<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>葬儀 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<atom:link href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%E8%91%AC%E5%84%80/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Feb 2023 12:32:35 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=5.8.9</generator>

<image>
	<url>https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/06/cropped--32x32.jpg</url>
	<title>葬儀 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>	<item>
		<title>ストーリーとして見る供養</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8888</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8888#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Feb 2023 15:00:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8888</guid>

					<description><![CDATA[この３月で曹洞宗総合研究センターを修了し、お寺に戻ってきて一年が経ちます。 私は永平寺を下りてすぐに総合研究センターに行ったので、 腰を据えてお寺の供養に関わるようになったのは昨年からでした。 それ以前も週末には法事を手伝ったりお通夜を勤め…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>この３月で曹洞宗総合研究センターを修了し、お寺に戻ってきて一年が経ちます。</p>
<p>私は永平寺を下りてすぐに総合研究センターに行ったので、<br />
腰を据えてお寺の供養に関わるようになったのは昨年からでした。</p>
<p>それ以前も週末には法事を手伝ったりお通夜を勤めることはありました。</p>
<p>供養については総合研究センターでもある程度勉強もしていたので、<br />
理屈としてはわかっているつもりでした。</p>
<p>しかし、この一年で改めて気づかされたことをお話しします。</p>
<h2>葬儀と供養の意義</h2>
<p>まず、ここでは私の、というより師匠から学んだ葬儀や供養の意義についてお話ししておきたいと思います。</p>
<p>曹洞宗は、お釈迦様と同じように行動することで、お釈迦様の至った心を体現していく宗派です。</p>
<p>だからお釈迦様が覚った姿である坐禅をすることで、<br />
お釈迦様と同じように食事と向き合うことで、行の上にさとりがあるとします。</p>
<p>そしてそれは人の死に際しても同様です。</p>
<p>故人をお釈迦様と同じように送ることで、遺された私たちはそのお弟子様たちと重なります。</p>
<p>言うなれば、曹洞宗のお通夜はお釈迦様の涅槃の再現なのです。</p>
<p>道元禅師も、ずっとご自身の言葉で教えを示してこられたのに、<br />
最後はお釈迦様の遺言をそのまま引用した『正法眼蔵』「八大人覚」巻を最後の著作としました。</p>
<p>それはお釈迦様のように生きることでお釈迦様の心を現そうとした道元禅師にとっては、<br />
必然ともいえる最期だったのかもしれません。</p>
<p>そうした背景もあり、曹洞宗では故人をお釈迦様と重ねながら通夜をし、<br />
その後は改めて関係を結び直す意味で、戒名を授け、故人を仏様として受け止めていきます。</p>
<p>ここで重要なことは、仏にすることは決して故人を遠ざけることでも、忘れることでもないということです。</p>
<p>常に心の真ん中に置いて人生の指針とし、時間の経過の中で向き合い方も変えながら、<br />
共に歩んでいくことで仏として育てていくのが葬儀を終えた後の追善供養となっていきます。</p>
<p>供養の意義については過去に触れています。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3190" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_2547_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="ストーリーとして見る供養"></div><div class="title">冠婚葬祭の新解釈〜供養の意味を考える〜</div><div class="date">2019.10.11</div><div class="substr">スポンサードリンク 現代では「結婚式」と「お葬式」を合わせた名称として使われる「冠婚葬祭」という言葉。 前回は「冠婚」と「葬祭」ではなく「冠」「婚」「葬」「祭」それぞれに意味があることをお話ししました。 しかし、これを知っただけではただのマメ知識。 今回はそこから一歩踏み込んで、「冠婚葬祭」を人生と...</div></a></div>
<h2>ストーリーとして見る供養</h2>
<p>さて、ここまで書いたことは、お寺に帰ってくる前から理解していることではありました。</p>
<p>この二月でお寺に帰ってきてから一年が経ちました。</p>
<p>すると、最近何件か昨年お通夜をお勤めした方々の一周忌の法事をお勤めしました。</p>
<p>一年経って四十九日よりは明るくなったお家、まだ悲しみの癒えないお家、<br />
そのご様子は本当に様々です。</p>
<p>これは法事だけ、お通夜だけを手伝っていた頃には見えなかったものでした。</p>
<p>亡くなった直後の枕経からお葬式、四十九日、一周忌と、点ではなく線でお勤めするようになって、<br />
初めて供養がストーリーとして見えるようになってきたのです。</p>
<p>故人の人柄を聞き、師匠と共に戒名を考え、お葬式を勤め、そして四十九日を迎えて納骨し、一周忌を迎える。</p>
<p>ご遺族が悲しみや怒りや後悔といった様々な感情と向き合う日々を過ごし、<br />
そのストーリーを見てきた自分がかけるべき言葉を探す。</p>
<p>ストーリーを追ってきた僧侶だからこそできる関わり方があることを、この一年で学びました。</p>
<h2>シンプルが求められる時代に</h2>
<p>葬儀や供養を縮小したり簡素にする風潮は、コロナ禍で急速に加速しました。</p>
<p>しかし、お通夜や葬儀が二日間に分けられていることや、<br />
四十九日、一周忌、三回忌…と細かく供養があるのは、<br />
それだけ大切な人を失った人の心が細かく変化するものであり、<br />
その心の変化に沿っているからだと、私は捉えています。</p>
<p>様々な事情でコンパクトにせざるを得ないことはあります。</p>
<p>しかしそれは、信仰としてお通夜や葬儀の意味を信じる以上、<br />
僧侶側の都合であってはいけないと思います。</p>
<p>状況に合わせた柔軟さはあっても、基本的には勤めるべきことを大切にし、<br />
そこで見えたストーリーに対して、お釈迦様の教えを栞のように挟むのが僧侶の役目なのかもしれないなと、<br />
一年経った今、そんなことを考えました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8908" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8888/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>弔辞・弔電の意義を考えてみた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8444</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8444#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Sep 2022 21:30:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8444</guid>

					<description><![CDATA[昨今、コロナ対策で様々なものが規模縮小、時間短縮されています。 それは「効率化」につながる場合もあるのかもしれませんが、 一方で、削られたり、失ったりしてはならないものまでなくなってしまったと感じることもあります。 &#160; 「葬儀にお…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>昨今、コロナ対策で様々なものが規模縮小、時間短縮されています。</p>
<p>それは<strong>「効率化」</strong>につながる場合もあるのかもしれませんが、</p>
<p>一方で、<strong>削られたり、失ったりしてはならないものまでなくなってしまった</strong>と感じることもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「葬儀における弔辞・弔電」</strong></span>もその一つです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最近は、コロナ対策の観点からか、</p>
<p>弔辞が読まれるご葬儀は少なくなってきているように感じます。</p>
<p>また<strong>「コロナ対策の観点から弔電はすべてご芳名のみ読み上げさせていただきます」というケースも</strong>経験したことがあります。</p>
<p>こうした状況は、社会情勢を鑑みて、やむを得ないことであるのかもしれませんが、</p>
<p>私としては残念でなりません。</p>
<h2>弔辞・弔電の大切さ</h2>
<p>弔辞・弔電は、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」</strong></span></p>
<p>掛け替えのない機会です。</p>
<p>こうした機会は<strong>もっと大切にされなければならない</strong>、と感じます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これまでは弔辞・弔電について、僧侶や寺院の方から、</p>
<p>「必ず弔辞を用意してください」</p>
<p>とか、</p>
<p>「弔電はなるべくすべて読んでください」</p>
<p>などとお願いすることは少なく、</p>
<p>喪主の方や葬儀社の方針に任せていることが多かったのではないかと思います。<span style="font-size: 10pt;">（※　推測です。もちろん例外もあると思います。）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、</p>
<p>もしも「弔辞お断り」「弔電はすべて省略」というようなやり方が、</p>
<p>当然のようにまかり通ってしまうのならば、</p>
<p>僧侶、寺院の方から何らかの働きかけをしていく必要が生まれてくるでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それだけ、私は「葬儀における弔辞・弔電」を重要なものと捉えています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8447" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>弔辞・弔電のもう一つの大切な役割</h2>
<p>先ほど、</p>
<p>弔辞・弔電について、</p>
<p>「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」</p>
<p>掛け替えのない機会、と書きました。</p>
<p>しかし、私はそれだけではなく、</p>
<p><strong>弔辞・弔電にはもう一つの大切な役割がある</strong>と考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それは、<span style="font-size: 14pt;"><strong>ご葬儀に参列した方々のご供養の気持ちを一つにまとめ上げるということ</strong></span>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>葬儀に参列した方々が抱く気持ちというのは、様々だと思います。</p>
<p>故人との関係性やお付き合いの深さも異なるでしょうし、</p>
<p>誰もがまったく同じ気持ちでいるということはまずありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、<span style="font-size: 14pt;"><strong>言葉には、それだけで人を共感させる力があります</strong></span>。</p>
<p>弔辞・弔電で、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>故人との思い出や、生前のご様子とともに、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>死を惜しみ、悼む気持ちが語られたとき、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>参列する方々の気持ちは、より近しく故人に寄り添います。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人生の最後を飾る葬儀という場において、</p>
<p><strong>参列した方々のご供養の気持ちをまとめ上げるという役割は、</strong></p>
<p><strong>故人の死を悼む<span style="font-size: 18pt;">「生の言葉」</span>だからこそ果たせる</strong>のではないでしょうか。</p>
<p>実際に私も、弔辞・弔電は、</p>
<p>一字一句聞き洩らさぬようにしています。</p>
<p>そうすることで、自らの気持ちが故人や参列する方がたにより近しく寄り添えると思うからです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに……</p>
<p>これは、私個人の考えですが……</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「弔辞・弔電で寝るくらいなら、お経で寝てくれ！」</strong></span></p>
<p>と思います。</p>
<h2>お経で寝てもいいの？→できれば起きていてください</h2>
<p>たまに、ごくたまにですが……</p>
<p><strong>ご葬儀の際に「いびき」が聞こえてくることがあります。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>それも決まって、「弔辞・弔電」のとき。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もしかするとお経を唱えているときは、自分自身の声でいびきに気が付いていないのかもしれませんが、</p>
<p>なぜか弔辞・弔電（特に弔電の際）に寝ている方が多いように思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>お経で寝てしまうのは……</strong></p>
