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	<title>五観の偈 - 禅活-zenkatsu-</title>
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	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
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	<title>五観の偈 - 禅活-zenkatsu-</title>
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		<title>法話「これからのために食べる」by渡辺秀憲（2023/12/13禅活しょくどうにて）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Feb 2024 15:00:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[こまきしょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
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					<description><![CDATA[2024年2月まで毎月開催していた精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。 今回掲載するのは、2023年12月13日の回で渡辺秀憲がお話しした法話です。 これ…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>2024年2月まで毎月開催していた精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当していました。</span></p>
<p>今回掲載するのは、2023年12月13日の回で渡辺秀憲がお話しした法話です。</p>
<h2>これからのために食べる</h2>
<p>前回までに引き続き、「五観の偈」をテーマにしたお話をしたいと思います。</p>
<p>今回は五つ目</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;"><em>五つには成道の為の故に今此の食を受く</em></span></strong></p>
<p>についてのお話です。</p>
<p>五観の偈について簡単におさらいします。</p>
<p>曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師が著した書物に『赴粥飯法』というものがあります。</p>
<p>「五観の偈」とは、その書物の中で紹介された、仏道修行における食に対する五つの心構えが示された詩です。</p>
<p>ここまで毎月一つずつ、四つ目までお話しし、その五つ目が本日のテーマである</p>
<p><strong><em>五つには成道の為の故に今此の食を受く</em></strong></p>
<p>です。</p>
<p>現代語に訳すと、「成道のために、今目の前にある食事の供養を受ける」になります。</p>
<p>ここでキーワードとなるのが「成道」です。</p>
<p>「成道」というと、毎年この時期に禅活しょくどうにお越しの皆さんにはなじみ深いかと思います。</p>
<p>そう、十二月八日の「成道会」ですよね。</p>
<p>成道について、仏教語辞典にはこのように書いてあります。</p>
<blockquote><p>サンスクリット語は、完全に悟るの意。<br />
〈悟り〉を完成すること。とくに釈尊のそれを指す。<br />
〈得道〉〈成仏〉に同じ。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div>『岩波仏教辞典』</div>
</div>
</blockquote>
<p>「とくにお釈迦様の」とある通り、「成道会」はお釈迦様がお悟りを開かれたことをお祝いする行事ですので、ここではお釈迦様のお覚りのことです。</p>
<p>では「五観の偈」の「成道」はどうでしょうか。</p>
<p>食事に対する心構えですので、この成道は自分のことになります。</p>
<p>では、私たちが「悟りの完成」のために食事をいただくとはどういうことなのでしょうか。</p>
<p>今回は、お釈迦様の成道のお話から、そのヒントを学びたいと思います。</p>
<h2>お釈迦様の成道</h2>
<p>お釈迦さまは、今のネパールの西南部にあったという、釈迦国という国の王子でした。</p>
<p>王族として豪奢な生活を送っていたそうですが、その性格はとても繊細な内向的だったそうです。</p>
<p>お釈迦様は何不自由ない生活を送る中で、人が老いるということ、病気になること、死ぬということから逃れられない、ひいては生まれるということも思い通りにならないと気づき、思い悩みます。</p>
<p>そして二十九歳の時、ついに生老病死の苦しみから離れる方法を探すために、王族としての地位や、妻や息子という家族を捨てて、出家修行の道を歩み始めました。</p>
<p>出家を果たしたお釈迦様は、当時修行者が多く集まっていた、現在のインドにあるマガダ国の都、ラージャガハというところに赴きます。</p>
<p>ほかの修行者と同じく、托鉢で食べ物を供養してもらう生活を始めました。</p>
<p>そこで当時、瞑想の修行者として名高かった二人の仙人の弟子となります。</p>
<p>しかし、すぐにそれぞれの瞑想法をマスターしてしまいます。</p>
<p>そして、その二つの瞑想法では、生老病死の苦しみへの解決策は見出せませんでした。</p>
<p>次にお釈迦様は、ウルウェーラーと呼ばれる地方に赴いて、「苦行」という修行を勤めます。</p>
<p>仲間の修行者と励ましあいながら、六年もの間苦行に励んでいたとされます。</p>
<p>最終的に、息を止める苦行、食事を摂らない苦行に打ち込み、命を落とす一歩手前まで自分を追い込みますが、それでも生老病死の苦から離れることはかないませんでした。</p>
<p>そこで苦行にも見切りをつけ、ネーランジャラーという河のほとりにて、弱った体を癒すことにします。</p>
<p>苦行の前に行っていた托鉢の修行を行い、体調を整えることから始めたのです。</p>
<p>そのあと、坐禅の修行によって心を静め、生老病死の苦から離れるための方法に思いをめぐらせるのです。</p>
<p>そして、菩提樹という木の下での坐禅の末に、お釈迦様はお悟りを開かれたのでした。</p>
<p>四諦八正道という、生老病死の苦から離れる実践方法を見出されるのです。</p>
<p>この成道の前に、食の供養に関する有名な逸話が残っています。</p>
<p>ある日、お釈迦様がニグローダーという大きな木の下で坐禅をしていると、近くの村に住むスジャータという娘から乳がゆを捧げられました。</p>
<p>当時のスジャータは神様の存在を信じており、木の下で座るお釈迦さまを神様だと思って供養したのだそうです。</p>
<p>またもう一つ、供養の逸話があります。</p>
<p>今度はサーラ樹というという木の下で坐禅をしていると、ソッティヤという農夫が通りかかり、お釈迦様に草の束を供養したといいます。</p>
<p>草の束をお尻の下に敷いてもらって、坐禅の助けにしてもらおうとしたのです。</p>
<p>お釈迦様は、苦行から離れてすぐに成道に至ったわけではありません。</p>
<p>まず出家した当初と同じように、托鉢の修行によって食事の供養を受けました。</p>
<p>坐禅のさなかも、乳がゆや干し草の供養を受けました。</p>
<p>俗世の快楽や苦行による禁欲から離れた状態で、<strong>供養を受けて生活を整えたうえで坐禅をすることで初めて生老病死の苦へと向き合えたといえるのです。</strong></p>
<h2>食事の先にある「これから」</h2>
<p>お釈迦様の成道からは、ご供養を受けた後に自分はどうするのかということを考えさせられます。</p>
<p>私が今までこの禅活しょくどうでお話したことの中で「これから」自分がどうするのか、という話をいくつかいたしました。</p>
<p>たとえば四月にした、福井県の大本山永平寺から福島県の自分のお寺に帰った時のお話です。</p>
<p>福島まで歩いて帰ってこいと言われたことへの反抗心から、法衣というしかるべき格好があるというのに、道中を私服で歩いたという、まったく胸を張れないお話でした。</p>
<p>その道中、見ず知らずのおばあさんからみかんのご供養を受けました。</p>
<p>その時は、自分はこんなに不真面目に歩いていて、供養なんて受ける資格なんてないのにもったいないなと感じる一方、おばあさんの供養の心に、これから少しでもこのみかんに見合うようになろうと思ったことを覚えております。</p>
<p>九月には、永平寺での修行僧時代の話をしました。坐禅に身が入らず、お勤めもきちんと勤められない中で、ストレスで食い意地を張ってばかりいたことの話でした。</p>
<p>今も「立派な修行をしてきました」と胸を張ることはできません。</p>
<p>同じ日に、祖母が脳出血で倒れ、要介護者として寺に戻ってきた話もしました。</p>
<p>先日三度目の手術を終え、歩行器が手放せない生活を送っております。</p>
<p>福島の寺に残っている父と母が介護生活をしています。</p>
<p>二人だけでは手が足りず、時には叔母が手伝いに来ております。私は電話で両親の愚痴を聞くか、土日の休みに寺に戻ることくらいしかできておりません。</p>
<p>これは今でも状況は変わっていません。</p>
<p>それでも、行いの結果や良し悪しで自分を卑下して終わるのではなくて、食事が自分のそれまでの行いに見合うのか反省をして、次の行動に活かすのが大事だ、とお話をしました。</p>
<p>お釈迦様の成道のお話は、私の今までの体験にも通じてくるのだと思います。</p>
<p>見ず知らずのおばあさんからもらったみかんを、今までの自分に見合わないからと言って食べないことは、私に対して供養をしてくれたおばあさんを無下にする行為です。</p>
<p>そのみかんを糧に、これから供養に見合うよう修行していくのです。</p>
<p>永平寺の修行生活が自信を持てるものではなかった、自分の寺の現状に対して何も助けになれていない、だから目の前のご飯を食べない、ということにはなりません。</p>
<p>自分は至らない、だから自分の修行のために食事を頂き、次の行動に活かしていくのです。</p>
<p>お釈迦様が、供養を受けて生活を整え、生老病死の苦へと向き合ったように、私たちもまた食事を頂き、体の健康を整えた上で、食べた後自分がどう生きるか考えていくことが大切なのです。</p>
