に、

行動を縛る・抑制するという風に働くこともあり、息苦しさや生きづらさを感じさせることもあります。

「当たり前」のことを「当たり前」にこなすだけで充実した日々を送ることができる人もいれば、

他者や社会から「当たり前」を求められることがストレスとなり、怒りすら覚える人もいることでしょう。

社会の維持に不可欠でありながら、時に人間を苦しめる「当たり前」。

今回は久保田がこの「当たり前」について考えてみたいと思います。

人間の成長と「当たり前」

まずはこの「当たり前」について、ひとりの人間の成長に照らして考えてみます。

私たちがこの世に生を受けて成長していく過程とは、言うなれば「当たり前」からの脱却の連続です。

乳ではなく、固形の食べ物を口にすること。

抱っこから、ハイハイ、二足歩行と移動の手段を獲得していくこと。

はじめてのおつかいをして経済のシステムに触れること。

これらはすべて、親の庇護がなければ生きられない、という乳児にとっての当たり前」からの脱却です。

その後も「当たり前」からの脱却は続きます。

家を出て、学校に通う。

親兄弟以外の友達を作る。

遊ぶ時間を減らし、予習・復習にあてる。

という、「幼児、小児にとっての当たり前」からの脱却。

さらに、

役所の手続きを自分で行う。

食事の準備を自分で行う。

といった、「少年・青年にとっての当たり前」からの脱却。

このように私たちが成長していく過程は、

ひとつの「当たり前」を壊すことによって、

より強固な「当たり前」を獲得していく過程と言えるのではないかと思います。

しかし、この「当たり前」だと私たちが考えていることは、

ふとしたきっかけでいともたやすく取って代わられてしまうものです。

それは、歳重ね、多くの経験の果てに獲得したものだとしても変わりません。

「諸行無常」の真理が示す通り、

それこそ「当たり前」に「当たり前が当たり前でなくなる」のだと知っておく必要があります。

「当たり前」が壊れるときにおこること

とはいえ自分が「当たり前」だと信じていたものが「当たり前」でなくなることは、

ある種の快感を伴うものでもあります。

先ほどの例で言えば、

成長の過程で親の庇護などの「当たり前」を失う代わりに、

自立や自活という、れまでの自分にはなかった新たな「当たり前」を得ることができたからです。

イノベーションには「当たり前」を崩すことが必要だと言われますが、

古い「当たり前」の崩壊によって、新たな「当たり前」を得ていくことは、

人間あるいは文明の発展と不可分の関係にあります。

常に崩され、変わっていく「当たり前」。

言葉の示す通り「当たり前」のことですが……

私自身、ここ数年の社会の劇的な変化についていけなくなってきていると感じています。

 

スマホ、iPad、zoom、フォトショ、IoT……

相次ぐ技術の革新や、

グローバルスタンダード、LGBT、SDGsなどの、

人権や理念の発展

これら「当たり前」の変化を受け入れられなくなる背景には何があるのでしょうか。

ひとつ考えられることは、

経験によって保障され、

それぞれの努力による脱却を重ねて形作られた「当たり前」は、

自分から壊すのが難しくなるのではないかということです。

人間、歳を重ねるにつれて考え方が固くなる、自由な発想ができなくなるというのは、

長年の経験による「当たり前」の蓄積のせいであるのかもしれません

「当たり前」の崩壊を認められるか

ひとりの人間にとって、

長年の経験による「当たり前」の蓄積は、

膨大な時間をかけた努力の成果とも言えるでしょう。

それが、どこか他のところからやってきた別の「当たり前」に、

いともたやすく取って代わられるということは到底看過できるものではありません。

苦労して必死で身に付けたスキルが、たちまち価値を失ってしまう。

あまりにも残酷な話です。

しかし、認めたくないからといって、

事態の進行が止められるわけはありません。

 

たとえば、フリーのイラスト素材サイト「いらすとや」

使いやすく、種類も多い。

私自身も記事の作成にあたり、しばしば利用していますが、

テレビ、広告など様々な媒体で、もはや目にしない日はないというほど、日本の社会に浸透しました。

利用するユーザーにとって便利な「いらすとや」は、しかし、

イラスト素材の利用に対価が必要という「当たり前」を壊し、

イラスト素材の価値崩壊を引き起こしたとも言われています。

フリー素材の大量提供という「いらすとや」のビジネスモデルは、

それについていけない多くのイラストレーターの淘汰につながったのではないでしょうか。

イラスト業界の「当たり前」をぶち壊した「いらすとや」には、一時非難の声も聞かれましたが、

現在はほぼ好意的に受け入れられていると思います。

このようにひとつの「当たり前」が壊れ、また別の「当たり前」に変わることは、

「当たり前」として受け入れるほかないのです。

「当たり前の変化」を受け入れられないとき

もし「当たり前」の変化を受け入れられず、取り残されていけばどうなるか。

このことを考えたとき、私は「キレる大人」を思い浮かべました。

コンビニの年齢認証で、

「見ればわかるだろうが!」

と、キレる。

禁煙の居酒屋で

「タバコぐらい吸わせろ!」

と、キレる。

行列のできる店で

「待たせすぎだ!」

と、キレる。

些細なことで「いい大人」が怒り狂う。

何度かこのような場面に実際に出くわしましたが、

こうなってしまう原因の一つには

その人が「当たり前」の変化についていけなくなっているということがあるのだと思います。

本当に頼るべき「当たり前」とは

「当たり前」が変化していく中で、生きなければならない私たち。

多くの「当たり前」の中で成立している社会だからこそ、

これまでに培った「当たり前」に依存してしまうのも、「当たり前」のような気がします。

では「当たり前」の中でしか生きられない私たちにとって、本当に頼るべき「当たり前」とは何なのでしょうか。

私はそれは四威儀しいぎ、すなわち行住坐臥ぎょうじゅうざがだと考えています。

「行住坐臥」とは、24時間、人間が生きる上で最も根源的な「当たり前」が、歩き、止まり、坐り、臥す、毎日の生活です。

修行生活を端的に表すなら、普段当たり前に行っているこの四威儀を整えることである、とも言えます。

万人に共通で不変の「当たり前」。

「当たり前」の変化に翻弄されず生きていくには、

繰り返し営まれる毎日の生活を丁寧に、「当たり前」に送ることこそが重要なのではないかと思います。

その中でも姿勢を正し、呼吸を落ち着けて、穏やかに坐り、自分の心の落ち着きどころを知る……「坐」

穏やかに「坐」ることを日常の「当たり前」にできれば、

変化に翻弄されずに済むようになるのではないでしょうか。

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