<p>そりゃあ、なるべくなら起きていてほしいですが、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>ある意味、仕方がない</strong></span>ことだと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>葬儀の際の<strong>お経は故人を安んずるために読まれる</strong>ものですし、</p>
<p><strong>木魚が刻む一定のリズム</strong>や低音で発せられる<strong>読経の声</strong>、</p>
<p>心地よい<strong>鐘の響き</strong>。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>眠くなって当然です。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>寝てしまったくらいでお経の功徳は減りません</strong>し、</p>
<p><strong>寝てしまっても故人とともに安らかな気持ちになる、と捉えることもできるかも</strong>しれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>しかし、弔辞・弔電は寝ちゃダメなんです！</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>聞いてなきゃ意味がありません！</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>緊張しながらお経を聞いていると、</p>
<p>弔辞・弔電が始まったときにはその気持ちがゆるんで眠くなってしまうのかもしれませんが、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>お経はなるべくリラックスしながら耳を傾け、弔辞・弔電は集中して聞く。</strong></span></p>
<p>こういった心持ちで参列していただきたいと思っています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8446" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>こんな弔辞は○○だ。政治家S先生の場合。</h2>
<p>少し話はズレますが、</p>
<p>以前つとめさせていただいた、とある会社の社長さんのご葬儀での弔辞の話をご紹介したいと思います。</p>
<p>そのご葬儀では、弔辞が読まれました。</p>
<p><strong>その弔辞を読んだのは、とある政治家の先生</strong>です。</p>
<p>仮にS先生としておきましょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>地元では大人気で、人を惹きつけるパワーを持ったS先生</strong>の弔辞は、</p>
<p>何と言うか熱がこもっていて、</p>
<p>「ああ、本当に故人のことを想っているんだなあ」</p>
<p>と感じ入るとともに、</p>
<p>「さすが、人たらしとして知られる先生じゃわい」</p>
<p>と感心させられるものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、</p>
<p>弔辞もいよいよ終盤というところになって、S先生が発した言葉に、</p>
<p>私は思わず心の中で、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「ズコー！」</strong></span></p>
<p>とずっこけてしまいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それがどのような発言であったかというと、</p>
<p><strong>「……だからこそ！亡くなられた○○さんと何度も語り合った、<span style="font-size: 18pt;">北方領土返還</span>を私が生きているうちに果たしたい！」</strong></p>
<p><strong>「それをもってご供養としたい！」</strong></p>
<p>というものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>……それは、確かに、S先生にとってはご供養になることなのでしょう。</p>
<p>S先生と故人の間では、それを大きな目標として、信念として共有していたのかもしれません。</p>
<p>しかし、<strong>領土問題という非常に政治的でセンシティヴなことを、</strong></p>
<p><strong>弔辞の場で言ってしまうのはどうなのかなあ、とモヤモヤした気持ちに</strong>なりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>こうした話題は、万人が同じ意見を持つことがなかなか難しい</strong>ものだと思います。</p>
<p>先にも書いたように、</p>
<p>弔辞・弔電は参列者の気持ちをまとめ上げ供養の気持ちを一つにするという役割を担っています。</p>
<p>やはり<strong>共感が難しいという点で、弔辞において述べるには、政治の話題は不適切</strong>だなあ、と感じたのです。</p>
<h2>混ぜるな危険！～〇辞・〇電のNG語り</h2>
<p>政治の話題以外にも、弔辞・弔電には向かない言葉や話題があると思います。</p>
<p>それは、祝辞・祝電でも同様かもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>パッと思いつく限りで言えば、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・必要以上に自分語りをする</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・政治の話題ように利害、損得が絡む話題を交える</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・ジョークの範疇を越えて、恨み言や苦言を呈する</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・ひたすら長い</strong></span></p>
<p>こんなところでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これらは参列した方の気持ちをまとめ上げるどころではなく、</p>
<p>下手をすると、</p>
<p>言葉を贈られる側への気持ちをバラバラに引き裂く邪悪な雑音となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もし、自分が何かしらのスピーチをさせていただく機会があるとしたら、</p>
<p>こうした雑音には細心の注意を払いたいものです。</p>
<h2>おわりに</h2>
<p>さて、今回は弔辞・弔電の持つ、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「共感」</strong></span>を促すという役割について書かせていただきました。</p>
<p>ここまでは言葉を贈る側の話をしてきましたが、</p>
<p>最後に、その言葉を参列者として聞く側も、しっかりと聞かなければならないということを書いておきたいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>弔辞・弔電あるいは祝辞・祝電の際に、</p>
<p>疲労から眠ってしまうのはまだしも、</p>
<p>スマホをいじったり、パンフレットばかりを読んでいる方は、</p>
<p>これはその式典への<span style="font-size: 18pt;"><strong>「無関心」</strong></span>を表明していることに他ならないと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>供養の場、祝賀の場……</p>
<p><strong>「場」とは、皆で作り上げるもの</strong>です。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>その「場」にいるものは「場づくり」に貢献する義務を負う</strong></span>と私は考えます。</p>
<p>皆が心を一つにして、死者を悼んだり、あるいは門出を迎えた人を祝ったりする場において、</p>
<p>このような態度は、はなはだ不適切であると言わざるを得ません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span class="sc_marker red">ついスマホの通知が気になったり、手元のパンフレットが読みたくなったりというのは、誰にでもあることだとは思いますが、</span></p>
<p><span class="sc_marker red">自分の振る舞いが、その「場」に影響を与えるということをよく踏まえて、</span></p>
<p><span class="sc_marker red">行いをあらためていきたいものです。</span></p>
<p><span class="sc_marker red">（まあ、ずっと集中し続けるのも、その場が堅苦しくなりすぎてしまうと思います。いい塩梅で。）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なんか、今回は、堅く、重めの記事になっちゃいました！</p>
<p>まあ、こんなこともあります！</p>
<p>それではまた次回！</p>
<p>ここまでお読みいただいた皆さま、ありがとうございました！</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8444/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7794</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7794#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 15:36:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お通夜]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[涅槃会]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=7794</guid>

					<description><![CDATA[2月15日はお釈迦様に関する三つの行事、三仏忌の一つ涅槃会ねはんえです。 涅槃会とはお釈迦様のご命日のことで、これが曹洞宗のお通夜に通じているというお話は、過去にした通りです。 今回は、コロナ禍で省略されるケースも増えてきたお通夜が、 実は…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>2月15日</strong>はお釈迦様に関する三つの行事、三仏忌の一つ<ruby><span class="sc_marker red"><strong>涅槃会</strong></span><rt>ねはんえ</rt></ruby>です。</p>
<p><span class="sc_marker y">涅槃会とはお釈迦様のご命日</span>のことで、これが<span class="sc_marker red">曹洞宗のお通夜に通じている</span>というお話は、過去にした通りです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/4556" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話"></div><div class="title">【２/１９法話】最後の説法を胸に〜涅槃会に学ぶお通夜の心〜</div><div class="date">2020.2.21</div><div class="substr">新宿四ツ谷の東長寺さんで毎月開催している【一行写経と法話の会】も今回を入れて残すところ２回。 今回は私西田が法話を担当させていただきました。 涅槃会からお通夜の心について考えてみます。 お釈迦様の涅槃 本日は先週二月十五日、お釈迦様の御命日である仏涅槃会ぶつねはんえについてのお話をさせていただきます...</div></a></div>
<p>今回は、コロナ禍で省略されるケースも増えてきたお通夜が、<br />
実は曹洞宗だからこそ意義深くて、大切にしたいお勤めであるというお話です。</p>
<p>禅宗なのにお通夜を大切にするその理由について考えてみましょう。</p>
<h2>お通夜と涅槃会</h2>
<p>まずはお通夜について簡単に確認しておきましょう。</p>
<p>お通夜は、お釈迦様のご最期、<span class="sc_marker red">涅槃に入られた時のご様子が由来となった法要</span>です。</p>
<p>お釈迦様は周りを囲むお弟子様たちにご遺言を遺し、<br />
<span class="sc_marker y"><strong>「私の死にゆく姿が最後の説法だからよく見ておきなさい」</strong></span>と仰って最期を迎えられました。</p>
<p>その夜お弟子様たちは<span class="sc_marker red">夜通しお釈迦様の遺され教えを確認し合い、</span><span class="sc_marker red">お釈迦様亡き後の歩む道を定められた</span>のです。</p>
<p>この「夜通し教えを確認し合った」ということが元となって、私たちはお通夜を営みます。</p>
<p><span class="sc_marker red">亡くなった方をお釈迦様</span>として、<span class="sc_marker y">ご遺族は遺された弟子</span>たち、<br />
そして<span class="sc_marker blue">僧侶はご遺言として故人に代わってお経を唱えます</span>。</p>
<p>お通夜とはまさに、<strong>個人をお釈迦様に見立てた涅槃の再現</strong>なのです。</p>
<div id="attachment_4596" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4596" loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-300x300.jpg" alt="" width="300" height="300" class="size-medium wp-image-4596" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-300x300.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-150x150.jpg 150w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min.jpg 550w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /><p id="caption-attachment-4596" class="wp-caption-text">高野山金剛峯寺所蔵</p></div>
<h2>曹洞宗とお通夜</h2>
<p>では私が、曹洞宗こそお通夜を大切にすべきと思う理由はどこにあるかというと、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>曹洞宗がどこまでもお釈迦様を大切にする宗派</strong></span>だからです。</p>
<p>これは他の宗派が大切にしていない、ということではありません。</p>