<p>これまでの自らを省みた上で食事を頂き、これからお釈迦様の教えを実践していくこと、つまりお釈迦様のお悟りとつながる「道を成す」ということが、私たちの成道なのではないでしょうか。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-236x300.jpeg" alt="" width="236" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9559" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-236x300.jpeg 236w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-805x1024.jpeg 805w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-768x977.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-1207x1536.jpeg 1207w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-1609x2048.jpeg 1609w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/IMG_9360-scaled.jpeg 2012w" sizes="(max-width: 236px) 100vw, 236px" /></p>
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		<title>法話「いただきます、は海を超えて」by原山佑成（2023/8/23禅活しょくどうにて）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[禅活-zenkatsu-]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 21 Dec 2023 15:00:44 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[食作法]]></category>
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					<description><![CDATA[毎月開催している精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は2023年8月23日の回で原山佑成さんがお話しした法話です。 法話「いただきます、は海を超えて」…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span>毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、</span><br />
<span>現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。</span></p>
<p>今回は2023年8月23日の回で原山佑成さんがお話しした法話です。</p>
<h2>法話「いただきます、は海を超えて」</h2>
<p>みなさん、改めましてこんばんは。</p>
<p>今回からの法話では、曹洞宗で食事をする前のお唱えの一つ「<ruby>五観<rt>ごかん</rt></ruby>の<ruby>偈<rt>げ</rt></ruby>」をテーマにして、メンバーが順番にお話しいたします。</p>
<p>「五観の偈」は中国の書物で説かれ、道元禅師が著した、『赴粥飯法』の中にも登場する短い詩です。</p>
<p>この短い詩のことをこれを<ruby>偈文<rt>げもん</rt></ruby>といいます。</p>
<p>「五観の偈」は元々口には出さず心で想うものでしたが、今はお唱え事として定着しました。</p>
<p>その内容は、目の前にした食事を五つの視点から見つめるものです。</p>
<p>そうして目の前の食事とそれをいただく自分を省みることで、食事は欲を満たすものではなく修行であることを再確認する、とても大切なお唱えです。</p>
<p>そんな「五観の偈」から、本日は初めの一節についてお話をさせていただきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong><em>一つには功の多少を計はかり　<ruby>彼<rt>か</rt></ruby>の来処を量る。</em></strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「功の多少」とはここまでにどれだけの人の手がかかったか、<br />
「彼の来処」とは、どのようにしてやってきたか、ということです。</p>
<p>つまりこの一節は、目の前の食事がどれだけの命と関わり、どうやって目の前にやってきたかを推し量るというものです。</p>
<p>先程まで私たちの目の前にあった料理にはたくさんの食材が使われていました。</p>
<p>カレーライスには、野菜やお米、カレー粉や出汁、スパイスなど、挙げ始めるとキリがありません。</p>
<p>また、それらの食材の生産者の方々や、加工をされる方々、仕入や販売をする方々、「こまきしょくどう」のスタッフさんなど、こちらも挙げ始めるとキリがないくらいの多くの人たちの手間や苦労、想いが一皿に詰まって運ばれてきます。</p>
<p>ここで重要なのは、たった一度の食事の中に、計り知れないほどの食材や人とのご縁が重なり合って、食べることができているということです。</p>
<p>食べるのが肉でも野菜でも、私たちは計り知れないほどのご縁をいただきながら生きているのです。</p>
<p>一説によると、私たちが一生に行う食事の回数はおよそ八万八千回に及ぶそうです。</p>
<p>一度の食事ですら計り知れないご縁をいただいているのに、それが八万八千回ともなると、いよいよ想像もつかない世界になっていきますが、そんな想像もつかないほどの縁によって私たちは生かされている、ということに思いを馳せることが何より大切です</p>
<p>現代の日本は、飽食の時代ともいうように、身の回りに食べ物が溢れ、お金さえあればいくらでも食べ物が手に入ります。</p>
<p>私自身も、ありがたいことに食べることに苦労したことはなく、修行中ですら一日三食いただくことができました。</p>
<p>そんな中で、つい食べるということが当たり前な営みに思えてしまう瞬間もありますが、先日そんな自分を戒める経験をしました。</p>
<h2>ハワイ研修での経験</h2>
<p>先月7月21日〜28日にかけて、私は生まれて初めて海外に行きました。</p>
<p>その行き先はハワイ。</p>
<p>新婚旅行で、と言いたいところですが、総合研究センターの研修としてのハワイ旅行でした。</p>
<p>実はハワイには現在曹洞宗のお寺が九ヶ寺あり、今回ハワイを訪れたのは曹洞宗の海外開教120年記念にあたって、ハワイの曹洞宗寺院がどのような活動をしているのか、またハワイで曹洞宗や仏教がどのように受け入れられているのかを調査する目的で、一週間ほど滞在しました。</p>
<p>さて、ここまで、観光目的ではないことを皆さんにお伝えするために慎重に言葉を選んでお話ししましたが、研修といえども私は内心ハワイに行けることを凄く楽しみしていました。</p>
<p>初の海外旅行だったうえ、澄み切った綺麗な海と、ダイアモンドヘッドを代表とする雄大な自然。</p>
<p>人も温かい南国リゾートのハワイを想像するするなという方が酷というものです。</p>
<p>しかし、そんな私のハワイ旅行は、想像したものとは違うものになりました。</p>
<p>それは、研修中でハワイの日系人の歴史と、想像を絶する努力を知ることになったからです。</p>
<p>先ほどもお伝えしましたが、ハワイには曹洞宗をはじめとして多くの日本の仏教寺院が存在します。</p>
<p>その理由としては、かつてハワイには多くの日本人が移民した歴史があります。</p>
<p>明治元年に百五十人人ほどの日本人が日本からハワイの地に渡りました。</p>
<p>その後も六十年の間に二〇万人以上の日本人がハワイに移住しました。</p>
<p>その理由は、サトウキビ畑での労働でした。</p>
<p>当初は日本からハワイに渡って労働し、大金を稼いで日本に戻ってくる、いわば出稼ぎのような感覚だったと言われています。</p>
<p>しかしその実態は異なり、実際は奴隷のような扱いを受けていたそうで、現地では厳しい労働環境のもと、安い賃金で強制的な労働を強いられていたのです。</p>
<p>当然生活は貧しかったため、食べられるものは限られていました。</p>
<p>それでも日本からの移民の方たちは必死に労働をして、少しずつハワイでの地位を築いていったのです。</p>
<p>そして、さとうきび畑で労働をする多くの日本人のために、日本から宗教者が派遣されることになりました。</p>
<p>ハワイで最初の曹洞宗寺院が創設されたのは一九〇三年のことで、今から百二十年前のことです。</p>
<p>当然、曹洞宗以外の宗派も続々とハワイでの布教活動を進め、お寺はハワイで厳しい労働に励む人々の心の支えになっていました。</p>
<p>そんな中で起こったのが太平洋戦争の火種ともなった、真珠湾攻撃です。</p>
<p>当時の日本軍はアメリカへの先制攻撃として、真珠湾（パールハーバー）に存在したアメリカ海軍の基地に攻撃を仕掛け、その結果として真珠湾では多くの犠牲者が出ました。</p>
<p>当然その影響はハワイのサトウキビ畑で労働をしていた日系人にも大きな影響をもたらしました。</p>
<p>当時ハワイに在住していた日本人宗教者や、指導者と呼ばれる一部の人たちは、強制収容所に収容されてしまいます。</p>
<p>また、ハワイの日本人や日系人は母国である日本を敵国としなくてはならず、自分の故郷への思いを殺しながらアメリカに従軍しました。</p>
<p>結果として日系人を主として編成された部隊が戦争で大きな成果を挙げたことにより、ハワイでの日系移民の地位は確固たるものとなりました。</p>
<p>最も代表的な人物としては、現在ホノルル空港の名前にもなっている、ダニエル・ケン・イノウエさんです。</p>
<p>ダニエルさんは日本名だと、井上健さんという名前です。</p>
<p>井上さんは日系二世でありながら、第二次世界大戦中はアメリカ軍に従軍し、戦闘によって右腕を失いながらも勝利に貢献し、戦後はアメリカの上院議員にもなった人物です。</p>
<p>イノウエさんを代表とする日系人たちは戦争後もハワイの地に留まり、それぞれが事業で成功するなど多くの功績を残しました。</p>
<p>現在ハワイで日本語が通じる場所が多いのは、多くの日系人たちの活躍によるものなのです。</p>
<p>ハワイでの研修期間中、現地では多くの日本の文化や風習に触れることがありました。</p>
<p>その一つが盆踊りです。</p>
<p>現在の日本では大々的に行なっている場所は少なくなった印象を受けますが、ハワイの盆踊りは活気があり、白熱していました。</p>
