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STAY HOMEを掲げて日本全体で外出自粛に努めるようになって1ヶ月。

以前ご紹介した星野源さんをはじめ、多くの著名人がSNSなどを通して様々な発信をしてくださっています。

私もSNSやYoutubeなどで発信の場や頻度を増やしているものの、その影響力など微々たるもので、芸能人やアーティストという発信の専門家の皆さんのパワーの偉大さに驚くばかりです。

また、そうした一般人でも返信ができる媒体で発信をしてくれることで、今や有名人の発信は画面からの一方通行のものではなくなりました。

それによって生まれた良い面の一つは、自分が応援したいと思った人に声を届け、時にはそれに対してレスポンスがあり、さらに応援したくなるというような良い循環を生むことでしょう。

一方、悪い面は本人に言う必要の無い、言ってはならない誹謗中傷を匿名というリスクを負わない形で、尚且つ少しディスプレイをなぞるだけで簡単に届けることができてしまうという点です。

そして今回私が気になったのは、Twitterでトレンドにもなっている「#検察庁法改正法案に抗議します」に参加したきゃりーぱみゅぱみゅさんやラッパーのSKY-HIさんに対して寄せられた「あなたの歌が好きなんだからそういう発信はやめて欲しい」というリプライの数々です。(きゃりーぱみゅぱみゅさんは騒ぎを受けて後日ツイートを削除)

私はここに、人への「愛情」の裏に隠された「煩悩」の存在を感じました。

今日はそんな「愛情」と「煩悩」についてのお話です。

煩悩としての「愛」

実は、仏教では愛という言葉は良い意味では使われません。

愛というのは人間関係に限らず、物や動物でも、自分の思い通りにしたいという欲望のことで、根本煩悩である貪欲とんよくと同義です。

また、思い通りにしたいというのは、手に入れるという意味だけでなく、無くなってほしいという意味も含まれていて、愛というのは引き寄せるにしろ突き放すにしろ、強い衝動的な欲求のことを指します。

愛が憎しみと表裏一体であるというのはこのためです。

思い通りにしたいという煩悩としての愛が叶わないとそれによって激しい怒りが湧き上がる、これは以前も何度か触れた煩悩のメカニズムで、DVなどはこれに当てはまりますね。

そしてこの、仏教的には良い意味ではない「愛」を本当の愛だと思っている方が、現代はずいぶん多いような気がします。

愛しさと憎らしさと

SNSで人の距離が近づき、本来接触することができなかった有名人と交流することが可能になった現代。

今回の、有名人たちがSNS上で起こした抗議運動に対して、「好きだったのに」「政治発言はしないでほしい」といった批判が多く寄せられました。

中には「歌手には政治がわからないだろう」というような職業差別と取れる発言、若者を見下す姿勢、女性を軽んずる姿勢も多く見られました。

こうした「ファンである私の機嫌を損ねない方が良いよ」と言わんばかりに、自分の主義主張と異なる発信をした著名人に対して意見を送る様子に、私は非常に恐ろしいものを感じます。

なぜかというと、そこにはファンを自称しながら、実は心の底では他人を自分の思い通りにしたいという非常に自己中心的な欲求が存在しているからです。

それまでたまたま自分の好みに合っていた有名人が、そこから外れた行動・言動を取った瞬間に、約束を裏切られたと言わんばかりに責め立てる行為は、正しく煩悩からくる愛とそこから生まれる怒りでしょう。

そしてこの愛は、もちろん有名人に限らず家族や友人・恋人に対しても生まれることがあります。

仏教では、あらゆる物は自分の思い通りにならないという、「一切皆苦」を説きます。

ところが可愛くて、愛おしくて仕方がないほど、よかれと思うほど、気づけば相手を自分の思い通りにしようとしてしまうのが人間なのです。

自分の願った進路、自分が欲した言葉、自分がして欲しいこと願うことは仏教で言う悪い意味での愛なのです。

今回のように、自分の主義主張にそぐわない発信をした有名人に「あなたの歌が好きなんだから政治的なことは言わないで」という人は、そもそもそこまでファンではなかったのでは?とも思ってしまいますが、身近な人との間では時々その想いの矢印がどこへ向いているか、振り返った方が良いかもしれません。

慈悲としての愛

仏教に、私たちが頭に浮かべる、英語で言うならLoveにあたる言葉があるとすれば、それは「慈悲」でしょう。

慈悲という言葉は一般的にも使うことがありますが、仏教の慈悲の根本は「他者の痛みに対する想像力」だと私は捉えています。

相手の性格や状況から心情や体調を推し量り、抱えている痛みに想像力を働かせ、それに対して共に胸を痛めることが重要です。

そうして人の痛みを知るところから何を与えるべきか、というところに布施や愛語といった行動が生まれるのです

その痛みに対する想像力である慈悲が、今の社会には欠けてきているのかもしれません。

相手が何を辛く悲しいと思うかが分かれば、何に喜び、何を本当に求めるのかがおのずと分かってくるはずです。

時には厳しい態度が必要になり、損な役回りになるかもしれません。

仏教でいう本当の愛情としての慈悲は、必ずしも相手が気づいてくれるとも限りませんし、一方通行になってしまうこともあるでしょう。

しかし、その根底が貪欲でないなら、いつか必ず良い結果をもたらすはずです。

相手を大切に思うのか、相手を使って自分を大切に思うのか…。

自分の気持ちの根底にあるものをよく考えてみると、すべきこと、すべき態度が見えてくるかもしれませんね。

 

 

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