<p>曹洞宗の教えを伝えた<span class="sc_marker y">道元禅師は、どこまでもお釈迦様を仰ぎ、敬い、慕った方</span>でした。</p>
<p>お釈迦様が覚られた姿であるから、坐禅をすること自体がさとりであり、<br />
修行とさとりは一つ「<ruby><span class="sc_marker red">修証一等</span><rt>しゅしょういっとう</rt></ruby>」なのだ、と説かれましたし、<br />
食事作法や洗面にいたるまで、<span class="sc_marker red"><strong>生活の一つ一つをお釈迦様のように行うことが、曹洞宗の修行</strong></span>です。</p>
<p>道元禅師は<span class="sc_marker y">ご自身をお釈迦様と重ねることを突き詰めていった方</span>、と言ってもいいでしょう。</p>
<p>その徹底ぶりは、そのご最期からもうかがえます。</p>
<p>道元禅師の遺された『<ruby>正法眼蔵<rt>しょうぼうげんぞう</rt></ruby>』という87巻の書物の最終巻は、タイトルを「<ruby><strong>八大人覚</strong><rt>はちだいにんがく</rt></ruby>」といいます。</p>
<p>これは、100巻を目指して執筆されていたものが体調が優れず、最期を悟って書かれた一巻です。</p>
<p>ではその最期の一巻でどんな言葉を遺されたのかというと、<br />
実はほとんどがお釈迦様のご遺言のお経『<ruby><strong>仏垂般涅槃略説教誡経</strong><rt>ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう</rt></ruby>』の引用なのです。</p>
<p>八大人覚というのは、お釈迦様がご自身の死後、<br />
お弟子様たちがしっかりと仏道を歩めるように遺された８つの心構えのことで、<br />
<span class="sc_marker y">道元禅師はこれを引用してご自身のご遺言とされました</span>。</p>
<p>それまで、日本の歴史にも名を残すような教えや言葉を記してきた道元禅師が、<br />
最期の最期でなぜ、ご自身の言葉を遺さなかったのでしょうか。</p>
<p>それは、<strong><span class="sc_marker red">ご自身の最期すらもお釈迦様と重ね、お釈迦様のように人生を締めくくろうという、</span></strong><br />
<strong><span class="sc_marker red">道元禅師の信仰の姿がそこにあったから</span></strong>なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-4593" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>禅宗なのに？</h2>
<p>曹洞宗は、臨済宗、黄檗宗と共に、坐禅を信仰の中心に置く、禅宗に分類されます。</p>
<p>そのため、坐禅をする宗派なんだからお通夜や葬儀、<br />
供養をするのはおかしいという意見が内外から聞こえることもあります。</p>
<p>よく考えてみましょう。</p>
<p>曹洞宗が坐禅をするのは、お釈迦様のように在るためです。</p>
<p>そしてその信仰の先に、お釈迦様の最期にちなんだお通夜をお勤めする。</p>
<p>これほど意義深いことはあるでしょうか。</p>
<p>禅宗だから坐禅をしていればいいのではなく、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>坐禅をするからこそお通夜に深い意義を見出す</strong></span>のだと、私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-4594" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>これから先の未来に</h2>
<p>現在、コロナ禍において葬儀を一日にまとめたり、簡略にするケースも増えています。</p>
<p>それは葬儀の場で感染者を出したくないという、ご遺族や関係業者さんのお気持ちとしては当然のことだと思います。</p>
<p>ただ、一度安易に省略してしまったら、今後情勢が変わった時に、<br />
「お通夜は省略してもいいものだ」となってしまわないでしょうか。</p>
<p>これはお通夜を省略していいか悪いかの話ではありません。</p>
<p>曹洞宗としてお葬式をするならば、今一度お通夜の意味を見直し、ご遺族が故人を仏様として<br />
関係を結び直すためのその「心」だけでもお伝えるする必要があるのではないでしょうか。</p>
<p>曹洞宗の信仰の上にお葬式が営まれるならば、<br />
ご遺族、葬儀社、そして我々僧侶も、お通夜の心を忘れずにいたいものです。</p>
<p>【関連記事】</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6944" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/名称未設定_4.1.1-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話"></div><div class="title">お葬式は誰を救う？</div><div class="date">2021.3.26</div><div class="substr">スポンサードリンク 前回はお彼岸にちなんで、回向文などに出てくる「報地」はどこにあるのか、ということについてお話ししました。 今回はこれに関連する内容で、お葬式についてのお話です。 私の最近の体験をもとに、お葬式は誰を救うものなのかということについて、考えてみたいと思います。 とある体験 まだ住職に...</div></a></div>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/2061" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/76b6799c8f020f308cb7eb5ba2e9490a_s_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話"></div><div class="title">なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.1</div><div class="date">2019.7.16</div><div class="substr">近年注目を集め、今も話題の絶えない「終活」。 禅活-zenkatsu-は坐禅や精進料理を中心とした活動を続けていますが、メンバー全員が週末には葬儀や法事に携わっています。 葬儀や法事と言っても現在は形態が多様化し、遺族や故人の様々なニーズに応えられるようなものが数多くあります。 一方では地域によって...</div></a></div>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/2210" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/IMG_0356_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話"></div><div class="title">なぜお葬式をするのか〜遺族としての経験から考える〜vol.2</div><div class="date">2019.7.17</div><div class="substr">「なぜお葬式をするのか」。 僧侶である私が、あえて遺族としての経験からその理由を考えるこちらのコラム。 前回は祖父のお葬式の前の枕経と納棺の中で私に起こった心境の変化について書きました。 今回は私自身が葬儀の中で経験した「別れの形」を振り返ります。 僧侶のお葬式 現在は、一般の方は斎場でお葬式をする...</div></a></div>
<p>【関連動画】</p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/OqIhoaN305Y" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/7794/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「危ない終活」を考える</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7638</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7638#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Dec 2021 16:35:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[終活]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=7638</guid>

					<description><![CDATA[広告 終活という言葉を聞くようになってずいぶん経ちました。 その流行はエンディング産業という新たな市場も生まれるほどの、もはや社会現象といえるものです。 いずれやってくる自分の死の瞬間や死後について、整理や準備をしていく終活はには、もちろん…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>広告</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p><strong>終活</strong>という言葉を聞くようになってずいぶん経ちました。</p>
<p>その流行はエンディング産業という新たな市場も生まれるほどの、もはや社会現象といえるものです。</p>
<p>いずれやってくる自分の死の瞬間や死後について、整理や準備をしていく終活はには、もちろん良い点がたくさんあります。</p>
<p>死を恐れ遠ざけるのではなく、いずれやってくるものとして迎え入れる準備をするのは、<br />
仏教的な生き方とも言えるでしょう。</p>
<p>ただし、向き合い方によってはむしろより死を恐れることになりかねなかったり、<br />
残された方を混乱させてしまうことにもなりかねません。</p>
<p>そこで今回は、私が最近気づいた「<span class="sc_marker y">危ない終活</span>」についてのお話です。</p>
<h2>死後のオーダーメイド</h2>
<p>終活ブームの始まりは、少子高齢化社会が叫ばれるようになってからのこと。</p>
<p>当初は子や孫が混乱したり苦労をしないよう、生前に身辺の整理や遺言などの意思表示をしておくことが終活の中心だったようです。</p>
<p>特に高齢でなくてもエンディングノートなどで、万が一の時に必要になる情報を書き留めるなど、<br />
ある種の備えとしても機能していました。</p>
<p>生前葬と呼ばれるものも話題になり、生きている間にお別れを済ませておく、ということも流行しました。</p>
<p>それから年月を経る中で、終活は一大産業となっていきます。</p>
<p>お別れの仕方や生前の墓じまいなどだけでなく、様々な商品やサービスが開発されていきました。</p>
<p>それからでしょうか。</p>
<p>自分の死は自らコンパクトでスマートに収めることが、ある種の「きれいな死に方」であると思われるようになりました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y">自分の死後はこういう送り方で、こういう風に扱ってほしい。</span></p>
<p><span class="sc_marker red">まるで自分の死後をオーダーメイド</span>するかのような、そんな潮流を感じるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7683" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>仏教にとっての死の本質</h2>
<p>冒頭で申し上げたように、終活そのものは死と上手に向き合っていく、ある種仏教的な営みといえるでしょう。</p>
<p>しかし、その中で自分の死を自分の理想の形に近づけようという思いが働き始めると、少し話が違ってきます。</p>
<p>仏教では、死は生・老・病と合わせた<span class="sc_marker y">四苦の一つ</span>であると説きます。</p>
<p>たびたびこのブログや動画で触れてきたように、<span class="sc_marker blue">苦というのは単に「苦しい」という意味ではありません</span>。</p>
<p>古いインドの言葉では<span class="sc_marker y">ドゥッカ</span>という言葉が、中国で翻訳された時に「苦」という字が当てられました。</p>
<p>ではこの本来のドゥッカとは、制御が利かない馬のような状態のことで「<span class="sc_marker y">不満足な</span>」といった意味があり、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>コントロールがきかない、思い通りにならないということ</strong></span>なのです。</p>
<p>死苦を「死ぬのは苦しい」という感覚として捉えた場合、これには個人差があります。</p>
<p>しかし<span class="sc_marker red">「死ぬのは思い通りにならない」と言った場合には、全ての人に共通した事実になります</span>。</p>
<p>仮に自ら命を絶った人でも、そこまでの経緯が思い通りのものであったわけではないでしょう。</p>
<p>このように、仏教では死の本質を<span class="sc_marker y">思い通りにならないけれど必ず訪れる</span>というところに見出します。</p>
<p>一方、終活が死後をオーダーメイドするような方向に行きつつあるのはなぜでしょうか。</p>
<p>それは、現代は科学や医療の発達によって、<br />
<strong><span class="sc_marker blue">人間がかなりの範囲のものを思い通りにできるようになってしまったから</span></strong>ではないでしょうか。</p>
<p>多くを思い通りにしたことで、<span class="sc_marker red">どう足掻いても思い通りにならない死への恐怖が、</span><br />
<span class="sc_marker red">むしろ強調されてしまった</span>のではないかと、私は思っています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7682" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>お釈迦様の終活</h2>
<p>お釈迦様は、長きにわたる説法の旅の末、80歳で最期を迎えます。</p>
<p>その様子を記した経典は『<ruby>涅槃経<rt>ねはんぎょう</rt></ruby>』と呼ばれ、成立年代などによっても様々な特徴を持っています。</p>
<p>そんなお釈迦様の最期を記したお経の中に、弟子たちに遺言を残していく様子を描いた<br />
「<span class="sc_marker red"><strong><ruby>遺教経<rt>ゆいきょうぎょう</rt></ruby></strong></span>」と呼ばれるお経があります。</p>
<p>これは、私の実家のお寺ではお通夜の際にお唱えし、故人が残された私たちに最期の教えを説いているという形で、<br />
お釈迦様が弟子たちに遺言を残された最期の瞬間を再現します。</p>