<p>老若男女が櫓を中心として円になり、一体となった様子に、私は盆踊りのなんたるかを教わったような気分でした。</p>
<p>特に「福島音頭」という曲が印象的で、「福島音頭」の演奏が始まると、それまで見学していた人たちが一斉に櫓の周りに集まり、二重・三重の円になって熱気を帯びて踊っていました。</p>
<h2>ハワイで出会った「いただきます」</h2>
<p>そして、私が現地で感動したことがもう一つあります。</p>
<p>それは私がジッピーズというハワイでは有名なファミリーレストランで食事をしていた時のことです。</p>
<p>店内にいた日本人は私を含めて研修に同行した二人の僧侶だけ。</p>
<p>他にもたくさんお客さんはいたのですが、みなさん現地の人たちでした。</p>
<p>ふと私が他のお客さんのテーブルを見ると、若い女性の元に料理が運ばれてきたところでした。</p>
<p>どんなものを注文したのだろうと横目で見てみると、そこには大きくて分厚いステーキが三枚も重なっており、アメリカの人たちの一食分の食事量に驚きながら、少しの間眺めてしまいました。</p>
<p>そして次の瞬間、驚くべきう光景を目にしました。</p>
<p>その方が片言の日本語で「いただきます」と言ってから食事を始めたのです。</p>
<p>私はそれまで、食事の前に「いただきます」と言う文化は日本にしかないと思っていました。</p>
<p>しかし、明らかに日本人とは違う欧米の若い女性が、手を合わせて「いただきます」と言っていたのです。</p>
<p>日本に旅行に来た方が言うことはあっても、まさか海外で聞くとは思いませんでした。</p>
<p>その女性がどのような経緯で「いただきます」を知ったのかは分かりません。</p>
<p>もしかすると、意味を知らない可能性もあります。</p>
<p>しかしながら、移住後の苦労や戦争の中で満足に食事をすることができなかった歴史の上に今があることを思えば、不思議なことではないのかも知れません。</p>
<p>現在でもハワイには、日系の方達が多く住んでいます。</p>
<p>その方達は自分のルーツが日本にあることを誇りに持って、日本語学校に通い、日本の文化を大切にしているそうです。</p>
<p>おそらくその方達のご先祖さまは、サトウキビ畑で苦労をしていたのだろうと思います。</p>
<p>貧しい生活の中で、食事が出来ることのありがたさを噛み締めながら「いただきます」と手を合わせていたのではないでしょうか。</p>
<p>それは、決して当たり前ではない一食を目の前にしての心の底からの営みであったはずです。</p>
<p>そしてその心の在りようが日系人のみならず現地で広く伝わっていったのかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>はじめにご紹介した「五観の偈」の最初の一節。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><em>一つには功の多少を計はかり　彼の来処を量る。</em></strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今、目の前にある食事に込められた計り知れないご縁をいただくということに対して、私は頭では分かっていても心の底から思いを馳せることはできていなかったかもしれません。</p>
<p>貧しさを知らずにここまで生きてこれたことも先人たちが紡いでくれたご縁によるものです。</p>
<p>一度の食事、一皿の料理の中には今日に至るまでの歴史すらも込められていることを、私はハワイで聞いた「いただきます」に教えてもらったような気がします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/LINE_ALBUM_禅活しょくどう8月_231221_2-min-225x300.jpeg" alt="" width="225" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-9577" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/LINE_ALBUM_禅活しょくどう8月_231221_2-min-225x300.jpeg 225w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/LINE_ALBUM_禅活しょくどう8月_231221_2-min-768x1024.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/12/LINE_ALBUM_禅活しょくどう8月_231221_2-min.jpeg 1109w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span> </span></p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>「功の多少」と「彼の来処」の見えづらさ～五観の偈より</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6855</link>
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		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 16 Mar 2021 18:00:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗の教えの中で「食事」はとても大切な意味を持ちます。 禅活ブログでは西田さんが「五観の偈」をもとに、食事に関するテーマを記事にしています。 【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える 特にこちらの記事で、言及され…]]></description>
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<p>曹洞宗の教えの中で「食事」はとても大切な意味を持ちます。</p>
<p>禅活ブログでは西田さんが<span style="font-size: 18pt;"><strong>「五観の偈」</strong></span>をもとに、食事に関するテーマを記事にしています。</p>
<p><a href="https://zenkatsu.site/?s=%E3%80%90%E8%82%89%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%91%E3%80%8C%E4%BA%94%E8%A6%B3%E3%81%AE%E5%81%88%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B"><strong>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える</strong></a></p>
<p>特にこちらの記事で、言及されていたように……</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6267" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="「功の多少」と「彼の来処」の見えづらさ～五観の偈より"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える②〜彼の来処ってどこだ？〜</div><div class="date">2020.9.25</div><div class="substr">スポンサードリンク 前回から新シリーズに突入した【肉を食べるということ】。 今シリーズでは、曹洞宗はもちろん、宗派を問わず親しまれる食前のお唱えごと「五観ごかんの偈げ」を通して、肉食や食べることそのものを見直していきたいと思います。 今回はその最初の一文、 一つには、功こうの多少たしょうを計はかり...</div></a></div>
<p>今の世の中では、五観の偈、その第一に語られる<strong>「功の多少」</strong>と<strong>「彼の来処」</strong>がとても見えづらくなっていると思います。</p>
<p>「功の多少」とは、簡単に言えば、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>目の前の食事にどれほどの人の苦労や思いが込められているか</strong></span>ということ。</p>
<p>そして「彼の来処」とは、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>その食事がどのようにして自分のもとに来たか</strong></span>ということ。</p>
<p>私たちが普段何気なく口にする様々な食べもの。</p>
<p>それが自分のところに届くまでの過程を、生産・流通・販売・調理などと、ひと口にまとめてしまうのは簡単なことです。</p>
<p>しかし、食べものには計り知れないほどの手間と苦労、思いが込められています。</p>
<p>さらに想像を巡らせれば、食べものひとつひとつが自然の営みの中で育まれ、まさしく奇跡的なご縁によって私たちの手元にもたらされていることも分かります。</p>
<p>その一方で、私は<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>現代の社会が、こうした「食べもののありがたみ」をなかなか感じ取りづらいものになっているのではないか</strong></span>と思います。</p>
<p>今回は、なぜ「食べ物のありがたみ」が認識しづらくなっているのかというところから、あらためて食べものとの向き合い方を考えていきたいと思います。</p>
<h2>万人共通ではない「いただきます」</h2>
<p>そもそも今回、このような記事を書きたいと思い至ったのは、インターネットで<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>「いただきます」「ごちそうさま」に賛否の声</strong></span>がある、という話を聞いたからです。</p>
<p>日本における、<span class="sc_marker red"><strong>食前食後の「いただきます」「ごちそうさま」は、家庭の普段の食事の中で食べものに対する日本人の向き合い方を表すとても良い風習だと、私は思っています。</strong></span></p>
<p>その一方で、例えば食前食後に「いただきます」「ごちそうさま」と声を合わせること、あるいは<span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">学校で</span><span style="font-size: 16px;">その際に手を合わせるということは<strong>「宗教儀礼の強要」</strong>ではないか、という否定的な意見もあるそうです。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>食事に対して感謝を示すことが宗教儀礼にあたるのだろうか？</strong></span></p>
