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曹洞宗僧侶の視点から肉食を捉え、そして食事そのものを見つめ直してきたこちらの連載。
前シリーズでは曹洞宗の仏性観・不殺生観・修行観から、食事に重要なことは「何を食べるか」ではなく「どう作り・どう食べるか」であるということをお伝えしました。
そして今シリーズでは、食前のお唱えごととして有名な「五観の偈」を通して、より具体的に肉食や食事そのものについて考えています。
前回は五観、つまり5つの視点の1つ目「一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る」を取り上げ、食事というものは計り知れない縁をいただくものである、ということをお話しました。
今回は続いて2つ目の視点、「二つには己が徳行の、全缺を忖って供に応ず」を考えてみます。
Contents
食事をいただく私
これまでお話しした通り、「五観の偈」というのは食事という行いを五つの視点から観ずる言葉です。
前回の「一つには〜」の一節は、目の前の食事がどのようなものであるか、という「食事の在り方」を見つめるものでした。
それに対して今回の一節は、その食事をいただく「私の在り方」を見つめるものといえるでしょう。
早速内容を見てみましょう。
まずは前半の「己が徳行の」について。
「己」というのは、いうまでもなく「私」のこと。
少し考える必要があるのは「徳行」の部分です。
『仏教語大辞典』によれば、「徳」というのは善根と同義だそうです。
ではこの善根はどのような意味かというと、「善い報いを受けるべき善い業因」とあります。
つまり徳行というのは「善い報いを受けるべき行い」ということです。
己が徳行とは?
徳行の意味はわかりましたが、では「善い報いを受けるべき行い」とはどのようなものでしょうか。
「因果応報」という言葉がありますが、これは元々仏教の「善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果が起こる」という教えが日本語としてなじんだものです。
では、この善悪はどこで判断するのでしょうか?
実はお釈迦様は非常に端的に、善と悪の違いを説かれています。
もしもある行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
『ダンマパダ』68『ブッダの真理の言葉・感興のことば』中村元訳、岩波文庫・2013年
ここでは善い行いとは、後悔せず、嬉しい報いがある行いのことで、逆に後悔して涙を流し、苦い報いがある行いが悪だとも説かれています。
ただし、ここで注意しなくてはならないのは、この「後悔」や「嬉しい報い」「苦い報い」は、仏教徒としてのもので、単なる私的な感情ではないということです。
例えば、
恋人が他者を傷つけているのを見て注意をしたら、別れを告げられてしまって後悔している。
注意をしたのは悪い行いだった。
というのは少し仏教の善悪とは異なるんですね。
仏教徒が目指すのは、物事を思い通りにしたいという欲を離れ、自分に対する執着をも離れることです。
そうなると、恋人に嫌われたくないから注意をしない、というのは根底には相手を思い通りにしたいという欲があることになってしまうわけです。
つまり、その行いによって欲や執着が「増してしまうなら悪」、「滅していくなら善」という風に考えてもよいでしょう。
そして、欲や執着を滅していく行いというのは、自己中心的にならず、縁起の上に行われるもののことです。
例えば、一粒のお米は距離的にも時間的も、計り知れないほどの縁によって目の前にやってきます。
同じ様に、言葉や一挙手一投足が、縁となって想像もつかないところまで届いていくいうことを、私たち仏教徒は常に心がけなければならないのです。
食事が縁によって届けられるように、自分の行いもまた縁となってどこかへ届くということを踏まえた上で、自己中心的にならないようにする生き方、これが「徳行」であり、ひいては仏道を生きることそのものなのではないかと、私は受け止めています。
つまり「己が徳行の」というのは
私の仏教徒としての行いが
という意味と受け取れるでしょう。
全缺を忖って供に応ず
そして後半部分。
まずは「全缺を忖って」を見ていきます。
全缺を
ここはふりがなをふると「ぜんけつをはかって」になるのですが、「読み癖」といって、読む際の音の関係で実際には「ぜんけっとはかって」という風に読みます。
英語で
I'm a rapper.(おれはラッパーだ)
というときに、実際は
アマラッパー
と発音するのと同じですね!(わかりづらい)
さて、意味の方に戻りましょう。
まず、「全缺」は現代の字では「全欠」となり、本などでは「それに足るだけの」と訳されたりしますが、私の調べた範囲では熟語として意味を見つけることができませんでした。
ただし、講談社学術文庫『典座教訓・赴粥飯法』の語注には「完全に備わっているか、欠けているか」とあります。
「全缺」は「完全なものであったか」というような意味から転じて、「それに足るだけの」という訳になったようです。
忖って供に応ず
続いて「忖って」というのは「忖度」の忖で、「人の心を推し量る」という意味があるようで、ここでは自分に対する振り返り、反省ということになります。
そして「供に応ず」というのは他と比べてシンプルです。
「供」というのは供養のことで、修行道場では料理をした人が修行僧に向かって供養をするという形で食事が運ばれます。
そして「応ず」というのはその供養を受けるということです。
つまり、「全缺を忖って供に応ず」は、
それに足るものであるかを反省し、供養を受ける
という意味になるのです。
自分を見つめ、いただく
ここまでをまとめると、「己が徳行の全缺を忖って供に応ず」というこの一節は、自らの仏教徒としての行いが、食事をいただくのにふさわしいものであるかを反省するものであることがわかります。
ただ、ここで勘違いをしていただきたくないのは、ふさわしくなかったら食べてはいけない、ということではないということです。
私が尊敬する故・奈良康明老師は、仏道は「及ばずながら」歩くことに意味があるとおっしゃっていました。
ついカッとなってしまった日や欲をかいてしまった日。
そんな日も食事と向き合い、
計り知れないご縁をいただいくこの私の生き方は、一体どうだっただろう?
と反省をすることで毎食毎食、気持ちを新たにし、間違えてしまうことはあっても、そこには「及ばずながら」歩いていくべき道が見えてくるのです。
「一つには〜」で食事に込められたご縁を想い、続いてそれをいただく我が身を振り返る、そんな非常に重要な一節が、
二つには、己が徳行の全缺を忖って供に応ず
なのです。