<p>では、お釈迦様はどんなことを仰るかというと、そのほとんどがご自身がいなくなってからの<span class="sc_marker y">弟子たちの生き方に関することなのです。</span></p>
<p>お釈迦様は様々な場面を想定して、弟子たちが後から迷うことがないよう、懇切丁寧に教えを説かれます。</p>
<p>別のお経では、お釈迦様が自分の葬儀に関わるなと仰ったという風にありますが、<br />
それは人生の有限性を示した上で、少しでも弟子たちに修行励んでもらいたい、という親心だったと思われます。</p>
<p>そして最期の最期に、<span class="sc_marker y">もう聞いておきたいことはないかと繰り返し確認をした後、息を引き取ります。</span></p>
<p>お釈迦様は、残される人の生き方を気にかけて、最後まで対話をやめませんでした。</p>
<p>この、<span class="sc_marker red"><strong>弟子たちとの対話、コミュニケーションこそが、お釈迦様の終活だった</strong></span>のではないかと私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7685" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>人は一人で死なない</h2>
<p>死後をオーダーメイドするような終活の仕方には、実は特徴があると私は捉えています。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker y"><strong>死を自分一人のものだと思ってしまうということ</strong></span>です。</p>
<p>確かに理屈としては、人は一人で死んでいきます。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker y">人は死ぬ時、関わりのあった人の心の中でも死んでいきます</span>。</p>
<p>仮に私が死んだとしたら、両親の中で息子という私の死があります。</p>
<p>禅活をご覧いただいている方にとっても、禅活のしんこうが死ぬでしょう。</p>
<p>そうやって、関係性の数だけ、人の死はあります。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>死は自分一人だけのものではないのです。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7684" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>生き切る終活</h2>
<p>その中で、迷惑をかけたくないという判断だけで、相談もなく墓じまいをしてしまうと、<br />
<span class="sc_marker y">場合によっては残された方は供養したくてもできない、手を合わせる場所もない</span>、ということになってしまいます。</p>
<p>ならば迷惑をかけたくない、という思いではなく、最も良い道を選ぶ。</p>
<p>そのためのコミュニケーションこそが一番重要な終活なのではないでしょうか。</p>
<p>コミュニケーションをとるべき人としっかりとって生き切れば、<br />
死後は残された人たちがその意思を汲み取ってくれるはずです。</p>
<p>「自分の葬式はこうしてくれ」と言わなくても、きっとその通りになると信じていいんです。</p>
<p>逆に言えば、生前の関係性がうまくいかなければ、残された人がその通りしてくれないかもしれません。</p>
<p><span class="sc_marker red">死は思い通りにならないのだから、生き切ることで安心して後を任せるような、</span><br />
<span class="sc_marker red">そんな仏教に基礎に立ち返った終活</span>が見直されてもいいのではないでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/7638/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「俺の家の話」の最終回に納得できなかった僧侶の話</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6961</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6961#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 Apr 2021 15:09:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[エンタメ]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=6961</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 昨年末くらいから、TVerを利用するようになった私。 TVerは簡単に言うと、テレビ番組を放送後一定期間視聴ができる、無料のオンデマンド配信サービスです。 最近はテレビ番組をリアルタイムで観ることがなくなり、観たかったも…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>昨年末くらいから、<span style="font-size: 14pt;">TVer</span>を利用するようになった私。</p>
<p>TVerは簡単に言うと、<span class="sc_marker y">テレビ番組を放送後一定期間視聴ができる、無料のオンデマンド配信サービス</span>です。</p>
<p>最近はテレビ番組をリアルタイムで観ることがなくなり、観たかったものがいつの間にか終わっていた、ということの多かった私には非常にありがたいサービスで、よく利用しています。</p>
<p>そんなTVerでよく観るのはバラエティ番組が主だったのですが、この３ヶ月は久しぶりに毎週観たいと思うドラマ番組に出会いました。</p>
<p>それが、早くも名作と呼ばれつつある、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>「俺の家の話」</strong></span>です。</p>
<p>コメディでありながら、非常に人の深いところに触れた、この作品に私も夢中になってしまいました。</p>
<p>今回はそんな夢中になったドラマ番組が、<span class="sc_marker red">最後の最後に納得できなくなってしまった僧侶の感想</span>をお話します。</p>
<h2>作品のあらすじ</h2>
<p>この作品は脚本・<strong>宮藤官九郎</strong>、主演・<strong>長瀬智也</strong>という、ゴールデンコンビが手を組んだ作品です。</p>
<p><strong>「IWGP(池袋ウエストゲートパーク)」</strong>は当時の若者たち絶大な影響を与え、<strong>「タイガー＆ドラゴン」</strong>も大きな話題となりました。</p>
<p>そんなお二人が組んだこの作品のストーリーはこんな感じ。</p>
<h4>あらすじ</h4>
<p>能の一大流派、<ruby>観山<rt>みやま</rt></ruby>流を代々受け継ぐ観山家に生まれた主人公・<ruby><strong>観山寿一</strong><rt>みやまじゅいち</rt></ruby>(長瀬智也)。</p>
<p>父・<strong>観山</strong><ruby><strong>寿三郎</strong><rt>じゅさぶろう</rt></ruby>(西田敏之)は観山流宗家にして人間国宝。</p>
<p>そして幼少期から寿一に能を教え込みますが、その厳格さ故に寿一は反発、高校生の時に家を出てしまいます。</p>
<p>そんな寿一が就いた職業は、<strong>プロレスラー</strong>でした。</p>
<p>人気レスラーとして活躍した時期を経るも、42歳という年齢で体力ともに人気は低迷し、決して順調とは言えない状態にあった寿一。</p>
<p>そんな時、父・寿三郎が倒れたと知らせが入り、病院に駆けつけて数十年ぶりの再会を果たします。</p>
<p>寿三郎は一命を取り留めるも、後遺症から介護が必要になります。</p>
<p>そこで、寿一はプロレスに区切りをつけ、寿三郎の介護を引き受け、さらに観山流跡を継ぐことを決心します。</p>
<p>自分がしてもらえなかった「親らしいこと」を逆にしてやろうと、慣れない介護と、そして離れていた能の稽古の日々が始まります。</p>
<p>そこに、余生を自由に生きると宣言した寿三郎の婚約者の登場や、子どもたちの知らない様々な過去が明らかになるなど、波乱の展開を迎えます。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/ab0964c729299b82469b1cca7378f67d_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2053" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/ab0964c729299b82469b1cca7378f67d_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/ab0964c729299b82469b1cca7378f67d_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>老いとは？死とは？</h2>
<p>この作品はコミカルな中にも、<span class="sc_marker y">年老いた父に対する子どもたちの葛藤</span>と、<span class="sc_marker y">自分自身が死を見据えている父</span>の、非常に生々しい心情が描かれます。</p>
<p>物語の序盤、あれほどに厳しかった父が、お風呂やお手洗いに自力で行けなくなったことに対して、寿一が悔しさとも怒りともとつかない感情を爆発させたのは、決してフィクションの世界だけのことではないでしょう。</p>
<p>一方で、人間国宝という自負を持ったまま、身体機能の低下だけでなく、認知症の症状も出るようになった寿三郎も、静かにその苦しみと向き合っていました。</p>
<p>そんな寿三郎が口にした「<span class="sc_marker red">自分の人生のしまい方が、広げた風呂敷の畳み方がわからなくなった</span>」という言葉は非常に印象的でした。</p>
<p>死を覚悟するも一命を取り止め、出来ないことは多くとも生きているという、<span class="sc_marker red"><strong>死が思い通りにならないことへの苦しみ</strong></span>が表現されていました。</p>
<p>人間の老いや死というものは、決して本人だけのものではないということが改めて分かる、そんなストーリーに私は引き込まれました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5948" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>最終回の残念さ（以下、ネタバレを含みます。)</h2>
<p>最終回は、寿一がいよいよ能の舞台に立つというところから始まります。</p>
<p>ところが、寿一は寿三郎以外との会話が成立せず、視聴者は違和感を覚えます。</p>
<p>そして本番を迎え、寿三郎が寿一の姿を探していると、<strong><span style="color: #ff0000;">実はその数ヶ月前に寿一が亡くなっていた</span></strong>ことが告げられます。</p>
<p>もちろん、その死は隠されていたのではなく、寿三郎はその事実を受け止めることができず、そこに認知症が重なったことで、ずっと周りには見えていない寿一と会話をしていたのです。</p>
<p>この展開にはこれまでのエピソードに伏線が張られていたらしく、その回収が素晴らしいと話題になりました。</p>
<p>私もそれはいいと思います。</p>
<p>しかし、その後がどうにも納得できない、<strong>いや、自分の立場から観ると辛すぎる展開だった</strong>のです。</p>
<p>最終的に寿三郎は寿一と最後の言葉を交わし、その死を受け止めることができます。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker blue">観山家には仏壇があるにもかかわらず、おそらく四十九日が過ぎてもご遺骨と位牌を祭壇に飾ったまま</span>にしてあります。</p>
<p>そして、一家揃って食事をする時には寿一の「いただきます！」という声が欠かせなかったことから、<span class="sc_marker red"><strong>寿一が生前撮った「いただきます！」と言う動画を再生し</strong></span>、観山家は食事を始めます。</p>
<p>私が納得できないのは、細かい儀礼的な部分ではありません。</p>
<p>観山家がずっと、<span class="sc_marker y"><strong>「生きている寿一」を頼って生きているということ</strong></span>です。</p>
<p>このブログやYouTubeで、<strong>仏教は故人の肉体ではなく教えを頼りに生きていく道を説いている</strong>というお話をしてきました。</p>
<p>それは、遺された人にとって、<strong>大切な人の死をただの喪失にしないための道</strong>でもあります。</p>
<p>しかし、このドラマで描かれた寿一の死後の様子というのは、<strong>「生きている頃と変わらず、寿一はここにいます」</strong>というものです。</p>
<p>人間の感情としては理解できます。</p>
<p>生きていた頃と同じようにご飯を用意し、話しかけ、動画によって声も聞こえる。</p>
<p>その様子が世間に感動を与えた理由も、わからなくはありません。</p>
<p>ただ、<span style="color: #ff0000;"><strong>葬儀や供養によって亡くなった方と関係を新たに結び直さないことで、いつかその喪失感に押し潰されてしまうのではないだろうかと</strong></span>、私は心配でならないのです。</p>
<p>観山寿一という人が残してくれた言葉や、その生き方に習って、遺された人がそれぞれに生きようとする。</p>
<p>そして<strong></strong><span class="sc_marker red"><strong>「いただきます！」という掛け声を、寿一の息子である秀生が受け継いで終わる、そんなエンディングであってほしかったと</strong></span>、つい思ってしまいます。</p>
<p>この作品が、ずっと老いや死というものを扱ってきただけに、少なからず仏教的なシンパシーを感じたからこそ、私はそう感じたのかもしれません。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5950" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>結局、ここに書いたことは一視聴者の、しかも割と深く引き込まれてしまったが故に感じたことなのだと思います。</p>
<p>この作品のテーマは素晴らしかったと思うし、プロレスラーがそのまま実名で出るところや、能のお話とその回のテーマがリンクするところはクドカン作品の過去のオマージュとも取れて、思わずニヤリとしてしまいました。</p>
<p>「タイガー＆ドラゴン」然り、古典芸能をドラマにするに当たって、専門家に取材をし稽古をする大変さは想像もつきません。</p>
<p>ただ、そこが丁寧なんだから葬儀や供養ももう少し丁寧でよかったのでは？と思ってしまうわがままなファンが私なのです。</p>