<p><strong>確かに手を合わせるという行いは仏教の合掌ですから、他の宗教を信ずる人にとっては強要と捉えられて、一種の苦痛をもたらすこともあるのかもしれません。</strong></p>
<p>また<strong>手を合わせるのは亡くなった方に向けるためのものだから、食事の際にするのは不自然</strong>と感じる方もいるそうです。</p>
<p>あるいは、<span style="font-size: 14pt;"><strong>「お金を払っているのだから、客が感謝を示す必要はない。むしろ店が客に感謝すべきだ」</strong></span>という意見もありました。</p>
<p>そのように感じてしまう人にしてみれば、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>必要もないのに「いただきます」「ごちそうさま」を言うことは、ある種の欺瞞であったり、偽善的行為のように思えてしまうのかもしれません。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4200634_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6920" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4200634_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4200634_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">私個人は、宗教も道徳も風習も様々なものがあるし、寛容に受け入れていけばいいじゃん！と、思ってしまうのですが、</span></p>
<p>人にはそれぞれ考え方があります。</p>
<p>議論の是非はともかくとして、私はこの「いただきます論争」を知って、なんとなく食べものへの感謝の念が薄れてきているのではないかという思いを抱くに至りました。</p>
<h2>「お金」で量る時代</h2>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>食べものが自分のもとにもたらされるということ。</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>そこには計り知れない奇跡的なご縁がある、</strong></span>と書きました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">もしこうしたご縁や、そこに対する感謝が薄れてきているとするなら、その背景には何があるのでしょうか。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ひとつ思い浮かんだのは、<span style="font-size: 18pt;"><strong>「お金」</strong></span>です。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/mark_yen_okaikei_optimized-300x300.png" alt="" width="300" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-6917" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/mark_yen_okaikei_optimized-300x300.png 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/mark_yen_okaikei_optimized-150x150.png 150w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/mark_yen_okaikei_optimized.png 400w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>私たちは普段、「お金」という市場経済の尺度によって、モノの価値を測ります。</p>
<p>実際に、私たちの身の回りにあるもので「値段」のついていないものはほとんどありません。</p>
<p>あれは高いからいいものだ、これは安いからそんなに良くない。</p>
<p>ありとあらゆるものに値段が付けられてしまう世の中。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>そこに生きる私たちは、ほとんど全てのモノの価値をお金で量ろうとしてしまうクセのようなものが身に付いてしまっているのではないでしょうか。</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>行くところまでいけば、この人はお金になる人だから付き合おうとか、お金にならない人だからそれなりの付き合いにしておこうとか、人間関係すらお金で量るようになってしまうかもしれません。</strong></span></p>
<p>さきほど挙げた、「お金を払っているのだから、客が感謝を示す必要はない。むしろ店が客に感謝すべきだ」という意見は、まさに人間関係をお金で量ってしまっている例のように思えます。</p>
<p><strong>食事を提供するお店と、利用するお客という関係。</strong></p>
<p><strong>これをお金だけで見てしまうと、店と客という関係性にしか目がいかなくなります。</strong></p>
<p><strong>しかし、提供された食べものと、提供してくれたお店、それをいただく人をつなぐ目に見えないご縁は、お金で表すことのできないものです。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>言うまでもなく、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>値段がつかない＝価値がない、ではありません</strong></span>。</p>
<p>それどころか、<span class="sc_marker red"><strong><span style="font-size: 14pt;">目に見えず値段のつけられないものこそ、人にとって大切なものであるということが多いのでは</span></strong></span>ないでしょうか。</p>
<p>また、お金という尺度で食べものを見ようとすると、毎日必要となる分、どうしても<span style="font-size: 14pt;"><strong>安さ</strong></span>に目が行ってしまいます。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>もしも、良いものを安く提供したい、という企業努力の結果として、</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker blue"><strong><span style="font-size: 14pt;">「食べものは安くてもいい」という考え方が広まり、</span></strong></span></p>
<p><span class="sc_marker blue"><strong><span style="font-size: 14pt;">食べものに対する感謝の念が薄れているのだとしたら、それはとても悲しいことです。</span></strong></span></p>
<h2>「お金」と「企業努力」</h2>
<p>とはいえ、お金によって量るということが、まったく悪いというわけでもないと思います。</p>
<p>時に、<span style="font-size: 14pt;">数字を知ることが食べ物に込められた思いを推し量ることにつながることも</span>あります。</p>
<p>たとえば、ロングセラーの駄菓子<strong><span style="font-size: 14pt;">「うまい棒」</span></strong>。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/1206556_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6918" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/1206556_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/1206556_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>一本10円という低価格で、子どものおやつとして不動の人気を誇り続ける「うまい棒」。</p>
<p>よく考えてみると、うまい棒は発売された<span style="font-size: 14pt;"><strong>40年前</strong></span>から同じ値段です。</p>
<p>言うまでもなく、その間に物価は上昇しています。</p>
<p>それにもかかわらず、企業努力を重ね10円という価格を維持し続ける背景には、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「子どもが自分のおこづかいを使って買うものだから」</span>という企業の思いがあるそうです。</p>
<p>興味を持ってインターネットで調べたところ、「うまい棒　たこやき味」の原価はなんと……</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 24pt;"><strong>約9円（！）</strong></span>だそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>驚愕の原価率90%。</strong></span></p>
<p>数字を見るだけで、買ってくれる人のことを考えながら、なんとかいいものを提供しようという企業の思いが伝わってきませんか？</p>
<h2>目に見えない努力の数々</h2>
<p>最近、お気に入りのテレビ番組があります。</p>
<p>それはTBSのジョブチューンという番組。</p>
<p>その人気企画に、<span style="font-size: 14pt;"><strong>コンビニの商品や外食チェーンの新メニュー、料理研究家のレシピなどを、一流と呼ばれる料理人たちが審査し、合否を問う</strong></span>というものがあります。</p>
<p>それを見ていると、<strong>普段コンビニなどで何気なく手にする一つの商品に、どれだけの思いが込められているか</strong>が伝わってきます。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">参加する企業の担当者は、料理人たちの審査に一喜一憂し、時には涙さえ流します。</span></p>
<p><strong>「仕入れから、調理方法まで厳選して、この価格を実現しました！」</strong></p>
<p><strong>「うちを選んでくれたお客様をがっかりさせたくないという一心でした」</strong></p>
<p>といった、普段は触れることのない商品開発者の生の声に加え、審査する料理人たちも、</p>
<p><strong>「真剣にお客様のことを考えて作ったということが伝わりました」</strong></p>
<p><strong>「○○さんの料理に対する情熱がこの味を生んでいる」</strong></p>
<p>と、商品開発の努力を称え、不合格であっても暖かいアドバイスを送ります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この番組を見ていると、コンビニなどで目にする商品が、</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>企業の利益に貢献する優れた商材としてのみ作られたわけではない</strong></span>、という風に思えます。</p>
<p>普段、気軽に手に取り、購入することのできるものが、これだけの思いによって作り上げられているということを目の当たりにすると、</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>世の中がたくさんの善意によって成り立っているということまで再確認できたような気持ちになる</strong></span>のです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4111274_s_optimized-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" class="alignnone size-medium wp-image-6919" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4111274_s_optimized-300x224.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4111274_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>込められた思いは「対価」を越える</h2>
<p><strong><span>一つには、<ruby>功<rt>こう</rt></ruby>の<ruby>多少<rt>たしょう</rt></ruby>を<ruby>計<rt>はか</rt></ruby>り、<ruby>彼<rt>か</rt></ruby>の<ruby>来処</ruby>を<ruby>量<rt>はか</rt></ruby>る</span></strong></p>
<p>どんな食べものも、まず自然の働きがあって、そこにたくさんの人がかかわり、努力があって今私たちの手元に届いています。</p>
<p>普段そうとは意識しなくても、私たちが食べものをいただく際に行われている工夫や努力もあります。</p>
<p>居酒屋で出てきた冷たいグラスは、飲み物を美味しく飲むためにわざわざ「冷やしてくれている」もの。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">トンカツの</span>「ごはん・キャベツ・味噌汁お替り自由」は、「トンカツでおなかいっぱいになってもらいたい」という願いがあってのもの。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">食べもののありがたみは、お金という「対価」に左右されません。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>食べものに込められた思いに気付き、そのご縁に思いを巡らせることができたとき、食べものとの向き合い方は自然と変わってくるのではないでしょうか。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4337658_s_optimized-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" class="alignnone size-medium wp-image-6921" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4337658_s_optimized-300x199.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/4337658_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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			</item>
		<item>
		<title>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える④〜食と煩悩〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6422</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6422#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Oct 2020 15:00:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[永平寺]]></category>
		<category><![CDATA[肉]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えてきたこちらの企画。 今シリーズでは食事の際のお唱えごとの一つ「五観の偈」を読みながら、改めて肉食や食べることそのものを考えています。 前回の記事はこちら そして、今回は第３の視点 「三つに…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えてきたこちらの企画。</p>
<p>今シリーズでは食事の際のお唱えごとの一つ「五観の偈」を読みながら、改めて肉食や食べることそのものを考えています。</p>
<p>前回の記事はこちら</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6392" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0467_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える④〜食と煩悩〜"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える③〜私の行いと食事〜</div><div class="date">2020.10.2</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食を捉え、そして食事そのものを見つめ直してきたこちらの連載。 前シリーズでは曹洞宗の仏性観・不殺生観・修行観から、食事に重要なことは「何を食べるか」ではなく「どう作り・どう食べるか」であるということをお伝えしました。 そして今シリーズでは、食前のお唱えごとと...</div></a></div>
<p>そして、今回は第３の視点</p>
<p><strong>「<span class="sc_marker red">三つには<ruby>心<rt>しん</rt></ruby>を防ぎ</span><ruby><span class="sc_marker red">過</span><rt><span class="sc_marker red">とが</span></rt><span class="sc_marker red">を離るることは、</span><ruby><span class="sc_marker red"><ruby>貪等<rt>とんとう</rt></ruby>を</span><ruby><span class="sc_marker red">宗</span><rt><span class="sc_marker red">しゅう</span></rt><ruby><span class="sc_marker red">とす</span>」</ruby></ruby></ruby></ruby></strong></p>
<p>について考えます。</p>
<p>実は、<span class="sc_marker y"><strong>５つの文の中で最も我々を悩ませるこの一文。</strong></span></p>
<p>少し複雑になりますが、何卒お付き合いください。</p>
<h2>食事と欲</h2>
<p>ここまで、「一つには〜」で食事、「二つには〜」で己の在り方を見つめてきました。</p>
<p>そしてここからは、<span class="sc_marker y">実際に食事をどのようにいただくか</span>、ということが主題になっていきます。</p>
<p>まずは前半部分からみていきましょう。</p>
<h4>心を防ぎ</h4>
<p>ここでいう「心」というのは、講談社学術文庫『典座教訓・赴粥飯法』の語注によれば、「<span class="sc_marker red"><strong><ruby>妄心<rt>もうじん</rt></ruby></strong></span>」を指すとのこと。</p>
<p>妄心というのは、<strong>煩悩心とも言い、間違いを起こす心</strong>のことです。</p>
<p>そして「防ぎ」というのは現代とそこまで意味は変わらず、「起こらないようにし」といったところでしょう。</p>
<p>つまりは「心を防ぎ」は</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>妄心が起こらないようにし</strong></span></p>
<p>という意味になります。</p>
<h4>過を離るることは</h4>
<p>続いて、<ruby><strong>過</strong><rt>とが</rt></ruby>というのは、読み慣れないですが「過ち」という風に読むことを考えると想像しやすいですね。</p>
<p><strong>間違いや失敗、罪のこと</strong>をいいます。</p>