<p>ともあれ、長瀬さんはこれで舞台からは引退し裏方に回るとのことですので、そうしたところともリンクした、素晴らしい作品でした。</p>
<p><strong>これが、「俺の家の話」をみた私の話です。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><a href="http://www.tbs.co.jp/oreie_tbs/intro/">「俺の家の話」HP</a></strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/04/main-min-300x212.jpeg" alt="" width="300" height="212" class="alignnone size-medium wp-image-6962" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/04/main-min-300x212.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/04/main-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/6961/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>お葬式は誰を救う？</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6944</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6944#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Mar 2021 15:21:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[戒名]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=6944</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 前回はお彼岸にちなんで、回向文などに出てくる「報地」はどこにあるのか、ということについてお話ししました。 今回はこれに関連する内容で、お葬式についてのお話です。 私の最近の体験をもとに、お葬式は誰を救うものなのかというこ…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>前回はお彼岸にちなんで、回向文などに出てくる「報地」はどこにあるのか、ということについてお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6928" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/名称未設定_4.1.1-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="お葬式は誰を救う？"></div><div class="title">報地はどこにある？〜お彼岸にちなんで〜</div><div class="date">2021.3.19</div><div class="substr">スポンサードリンク 2021年になって早三ヶ月。 今年も春のお彼岸を迎えました。 お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。 私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。 まさにこれを書いている前日がその...</div></a></div>
<p>今回はこれに関連する内容で、<strong>お葬式についてのお話</strong>です。</p>
<p>私の最近の体験をもとに、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>お葬式は誰を救うものなのか</strong></span>ということについて、考えてみたいと思います。</p>
<h2>とある体験</h2>
<p>まだ住職にはなっていない私ですが、週末は実家のお寺に帰って法事のお手伝いをしています。</p>
<p>基本的にはお葬式が済み、四十九日以降の御供養をお勤めすることが多いのですが、時々「<strong>授戒</strong>」をお勤めすることがあります。</p>
<p>この授戒とは在家檀信徒の方が仏教徒として行う授戒のことではありません。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>なんらかの事情があって、お葬式やお戒名の授与を行えなかった故人への授戒</strong></span>です。</p>
<p>本当に事情は様々で、そこに触れることはできませんが、これは先日お勤めした授戒のお話です。</p>
<p>その方にはお寺としても非常にお世話になったこともあり、師匠と私と伯父、３名の僧侶で授戒をすることになりました。</p>
<p>法要にはご遺族のみの参列で、本堂にて授戒・お位牌の開眼などをお勤めいたします。</p>
<p>お焼香には幼いお孫さんも出られて、それを見守るお施主さんは非常に嬉しそうでした。</p>
<p>そして一通りのお勤めが終わり、師匠が「葬儀とは？供養とは？」ということについてお話しをすると、<span class="sc_marker blue">堰を切ったようにお施主さんをはじめご遺族が涙をこぼしはじめました。</span></p>
<p>後から師匠に聞いたところでは、<span class="sc_marker blue">亡くなるのも急だったうえ、お葬式もきちんとできなかったことに対して、ご遺族はひどく心を痛めていた</span>そうです。</p>
<p>そして授戒の後、ご遺族は心にのしかかっていた重しが取れたように、泣いてお礼をいいながら、お寺を後にされました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6946" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>誰が、誰を救うのか</h2>
<p>一般にお葬式、正確には通夜と葬儀は、<span class="sc_marker red">故人を仏様にする儀式</span>と認識されます。</p>
<p>曹洞宗に限った話で言えば、<strong>故人は葬儀の中で髪を剃り、戒を受けて仏道修行に入る</strong>という言い方をします。</p>
<p>ただ、少なくとも私には、<strong><span class="sc_marker blue">葬儀中に故人様がお坊さんになって修行をしている姿や、仏像のような仏様になった姿は見えていません。</span></strong></p>
<p>そのため、誤解を恐れずに言えば、<strong>儀式をお勤めしただけでは故人が救われたかどうかは私にはわからないのです</strong>。</p>
<p>しかし、私にも見えるものがあります。</p>
<p>それは<span style="font-size: 14pt;">ご遺族の表情</span>です。</p>
<p>別れの辛さや不条理さへの怒り、あるいは生前の関係への後悔など、様々な思いがあるでしょう。</p>
<p>しかしそれでも、お葬式という儀式を通してお見送りをしたという一つの安心が、表情や言葉の端々に表れることがあります。</p>
<p>当然、すぐに納得ができた、諦めがついたという方はほとんどいらっしゃいません。</p>
<p>ただ、「お見送り」をしたという事実に、<span class="sc_marker red">最後に故人に尽くすことができたという安心</span>があるのです。</p>
<p>私は、今回の授戒によって救われたのは、お葬式が出来なかったことに心を痛めていたご遺族だったように見えました。</p>
<p>そして、<strong>ご遺族が救われ、お一人お一人の心の中で仏様となった時、初めて故人が救われる</strong>のだと、思うようになったのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6945" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>誰がために誰がためもなく</h2>
<p>時々、葬儀とは遺族のためか故人のためか、という議論を見かけることがあります。</p>
<p>私の師匠は葬儀の際、ご遺族に<strong>「供養とは<span class="sc_marker red"><ruby>存亡<rt>そんもう</rt></ruby>共に救われるもの</span>です」</strong>というお話をします。</p>
<p>それは、生き死にに関係なく、<span class="sc_marker red"><strong>一つの儀式を通してそこに携わった全ての人がそれぞれの形で救われるものであるということ</strong></span>です。</p>
<p>ご遺族にはご遺族の、ご友人ならご友人の、それぞれの立場から<span class="sc_marker y">故人との関係を結び直して、自分を導いてくれる仏様にする儀式</span>。</p>
<p>それが葬儀なのだと私は捉えています。</p>
<p>そして、忘れてはならないのが、<span style="font-size: 14pt;">私たち僧侶も葬儀をお勤めすることで救われている</span>ということです。</p>
<p>故人を仏様として受け止めていくことはもちろん、僧侶という道を選び、それを必要とされることで、仏道を歩むことができます。</p>
<p>故人もご遺族も参列者も、僧侶も葬儀社の方も、全ての人が何かしらの形で救われる儀式として、葬儀は存在しているのではないか、そんな風に感じています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6947" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>お葬式のこれから</h2>
<p>コロナ禍にあって、お葬式は大幅な縮小や家族葬、あるいは直接火葬場というケースが増えてきました。</p>
<p>また、様々な企業の参入によって、お葬式にも手軽さ、目新しさを求める空気が流れているようにも感じます。</p>
<p>個人的には、変化はあって然るべきだし、色々な形があっていいと思います。</p>
<p>ただ、お釈迦様をお送りした時に習ってお勤めされる伝統的なお葬式には、どのような意味があったのか、失ってはいけない部分はどこか、そこは抑えておかなれければならないのではないでしょうか。</p>
<p>故人を救うためにまずは遺族を救えるものになるように努め、それによって私たち僧侶や葬儀社さんも救われる、存亡共に救われる葬儀がお勤めできるように精進したいと近頃切に思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/6944/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【２/１９法話】最後の説法を胸に〜涅槃会に学ぶお通夜の心〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/4556</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/4556#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2020 15:00:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[一行写経と法話の会]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[東長寺]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<category><![CDATA[通夜]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=4556</guid>

					<description><![CDATA[新宿四ツ谷の東長寺さんで毎月開催している【一行写経と法話の会】も今回を入れて残すところ２回。 今回は私西田が法話を担当させていただきました。 涅槃会からお通夜の心について考えてみます。 お釈迦様の涅槃 本日は先週二月十五日、お釈迦様の御命日…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>新宿四ツ谷の東長寺さんで毎月開催している【<strong>一行写経と法話の会</strong>】も今回を入れて残すところ２回。</p>
<p>今回は私西田が法話を担当させていただきました。</p>
<p><strong>涅槃会からお通夜の心</strong>について考えてみます。</p>
<h2>お釈迦様の涅槃</h2>
<p>本日は先週<strong>二月十五日</strong>、<strong>お釈迦様の御命日である<span class="sc_marker red"><ruby>仏涅槃会<rt>ぶつねはんえ</rt></ruby></span></strong>についてのお話をさせていただきます。</p>
<p>二十九歳で出家をされたお釈迦様は五十年に渡る修行と布教の旅の末、<strong>クシナガラ</strong>という地でお亡くなりになりました。</p>
<p>先ほど申し上げた通り、涅槃会というとお釈迦様のご命日を意味しますが、<strong>実は「涅槃」という言葉自体は、<span style="text-decoration: underline;">本来死を表す言葉ではありません。</span></strong></p>
<p>元はインドの言葉「<strong>ニルヴァーナ</strong>」で、<span class="sc_marker y"><strong><ruby>蝋燭<rt>ろうそく</rt></ruby>の火が消えた状態</strong></span>を表現したものです。</p>
<p>この<strong>蝋燭の火は人の身を焦がす煩悩を<ruby>喩<rt>たと</rt></ruby>えたもの</strong>で、そんな<span class="sc_marker y"><strong>煩悩の火が消えて覚りに至った状態が「涅槃」</strong></span>なのです。</p>
<p>「煩悩の火が消えた」状態とは、</p>
<p><strong>自分の思い通りにしたいという<span class="sc_marker y">「貪り」</span></strong>から起こる様々な欲望と、<strong>欲望が叶わないことで起こる「<span class="sc_marker y"><ruby>瞋<rt>いか</rt></ruby>り</span></strong><span><strong>」</strong>、そして<strong>怒りによって周りが見えなくなる「</strong></span><strong><span class="sc_marker y"><ruby>癡<rt>おろ</rt></ruby>かさ</span>」、</strong><span>この「貪り」と「瞋り」と「</span><span>癡</span>かさ」<span>の、<span class="sc_marker red"><strong><ruby>貪<rt>とん</rt></ruby>・<ruby>瞋<rt>じん</rt></ruby>・<ruby>癡<rt>ち</rt></ruby></strong></span>を中心とする諸々の煩悩の火が消え、何事にも惑わされない安らかな心の状態です。</span></p>