<p>つまりここは単純に</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>過ちを離れるということは</strong></span></p>
<p>という意味になります。</p>
<h4>心と過の前後関係</h4>
<p>この、「心」と「過」の関係について、江戸時代に活躍された曹洞宗の<strong><ruby>面山瑞方<rt>めんざんずいほう</rt></ruby>禅師</strong>は『<span><ruby><strong>受食五観訓蒙</strong><rt>じゅじきごくんもう</rt></ruby>』の中で「心」が原因となって「過」が起こると指摘されています。</span></p>
<p>つまり「心を防ぎ過を離るる」とは、「<strong>妄心を防ぐこと＋過を離れること」ではなく</strong>、</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「妄心が起こらないようにする＝過ちを離れる」</strong></span>という構造になっているようです。</p>
<p>ということでこの部分をまとめると、</p>
<p><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><strong>「妄心が起こらないようにして過ちを離れるということは」</strong></span></p>
<p>という風に訳すことができます。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25786227_201008-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-6426" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25786227_201008-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25786227_201008-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25786227_201008-min-1024x768.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_25786227_201008-min.jpg 1478w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>貪等を宗とす</h2>
<p>続いて後半の部分に「貪等を宗とす」とはどういうことかが説かれます。</p>
<h4>貪等を</h4>
<p>ここで登場するのが、<strong><ruby>貪<rt>とん</rt></ruby></strong>という言葉。</p>
<p>これは以前<strong><a href="https://zenkatsu.site/archives/2110">アラジンの記事</a></strong>や<strong><a href="https://youtu.be/4XdsxLy5A2c">Youtube</a></strong>でも触れた、<span class="sc_marker y"><strong>根本煩悩と呼ばれる三毒の一つ</strong></span>です。</p>
<p>そこで触れたように、煩悩というのは一つ一つが単独で起こるのではなく</p>
<p><strong>自分の思い通りにしようと貪り(貪)</strong><br />
<strong>→思い通りにならなくて怒り(<ruby>瞋<rt>じん</rt></ruby>)</strong><br />
<strong>→我を見失って過ちを犯す(<ruby>癡<rt>ち</rt></ruby>）</strong></p>
<p>という三毒の連鎖がループして起こります。</p>
<p>この<strong>瞋</strong>と<strong>癡</strong>が「等」という字には含まれていて<strong>、</strong>「貪等を」というのは<strong>「貪瞋癡の三毒を」</strong>と言い換えることができます。</p>
<h4>宗とす</h4>
<p>続いて「宗」というのは、現在では「曹洞宗」のように宗派を表す時に用いることが多いですが、元々は<span class="sc_marker y"><strong>物事の根本を意味する言葉</strong></span>として用いられていました。</p>
<p>家の大元を「宗家」と言うのはそのためですね。</p>
<p>転じて、この字は宗教などの教えの根本、趣旨を意味します。</p>
<p>そこでこの部分の訳をまとめると、</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong><span style="font-size: 14pt;">貪瞋癡の三毒を根本とする</span></strong></span></p>
<p>となります。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_19239166_180911_0044-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-311" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_19239166_180911_0044-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_19239166_180911_0044-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_19239166_180911_0044-1024x768.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_19239166_180911_0044.jpg 1478w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>ややこしさの理由</h2>
<p>ということで、「三つには〜」の訳をまとめると</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong><span style="font-size: 14pt;">三つには、妄心が起こらないようにして過ちを離れることは、貪瞋癡の三毒をその根本とする</span></strong></span></p>
<p>ということになるわけですが、<strong>「貪等を宗とす」の部分がどこか釈然としません。</strong></p>
<p>実はこれが、<span class="sc_marker blue"><strong>曹洞宗の食の教えを学ぶ人の頭を悩ませてきた部分</strong></span>なんです。</p>
<p>ここに関して、先ほどの面山禅師は<strong>「宗というのは[真っ先に]という意味がある」</strong>と述べられるのですが、多くの曹洞宗僧侶がお世話になっている「<a href="https://seesaawiki.jp/w/turatura/"><strong>つらつらwiki</strong></a>」を運営する<ruby><strong>菅原研州</strong><rt>すがわらけんしゅう</rt></ruby>先生によれば、その訳はどうも怪しいとのこと。</p>
<p>また、臨済宗妙心寺派などでは</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「心を防ぎ<span class="sc_marker y">過貪等を離るることを</span>宗とす」</strong></span></p>
<p>と読むそうで、こちらの方が「<strong>過ちや三毒を離れることを根本とする</strong>」という訳になるので、意味はわかりやすいですね。</p>
<p>この点については「実は読み間違いなんじゃないのか説」などもあったりして、はっきりとした結論は出ていないんです。</p>
<p>そこで、ここでは<span class="sc_marker y"><strong>私なりの受け止め方を考えてみたい</strong></span>と思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/717F08B5-014F-455B-97E6-351B57EEB913-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-879" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/717F08B5-014F-455B-97E6-351B57EEB913-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/717F08B5-014F-455B-97E6-351B57EEB913-768x512.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/717F08B5-014F-455B-97E6-351B57EEB913-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/717F08B5-014F-455B-97E6-351B57EEB913.jpeg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>修行としての食事</h2>
<p>私個人としては、<strong>「過を離るることは貪等を宗とす」</strong>と読むからには、<strong>「過貪等を離るることを宗とす」</strong>と同じ意味としてしまうのはもったいないような気がします。</p>
<p>それは面山禅師が指摘された「心」を原因として「過」が生まれるということと、貪瞋癡のメカニズムのリンクに大きな意味があるように感じるからです。</p>
<p>心によって過が起こるように、貪から瞋と癡が起こる。</p>
<p>この構造を、講談社学術文庫版ではこの部分を次にように訳しています。</p>
<blockquote><p>常日ごろ、迷いに心が起きないように、また過ちを起こさないように心掛けるが、<br />
その際に貪りの心、怒りの心、道理をわきまえぬ心の三つを根本として考える。<br />
食事の場においても同様である。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div>『典座教訓・赴粥飯法』(講談社学術文庫)より</div>
</div>
</blockquote>
<p>こちらの訳では<span class="sc_marker y"><strong>三毒に振り回されないように心がける日ごろの仏道修行を、食事の中でも実践します</strong></span>、という意味で捉えています。</p>
<p>以前、<a href="https://zenkatsu.site/archives/2394"><strong>食事作法の記事</strong></a>や<a href="https://youtu.be/xhM7n5W0X88"><strong>動画</strong></a>でも取り上げたように、食事は生物としての本能に直結するため、坐禅や作務と比べてひときわ煩悩に囚われやすい行いです。</p>
<p>また、<strong>煩悩は一度抑えたら二度と出ないものではなく、次々に湧いてくるもの</strong>。</p>
<p>そこで重要なのは、<span class="sc_marker y"><strong>生きている限り煩悩は生じるのだから、その度に抑えていこうと心に誓うこと</strong></span>なのです。</p>
<p>これを食事の前に確認し、心に留めながらいただこう、ということがこの一節の趣意なのではないでしょうか。</p>
<p>そうした点から、私はこの一節を次のように受け止めたいと思います。</p>
<p><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><strong>三つには、食事の中で妄心が起こるのを防いで過ちを離れるのは、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><strong>貪を抑えて瞋と癡を離れることを根本とする。</strong></span></p>
<p>学術的な正確さには欠けてしまうかもしれませんが、食事における煩悩のコントロールの話として捉えてみました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/04/44633C5D-5182-4A8A-84D0-D7CDB221F6BE-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1251" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/04/44633C5D-5182-4A8A-84D0-D7CDB221F6BE-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/04/44633C5D-5182-4A8A-84D0-D7CDB221F6BE-768x512.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/04/44633C5D-5182-4A8A-84D0-D7CDB221F6BE-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/04/44633C5D-5182-4A8A-84D0-D7CDB221F6BE.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>今回は、この一文の訳や捉え方、さらには読み方に関しても諸説ある一番の難所をご紹介しました。</p>
<p>この一文で言わんとしているのは、<span class="sc_marker red"><strong>欲を満たすための食事ではないのだから、心して食べましょうね</strong></span>、ということなのではないかと、私は捉えています。</p>
<p>以上、やや結論としては曖昧になってしまいましたが、「三つには〜」の考察でした。</p>
<p>次回は「四つには〜」について考えます。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/20191212_201008-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6425" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/20191212_201008-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/20191212_201008-min-768x513.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/20191212_201008-min-1024x684.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/20191212_201008-min.jpg 1566w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>※「五観の偈」は曹洞宗だけではなく、他宗派でもお唱えするものですが、その内容や読み方はそれぞれ微妙に異なります。</p>
<p>他宗派や別バージョンのものを知りたい方は、菅原研州先生のブログをご覧ください。</p>
<p>私が研究のご指導をご指導をいただいている先生で、見識の幅が尋常ではない方です。</p>
<p><strong><a href="https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/1b11b1f61830532fb8de0527e7a19d31">浄土教系の「五観の偈」</a></strong><br />
<strong><a href="https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/9c4a0aa0ee534fe51b54ea958feab74e">法華系「五観の偈」について</a></strong></p>
<p>また、今回の記事に関して、同ブログのこちらの記事を参考にさせていただきました。</p>
<p><strong><a href="https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/52b694e98f61e8923fa7640c05c4a985">「三　防心離過貪等為宗」について</a></strong></p>
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<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える②〜彼の来処ってどこだ？〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6267</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6267#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Sep 2020 15:00:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[五観の偈]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=6267</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 前回から新シリーズに突入した【肉を食べるということ】。 今シリーズでは、曹洞宗はもちろん、宗派を問わず親しまれる食前のお唱えごと「五観ごかんの偈げ」を通して、肉食や食べることそのものを見直していきたいと思います。 今回…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>前回から新シリーズに突入した<strong>【肉を食べるということ】</strong>。</p>
<p>今シリーズでは、曹洞宗はもちろん、宗派を問わず親しまれる食前のお唱えごと<strong>「<ruby>五観<rt>ごかん</rt></ruby>の<ruby>偈<rt>げ</rt></ruby>」</strong>を通して、肉食や食べることそのものを見直していきたいと思います。</p>
<p>今回はその最初の一文、</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">一つには、<ruby>功<rt>こう</rt></ruby>の<ruby>多少<rt>たしょう</rt></ruby>を<ruby>計<rt>はか</rt></ruby>り、<ruby>彼<rt>か</rt></ruby>の<ruby>来処</ruby>を<ruby>量<rt>はか</rt></ruby>る</span></strong></p>
<p>について考えてみます。</p>
<h2>五観の偈＝食への感謝？</h2>
<p>「五観の偈」のは、実に様々な書籍やHPで取り上げられ、様々な翻訳・意訳がされています。</p>
<p>そこで時々見かけるのが、「五観の偈」を「食への感謝」として位置付けているものです。</p>
<p>もちろん、食べるということに対して感謝はして然るべきです。</p>
<p>特に今回お話しする一段目は、家庭の食卓にも結びつけやすい内容なので、この感謝という表現がよく馴染みます。</p>
<p>しかしここではあえて、<strong>「感謝」という感情的な視点ではなく、もっと客観的な視点から</strong>「五観の偈」を捉えてみたいと思います。</p>
<p>「五観の偈」は食に対する心持ちに止まらず、<strong>食事を前にした自分の在り様を見つめるものである</strong>と、私は思うからです。</p>
<p>そしてそうすることで、「五観の偈」がより実生活と結びついた、ある意味で生々しいものになっていくのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h2>功の多少</h2>
<p>まずは前半部分、</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">功の多少を計り</span></strong></p>
<p>をみていきましょう。</p>
<p>「功」というのは、成果や結果という意味もありますが、簡単に言えば<strong>「働き」</strong>のことです。</p>
<p>「多少」は、<strong>「どれほどの」</strong>という意味があるようです。</p>
<p>「計」は、時間や数量などを<strong>「数える」</strong>というような意味があります。</p>
<p>つまり直訳してしまうと、</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><strong>この食事にかけられた働きはどれほどかを数える</strong></span></p>
<p>というような意味になります。</p>
<h3>どこまでが「功」？</h3>