<p><span>そして、同時にこれは仏教が目指す最大のテーマでもあります。</span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0022-min.jpg" alt="" width="1568" height="1044" class="alignnone wp-image-4590 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0022-min.jpg 1568w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0022-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0022-min-768x511.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0022-min-1024x682.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1568px) 100vw, 1568px" /></p>
<h3>二つの涅槃</h3>
<p><span>ただ、ここで一つの疑問が湧きます。</span></p>
<p><strong>「涅槃」が煩悩の火が消えた状態</strong>ならば、<span class="sc_marker y"><strong>お釈迦様はお覚りを開かれた十二月八日にすでに涅槃に入られていたはず</strong></span>です。</p>
<p>それなのに<span class="sc_marker red"><strong>なぜお覚りを開かれた日ではなく、亡くなられた日を涅槃会というのでしょうか？</strong></span></p>
<p>実は、お覚りを開かれてなお、弛まぬ修行の中で涅槃の境地に在り、一切の<ruby>執着<rt>しゅうぢゃく</rt></ruby>を離れておられたお釈迦様でしたが、そのお釈迦様を苦しめる唯一の存在がありました。</p>
<p>一体何でしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それは<span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>ご自身のお身体です</strong></span>。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>八十歳を迎え、老い衰えて病を抱えたお釈迦様のお身体にとって、晩年の旅はそれは苦しいものであったようです。</p>
<p>ところが最後まで残ったそのお身体すら、死によって手放された時、お釈迦様は本当に囚われるものがなくなったのです。</p>
<p>先ほどの蝋燭の例えで言うならば、お釈迦様はお覚りを開かれてから、<span class="sc_marker y"><strong>煩悩の火は消えていても、火を点す蝋燭が残っている状態</strong></span>でした。</p>
<p>これを、<span class="sc_marker red"><strong><ruby>有余<rt>うよ</rt></ruby>涅槃</strong></span>といいます。</p>
<p>ところが<span class="sc_marker y"><strong>死によってその蝋燭すら無くなった、同じ火が消えた状態でも根源から消えた</strong></span>ということで、お釈迦様の死を完全な涅槃、<span class="sc_marker red"><strong><ruby>般<rt>はつ</rt></ruby>涅槃（<ruby>無余<rt>むよ</rt></ruby>涅槃）</strong></span>と呼ぶようになりました。</p>
<p>つまり、<strong>お釈迦様のご命日を涅槃会と申し上げるのは、<span class="sc_marker red">お釈迦様が完全なる涅槃「般涅槃」に入られたから</span></strong>なのです。</p>
<p>また、お釈迦様が般涅槃に入られたクシナガラの村の民は、絶えず花輪を飾り、夜通し歌や踊りによって盛大にご遺体をお祀りし、とても華やかで賑やかな様子だったようです。</p>
<p>それはお釈迦様の死を悼むというより、<strong>「般涅槃」に入られたことを賛嘆したもの</strong>とも言えましょう。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min.jpeg" alt="" width="1616" height="1080" class="alignnone wp-image-4594 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min.jpeg 1616w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-1024x684.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 1616px) 100vw, 1616px" /></p>
<h2>涅槃会とお通夜</h2>
<p>そんな仏涅槃会ですが、実は二月十五日に限らず<strong>日本ではこれにまつわる儀礼が広く行われています</strong>。</p>
<p>臨時行事ではありますが、全国的に見れば今日もあちこちで勤められていることでしょう。</p>
<p>一体どんな行事でしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その儀礼とは<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>「お通夜」</strong></span>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>昨年、地元のご老僧が亡くなられ、私はお通夜とご葬儀の法要解説を勤めさせていただきました。</p>
<p>これを機に改めてお通夜について調べてみて、驚きました。</p>
<p>お通夜で行われることの一つ一つ、例えば<strong>ご遺体のお祀りの仕方</strong>や<strong>お唱えするご回向</strong>などが、<span class="sc_marker red"><strong>お釈迦様が般涅槃に入られた時の様子を見事に再現していたのです。</strong></span></p>
<p>つまり曹洞宗のお通夜では、和尚さんに限らず一般の方も同様に、<span class="sc_marker y"><strong>故人を生前の誰々さんとしてお送りするのではなく、般涅槃に入られたお釈迦様になぞらえてお弔いしているということになります。</strong></span></p>
<p>では、そんなお通夜という儀式に、<strong>遺された者はどのような心で臨むべきなのでしょうか</strong>。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0041-min.jpg" alt="" width="1568" height="1044" class="alignnone wp-image-4591 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0041-min.jpg 1568w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0041-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0041-min-768x511.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0041-min-1024x682.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1568px) 100vw, 1568px" /></p>
<h3>お通夜と仏遺教経</h3>
<p>お通夜でお唱えするお経に『<strong><ruby>仏垂<rt>ぶっし</rt></ruby><ruby>般涅槃<rt>はつねはん</rt></ruby><ruby>略説<rt>りゃくせつ</rt></ruby><ruby>教誡<rt>きょうかい</rt></ruby>経</strong>』があります。</p>
<p>略して、釈迦牟尼<span style="color: #ff0000;"><strong>仏</strong></span>が<span style="color: #ff0000;"><strong>遺</strong></span>された最期の<span style="color: #ff0000;"><strong>教</strong></span>え、遺言の教えということで『<strong><ruby>仏遺教経<rt>ぶつゆきょうぎょう</rt></ruby></strong>』とも言います。</p>
<p>このお経は、お釈迦様が涅槃に入られる直前まで、<ruby>枕辺<rt>まくらべ</rt></ruby>に集う大勢のお弟子さんを思い、死が間近に迫るお体の苦しみを耐えながら、穏やかに教えの要を説き尽くされた様子を伝えています。</p>
<p>今回お写経していただくのはそんな<strong>『仏遺教経』の結びのお言葉、お釈迦様がこの世に残された最期お言葉</strong>です。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>汝等且止。勿得復語。時將欲過我欲滅度。是我最後之所教誨。</strong></span></p>
<p>(<strong><ruby>汝等<rt>なんだち</rt></ruby><ruby>且<rt>しばら</rt></ruby>く<ruby>止<rt>や</rt></ruby>みね。<ruby>復<rt>ま</rt></ruby>た<ruby>語<rt>ものいう</rt></ruby>こと<ruby>得<rt>う</rt></ruby>ることなかれ。時<ruby>将<rt>まさ</rt></ruby>に過ぎなんと欲す、我<ruby>滅度<rt>めつど</rt></ruby>せんと欲す。是れ我が最後の<ruby>教誨<rt>きょうげ</rt></ruby>するところなり。</strong>）</p>
<p>そのご生涯で説かれてきた教えの要を改めて確認し、質問がないことを確認されたお釈迦様は、</p>
<p><strong>「それでは皆静かになさい。もう言葉を語ってはならぬ、永久の安らぎに入る時が来た、この私の旅立ちの姿こそ最期の教えである。だから、黙して見つめよ。」</strong></p>
<p>とのお言葉をその場のお弟子さんたちに掛け、最期の時を迎えられました。</p>
<p><strong>自らの死に逝く現実を最期の教えとして説かれた</strong>のです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0003-min.jpg" alt="" width="1568" height="1044" class="alignnone wp-image-4588 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0003-min.jpg 1568w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0003-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0003-min-768x511.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0003-min-1024x682.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1568px) 100vw, 1568px" /></p>
<h2>学生時代の出来事</h2>
<p>私はそんなお釈迦様の御最期から思い起こされることがあります。</p>
<p>学生時代の事です。</p>
<p>成り行きで駒澤大学仏教学部に入学した私は、単位を落としはしないものの、興味を持って熱心に学んでいるとは言えない学生でした。</p>
<p>しかし、三年生の時に偶然受講したある講義で、仏教を学ぶ態度に変化が生じました。</p>
<p>その講義は、まだ若い三十代の非常勤講師さんが担当される講義で、受講者は、<strong>学生が５〜６人</strong>、そして<strong>少しお年を召した聴講の方々が10人程</strong>という異色の受講者構成でした。</p>
<p>さらに、その講義の内容は受講者の構成に増して異色でした。</p>
<p>決まったテキストは無く、<strong>その日に受講者が知りたいことを講義する</strong>というものだったのです。</p>
<p>この型破りな先生は、学生との間に隔てを付けずまるで友達か兄弟のように接して下さり、講義のあとは食事や飲みに連れて行ってくださったり、<strong>期末のテストに至っては大学近くの沖縄料理屋さんで飲みながら採点をしたほど</strong>です。</p>
<p>自分がわからないことを聞けて、納得できるまで教えてくれるその先生のお陰で、私は仏教の学びに楽しさを感じるようになりました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0012-min.jpg" alt="" width="1568" height="1044" class="alignnone wp-image-4589 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0012-min.jpg 1568w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0012-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0012-min-768x511.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/2020219_200220_0012-min-1024x682.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1568px) 100vw, 1568px" /></p>
<h3>祖父の死と先生の経験</h3>
<p>そして、その講義の単位を三年生で取得しましたが、単位とは関係なく四年生になっても先生の講義に足を運びました。</p>
<p>その大学四年の年の六月、私のその後を大きく方向付ける出来事が起こります。</p>
<p><strong>大学に入るまでお寺でずっと一緒に暮らしていた祖父が亡くなったのです。</strong></p>
<p>心臓疾患で肺に水が溜り、苦しさは浅く早い呼吸になって表れ、入院するも日に日に体力が衰えて最期を迎えました。</p>
<p>もちろん悲しみもありましたが、生まれてからずっとそばにいた祖父の死はどこか現実味がなく、気持ちが宙に浮いたような感覚でした。</p>
<p>私は大学で多少なりとも仏教を勉強して、無常であるとか無我であるとか、仏教が人の命についてどう考えるかはなんとなく知っているつもりでした。</p>
<p>しかし、<strong>本当に私を可愛がってくれた祖父の死を目の当たりにした時、<span class="sc_marker red">その死という現実をどう受け止めたらよいのか、私にはわからなかったのです</span></strong><span class="sc_marker red">。</span></p>
<p>葬儀も終わり、二週間ぶりに大学の講義に出た私に、先ほどの先生が、</p>
<p>「<strong>どうした、何かあった？</strong>」</p>
<p>と声を掛けて下さいました。</p>
<p>祖父が亡くなった旨を伝えた私に、先生は講義の終了後、</p>
<p>「<strong>飲みに行こう</strong>」</p>
<p>と一言、誘ってくださいました。</p>