<p>では、食事かけられた「働き」とは、「功」とはどこまでのことを言うのでしょうか？</p>
<p>まず一番想像しやすいのが、「調理」です。</p>
<p>材料の下ごしらえをし、火を通したり味付けをして、盛り付ける。</p>
<p>これは計るのに難くない「功」ですね。</p>
<p>ではその材料はどうやって手に入れたでしょうか？</p>
<p>買うにしろ育てるにしろ、獲る(採る)にしろ、調理の場まで届けるための「功」が必要になります。</p>
<p>さらには販売に至るには?</p>
<p>そのように考えていくとこの時点で、流通や飼育、栽培など、<strong>「計る」と言いつつも、想像しきれないほどの「功」が、そこにはあるのです。</strong></p>
<h2>彼の来処を量る</h2>
<p>続いて後半部分</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">彼の来処を量る</span></strong></p>
<p>を見てみましょう。</p>
<p>「彼」というのは<strong>目の前の食事のこと</strong>で、「来処」は来たところ、要するに「<strong>どこから来たか</strong>」という意味と考えて良いでしょう。</p>
<p>そして「量る」というのは、時間や数を調べる「計る」に対して、重さや容積といった、<strong>見ただけでは把握できないものを計算したり見当をつけること</strong>をいいます。</p>
<p>つまり、この後半部分は</p>
<p><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><strong>その食事がどのようにしてここへ来たのかを推し量る</strong></span></p>
<p>といった意味になるわけです。</p>
<h3>彼の来所が見えない時代</h3>
<p>ここまでご覧になって「はいはい、なるほどね」と思われたそこのあなた。</p>
<p>こちらの画像をご覧ください。</p>
<p>これ、何の花だと思いますか？</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0130-min-1024x683.jpeg" alt="" width="1024" height="683" class="alignnone wp-image-6342 size-large" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0130-min-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0130-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0130-min-768x512.jpeg 768w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正解はこちら</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0132-min-1024x683.jpeg" alt="" width="1024" height="683" class="alignnone wp-image-6343 size-large" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0132-min-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0132-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_0132-min-768x512.jpeg 768w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p><strong>オクラ</strong>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>では、この植物はなんだと思いますか？</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_1504-min-1024x683.jpeg" alt="" width="1024" height="683" class="alignnone wp-image-6344 size-large" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_1504-min-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_1504-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/DSC_1504-min-768x512.jpeg 768w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正解は、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_0-min-1024x768.jpg" alt="" width="1024" height="768" class="alignnone wp-image-6339 size-large" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_0-min-1024x768.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_0-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_0-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_0-min.jpg 1478w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p><strong>胡麻</strong>なんです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私たち現代人は、実は様々な過程をすっ飛ばしてスーパーや商店で食品と出会います。</p>
<p>ドラゴンボールで言えば、<strong>いきなりセル編の悟飯を見ているようなものです。</strong>(わかりづらい）</p>
<p>中でも肉は、その最たるものでしょう。</p>
<p>牛や豚や鳥が、肉としてパックに詰められるまでにかかる、<strong>様々な作業やそこにかけられる思いを知る由もなく、肉として出会います。</strong></p>
<p>過去に触れたように、食肉加工は差別されてきた歴史もあるため、なかなかその様子を目の当たりにすることはできません。</p>
<p>そして今では、肉だけでなく野菜や果物まで、<strong>その来処を見ることができなくなっている</strong>のです。</p>
<h2>「計り知れなさ」を知る</h2>
<p>では、食事の来処が見える自給自足の生活が理想で、現代人の暮らしは悪いものか、というとそうではないと思います。</p>
<p>なぜなら、<span class="sc_marker red"><strong>そもそも「功の多少」も「彼の来処」も、到底全てを計り知れるものではない</strong></span>からです。</p>
<p>ここで重要になるのが、「全てのものは関わり合って起こる」という、仏教の<strong>縁起</strong>の視点です。</p>
<p>「調理」と一言に言ってしまえば、その「功」は実に単純なものです。</p>
<p>ところがそれを分析してみれば、食材や調味料の一つ一つに、それを育てたり製造する人が関わっていて、当然そこには道具や、肥料や飼料、も必要になるでしょう。</p>
<p>そして調理器具にしてもそれを作った人、その素材を作った人がいます。</p>
<p>そしてそこに携わった一人一人が、食事をして生きています。</p>
<p>さらに運搬や販売にも目を移してみたらどうでしょう？</p>
<p>この、目に見える範囲、想像の範疇を遥かに超えた<span style="color: #ff0000;"><strong>計り知れない縁起の連続</strong></span>こそが、「功の多少」であり、「彼の来処」なのではないでしょうか。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-6340" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min-768x575.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min-1024x767.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/09/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_21050392_200924_Fotor-min.jpg 1108w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>ご縁をいただく</h2>
<p>前シリーズでお話しした通り、曹洞宗では<span class="sc_marker red"><strong>人間はもちろん、動植物から鉱物・生成物にいたるまで、全てを「仏様の命」として捉えます。</strong></span></p>
<p>それを踏まえると</p>
<p><strong>功の多少を計り、彼の来処を量る</strong></p>
<p>というのは、とても想像しきれない、計り知れない程の仏様の命とのご縁をいただくということなのです。</p>
<p>この<strong>「計り知れない」という前提が、私は重要だと思っています</strong>。</p>
<p>そして、その計り知れないご縁をいただき、それによって生きていると気づくことで、<span class="sc_marker red"><strong>「生かされる自分」</strong></span>の在り様が見えてくるのです。</p>
<p>そんな縁起の視点に立って、今からしようとしている「食事」という行為の重大さが、この一文目で語られているのではないでしょうか。</p>
<p>そしてそこに、食べる責任とも言える「仏教徒として生きる覚悟」が、見えてくるのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この姿勢を踏まえて、次回<strong>「二つには、己が徳行の、全欠を忖って供に応ず。」</strong>を考察します。</p>
<p>&nbsp;</p>
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