<p>駒沢にあるもつ鍋屋さんで、先生はこう仰いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「<span class="sc_marker red">人の死っていうのは、その人の最後の説法なんだよね</span>」</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そう仰ってから先生はご自身の経験をお話し下さいました。</p>
<p>お聞きすると、先生は大学生の頃にお母様を自死で亡くされていたのです。</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>お母様が抱えていた苦しみに気付けなかったこと、そしてその死の悲しみと向き合い、解決したいという思いが、仏教を真剣に学ぶきっかけになったとのことでした</strong></span>。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min.jpeg" alt="" width="1616" height="1080" class="alignnone wp-image-4593 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min.jpeg 1616w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-1024x684.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 1616px) 100vw, 1616px" /></p>
<h3>安らかな顔に導かれて</h3>
<p>お話を聞いて、<strong>私は亡くなった時の祖父の顔を思い返しました</strong>。</p>
<p>頑固で真面目で不器用、しかし僧侶としての生き方を全うした祖父は、とても安らかな顔で永久の眠りについていました。</p>
<p>呼吸が苦しくてずっと眉間に寄せていたシワは消え、穏やかな笑顔を見せくれていたのです。</p>
<p>山間の農家に生まれ、苦労に苦労を重ねながら辿り着いた僧侶の道。</p>
<p><strong>仏道を信じて仏道を歩み切って死を迎えた祖父の、その安らかで穏やかな笑顔</strong>は、僧侶としての人生を歩む覚悟が定まり切っていなかった私に、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「<span class="sc_marker red">この道でいいんだよ</span>」</strong></span></p>
<p>と、優しく諭してくれていように思えました。</p>
<div id="attachment_4596" style="width: 560px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4596" loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min.jpg" alt="" width="550" height="548" class="wp-image-4596 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min.jpg 550w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-150x150.jpg 150w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-300x300.jpg 300w" sizes="(max-width: 550px) 100vw, 550px" /><p id="caption-attachment-4596" class="wp-caption-text">高野山金剛峯寺所蔵</p></div>
<h2>最後の説法とお通夜の心</h2>
<p>お釈迦様は、お弟子様たちに教えの要を遺言として説かれたのち、静かにご自身の最期を見届けるよう言い残されました。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker y"><strong>思い通りにならない無常・無我の世でも、仏道を信じ歩んで行けば何の心配もないこと</strong></span>を、ご自身の最期を以てお示し下さった無言の説法でありました。</p>
<p>そして、最後の説法をしかと受け取ったお弟子様たちは、<span class="sc_marker y"><strong>涅槃に入られたお釈迦様のお側で、夜通しその教えと、自分たちの今後の生き方を確認し合いました。</strong></span></p>
<p>この、<span class="sc_marker red"><strong>お弟子様たちが「夜通し」教えを確認しあったことが、お通夜という言葉の起源となっています。</strong></span></p>
<p>つまりお通夜とは、<span class="sc_marker red"><strong>故人を般涅槃に入られたお釈迦様と重ね合わせ、故人が無言で説いて下さっている最後の説法を聞き届ける儀式だった</strong></span>のです。</p>
<p>皆様はこれまで大切な人との別れの中で、どのような説法を聞いて来られたでしょうか。</p>
<p>心温まる優しい教えもあるでしょう。</p>
<p>厳しさに耳を覆いたくなるような教えも、或いは、故人の至らなさから、半面教師として受け取るより他ないこともあるかも知れません。</p>
<p>いずれにしても、<span class="sc_marker red"><strong>遺された者の勤めは、故人が残して下さった教えを受け取り、正しい道を歩んで行くこと</strong></span>ではないでしょうか。</p>
<p>そうすることで初めて、<span class="sc_marker red"><strong>故人は遺された人を正しく導く存在、仏様になる</strong></span>のです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>汝等且止。勿得復語。時將欲過我欲滅度。是我最後之所教誨。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>涅槃会にちなんだ本日の一行写経と法話の会では、『仏遺教経』のこちらの一節をお写経して頂き、皆様がこれまで出会われた最後の説法に、改めて耳を傾けて頂けたなら有り難く存じます。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min.jpg" alt="" width="3024" height="3024" class="alignnone wp-image-4595 size-full" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min.jpg 3024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min-150x150.jpg 150w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min-300x300.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min-768x768.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_3894-min-1024x1024.jpg 1024w" sizes="(max-width: 3024px) 100vw, 3024px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/4556/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>冠婚葬祭の新解釈 〜そもそも冠婚葬祭とは？〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/3174</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/3174#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 03 Oct 2019 15:00:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お供え]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=3174</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 今年28歳になる私西田。 この１〜２年で一気に増えたのが友人の結婚式。 すると私の立場上、人前でお話しをする機会に恵まれているためか、乾杯の音頭や友人代表の挨拶を務めさせていただくこともあったりします。 そこで気をつける…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>今年28歳になる私西田。</p>
<p>この１〜２年で一気に増えたのが<span class="sc_marker red"><strong>友人の結婚式</strong></span>。</p>
<p>すると私の立場上、人前でお話しをする機会に恵まれているためか、<strong>乾杯の音頭</strong>や<strong>友人代表の挨拶</strong>を務めさせていただくこともあったりします。</p>
<p>そこで気をつけるのが、結婚式のマナー。</p>
<p><strong>使うべき言葉・使うべきでない言葉</strong>、<strong>良い振る舞い・悪い振る舞い</strong>などが、当然ながら日頃の法事やお葬式とは異なるからです。</p>
<p>慣れない頃はスーツの色やご祝儀袋の用意の仕方など、一つ一つネットで調べながら準備をしていました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/dffd7710d0dcce779174c864b6398836_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3183" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/dffd7710d0dcce779174c864b6398836_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/dffd7710d0dcce779174c864b6398836_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>こうした<strong>冠婚葬祭</strong>のマナーが難しく感じるのは、日常生活の様式とそうした場での様式がかけ離れてしまったせいでもあるのかもしれません。</p>
<p>どんなに形を変えたとしても、<strong>冠婚葬祭</strong>自体は日本という国の文化の中で何かしらの形で残っていくはずで、いずれは社会生活を送る誰もが関わらなくてはならないものです。</p>
<p><strong>冠婚葬祭</strong>に携わることもある意味で大人になっていくことなのかもしれません。</p>
<p>…ところで、この<span class="sc_marker red"><strong>冠婚葬祭という言葉の意味を、皆さんはご存知でしょうか</strong></span>？</p>
<p><strong>結婚式とお葬式？</strong></p>
<p>そう思いますよね。</p>
<p>実は<span class="sc_marker red"><strong>冠・婚・葬・祭は全部別物</strong></span>です。</p>
<p>しかもそこには供養に関する大切な精神性が込められています。</p>
<p>今回は<strong>冠婚葬祭に関して、私の師匠が常々供養の場で申し上げていることを土台として、私なりの解釈でお話ししたいと思います。</strong></p>
<h2>冠婚葬祭の由来</h2>
<p>中国に由来がある冠婚葬祭という言葉は、今申し上げた通り<strong>「冠婚」と「葬祭」ではなく「冠」「婚」「葬」「祭」と全て別々の意味を持っています。</strong></p>
<p>まずはそれぞれの意味と内容に触れてみましょう。</p>
<h4>冠</h4>
<p>冠というのは、日本では奈良〜江戸時代頃まで行われていた、<span class="sc_marker red"><strong>元服という通過儀礼</strong></span>のことを指します。</p>
<p>当時は15歳になると成人とみなされ、<strong>貴族は冠、武家は<ruby>烏帽子<rt>えぼし</rt></ruby>といった被り物を授けられます。</strong></p>
<p>この成人となると共に被り物を授ける風習は、<strong>中国で行われた冠礼という儀礼が日本に伝わったもの</strong>。</p>
<p>そしてこうした冠などの被り物を授けられることから、元服のことを「冠」というようになりました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/f4c44206118abb9e2be99b7a1a4c2686_s_Fotor-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-3180" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/f4c44206118abb9e2be99b7a1a4c2686_s_Fotor-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/f4c44206118abb9e2be99b7a1a4c2686_s_Fotor-min.jpg 480w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h4>婚</h4>
<p>婚は、字からもわかる通り<span class="sc_marker red"><strong>結婚式</strong></span>のことです。</p>
<p>昔は今とは社会の在り方や価値観が異なり、結婚というのは必ずしも自由なものではない上、成人した男子が妻をめとり、子孫を残すことが「勤め」とされていました。</p>
<p>これは日本に限らず、インドや中国を含め、「長男が子孫を残す」ということの重要性は様々な思想から説かれています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0835-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3181" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0835-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0835-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0835-min-1024x683.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h4>葬</h4>
<p>葬も字の通りで、<span class="sc_marker red"><strong>お葬式</strong></span>のことをさします。</p>
<p>ちなみに<span class="sc_marker red"><strong>お葬式というのは通夜・葬儀、そこに告別式などを合わせた葬送儀礼の総称</strong></span>です。</p>
<p>中国では現在、冠婚喪祭というように<strong>「喪」</strong>という字を当てるそうで、人の喪失や、喪に服する儀式という意味では「葬」と大きな違いはありません。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2145" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h4>祭</h4>
<p>祭というのは<span class="sc_marker red"><strong>お祭り</strong></span>のことです。</p>
<p>といっても、祭祀という言葉があるように、お祭りとは本来<span class="sc_marker red"><strong>神様や仏様を祀る儀礼</strong></span>のことです。</p>
<p>祭るというのはどういうことかというと、<strong>日頃の生活の中で心の拠り所としている神仏に関係の深い日に、お供えをしたり、音楽やお経を捧げたりするなどの行為によって、感謝し讃えること</strong>と言ってよいでしょう。</p>
<p>夏祭りなどでは、ついつい露店やお神輿に心を奪われてしまいがちですが、<strong>神社でもお寺でも、お祭りというのはそこにおられる神様や仏様をお祭りしている儀礼に他ならなりません。</strong></p>
<p>お祭りに参加する時などは、その神社やお寺でお祀りしている神仏について調べてみると良いかもしれませんね。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_8720-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-3182" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_8720-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_8720-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_8720-min-1024x768.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「知識」と「生き方」の違い</h2>
<p>これで、<span class="sc_marker red"><strong>冠婚葬祭という言葉には以上の４つの儀礼が含まれていること</strong></span>がわかりました。</p>
<p>正直な話、これだけならウィキペディアや葬儀会社さんのコラム、書籍などでいくらでも書いてあります。</p>
<p>なぜならこれは言葉の意味という、一つの知識に過ぎないからです。</p>
<p>私が尊敬する故・<ruby>奈良<rt>なら</rt></ruby><ruby>康明<rt>こうめい</rt></ruby>老師は、仏教を学ぶ上で一番重要なことは<span class="sc_marker red"><strong>「一人称であること」</strong></span>だとおっしゃいました。</p>
<p>たとえば、<strong>諸行無常</strong>という教えを知ったなら<span class="sc_marker blue"><strong>「なるほど、この世</strong><strong>はみんな無常なのか」</strong></span>だけではなく<span class="sc_marker red"><strong>「ああ、私は無常な存在なのか」</strong></span>と受け止めることが、「一人称であること」です。</p>
<p>少し調べればいくらでも情報を手に入れられる現代ですが、その情報を活かすことができるかどうかは別の話です。</p>
<p><strong>「知ってる？冠婚葬祭って結婚と葬式じゃなくて冠と婚と葬と祭、全部違う意味があるんだって〜！」</strong></p>
<p>という情報や知識で止まっては、結局人生を変えるような「生き方」にまでは至りません。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>なぜこのような言葉ができたのか、その過程にはどんな思いがあったのか、そこに思いを巡らせ、自分自身に活かして初めて、その知識が意味を持つのです</strong></span>。</p>
<p>これは私たちの活動に直結する部分でもあります。</p>
<p>仏教には知識欲を満たすような意外性や人に話したくなる話題性のある教えもたくさんあります。</p>
<p>しかし、それを<span class="sc_marker red"><strong>「知識」で終わらせず「生き方」に変換して伝えていくことが私たち布教活動を行う僧侶の役割</strong></span>だと思っています。</p>
<p>そこでこのコラムでは、もう一歩踏み込んで<span class="sc_marker red"><strong>冠婚葬祭という言葉を自分の生き方に当てはめてみたらどうなるのかを考えてみましょう。</strong></span></p>
<p>次回は「知識」を「生き方」に変換していきたいと思います。</p>
<p>つづく</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0400-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3185" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0400-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0400-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0400-min-1024x683.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/DSC_0400-min.jpg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/3174/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>戒名をつける意味〜名前から生まれるもの〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/2822</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/2822#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 28 Aug 2019 15:00:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=2822</guid>

					<description><![CDATA[最近偶然ツイッターで目にした「日本は葬儀にかかる費用の平均が世界で一番高い」という旨のツイート。 そしてそこに返信する形で「自分は葬儀も戒名もいらない」「坊さんになんか頼まない」という反響の数々。 戒名については以前も少し触れたことがありま…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>最近偶然ツイッターで目にした<strong>「日本は葬儀にかかる費用の平均が世界で一番高い」</strong>という旨のツイート。</p>
<p>そしてそこに返信する形で「自分は葬儀も戒名もいらない」「坊さんになんか頼まない」という反響の数々。</p>
<p>戒名については以前も少し触れたことがありますが、やはり葬儀や戒名は「意味がわからないのにやたらお金がかかる」と思われているのが現状のようです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/1740" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0369_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="戒名をつける意味〜名前から生まれるもの〜"></div><div class="title">格安葬儀の裏で起きている「戒名」の問題</div><div class="date">2019.6.5</div><div class="substr">イオングループやDMM、アマゾンなどの大企業による僧侶派遣や寺院との提携した格安葬儀ビジネスがかなり増えてきて、価格競争も起こっている昨今。 さらに各葬儀会社もそれぞれ寺院と提携した「仲介」という形態まであり、とてもじゃないけど把握しきれない状況です。 インターネットで調べて、ご遺族が納得できる葬儀...</div></a></div>
<p>そこで、<span class="sc_marker red"><strong>今回は戒名について、なぜ亡くなった人に名前をつけるのか、名前つけるとはどういうことなのかについて、最近気づいたことを書いてみます。</strong></span></p>
<h2>名前の数</h2>
<p>突然ですが、皆さんには名前がいくつあるでしょうか。</p>
<p>私であれば戸籍上の「<span class="sc_marker red"><strong>西田</strong></span><ruby><span class="sc_marker red"><strong>稔光</strong></span><rt>としみつ</rt></ruby>」という氏名、そして曹洞宗に登録されている「<strong><span class="sc_marker red">西田</span></strong><ruby><strong><span class="sc_marker red">稔光</span></strong><rt>しんこう</rt></ruby>」という僧名があります。</p>
<p>ちなみにこの僧名は<strong>必ず漢字の読み変えをするというわけでなく、お寺に生まれた私に、僧名を見越してつけられた名前が稔光であった</strong>というわけです。</p>
<p>そのため、<strong>一般家庭から出家した方は僧名は全く違う字になる場合も多くあります。</strong></p>
<p>さてそんな氏名と僧名だけではありません。</p>
<p>人間には<strong>愛称やあだ名</strong>というものもあります。</p>
<p>私の場合は<strong>姓</strong>では<span class="sc_marker y">西田、西田さん、西田くん、西田ちゃん、西田先輩、にっしー</span>などと呼ばれることがあります。</p>
<p>一方、<strong>名</strong>の方は<span class="sc_marker y">とし、としくん、としさん、としお、としみつさん</span>など。</p>
<p>さらに今度は<strong>僧名</strong>で<span class="sc_marker y">稔光、稔光さん、しんちゃん</span>。</p>
<p>さらにさらに<strong>永平寺では上山の際、名前が被ると「呼び名」というものを申請し、その名で呼ばれます</strong>。</p>
<p>私の場合は僧侶の苗字とも言える道号からとって「<span class="sc_marker y">法雲</span>」という呼び名になりました。</p>
<p>そのため永平寺で出会っている方には稔光ではなく法雲と呼ばれます。</p>
<p>その法雲も、<span class="sc_marker y">法雲さん、うんさん、ほーうぃん、くも</span>など、さらに派生したあだ名が存在するわけです。</p>
<p>そういえば、永平寺の上山した直後の一週間は到着順の数字で呼ばれるので一週間だけ「８番の和尚」と呼ばれたこともあります。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2612-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-2853" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2612-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2612-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2612-min-1024x768.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>名前を呼ばれるということ</h2>
<p>こうして考えてみると、私という一人の人間が、約20通りの名前で呼ばれているということがわかります。</p>
<p>そんな中で、私には現在一人しか使わない呼び方があります。</p>
<p>それは「としみつさん」という呼び方で、これは祖母しか使いません。</p>
<p>現在93歳の祖母だけが唯一、「としみつ」という名前を全て読んだ上に「さん」をつけて「としみつさん」と私を呼びます。</p>
<p>そんな祖母は元々体が弱かったのですが、気づけば90歳という大台を越え、私にとっては父方、母方含めて最後の祖父母になりました。</p>
<p>しかし、最近は一段と体力が落ち、先日体調不良で検査入院をすることに。</p>
<p>お見舞いに行くと、一応体調は少し良くなったようで、祖母は体を起こすことはできないながら、私の顔を見て笑顔になります。</p>
<p><span class="sc_marker y">「あらぁとしみつさん」</span></p>
<p>祖母は他に呼ぶ人のいないその呼び方で、私の名前を呼びました。</p>
<p>その時私は、ふとあることに気づきました。</p>
<p>私はその人にとしみつさんと呼ばれ、こちらからばあちゃんと呼ぶことで、孫としての自分がいるということです。</p>
<p>私たちは人間関係の中で名前を呼ばれた時、そこに<strong>「<span class="sc_marker red">その人との間での私</span>」</strong>が生まれます。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>実は最近メンバーの深澤さんに初めてのお子さんが生まれました。</strong></span></p>
<p>そしてそのとてもかわいらしい女の子の赤ちゃんに名前をつけました。</p>
<p>その時、<span class="sc_marker red"><strong>深澤さんはその赤ちゃんが自身の娘であり、自分は父親であることを強く自覚したそうです。</strong></span></p>
<p>また、映画<strong>「千と千尋の神隠し」</strong>では、<span class="sc_marker red"><strong>主人公の千尋が「千」という名前をつけられることでその世界の住人として存在が認められました。</strong></span></p>
<p>名前をつけ、呼びかけるということは、<span class="sc_marker red"><strong>その人の存在を確かに認め、関係を結ぶことでもあるのです</strong></span>。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/efdd8982b26eb5872e82b3a892fe6735_s-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-2852" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/efdd8982b26eb5872e82b3a892fe6735_s-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/efdd8982b26eb5872e82b3a892fe6735_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>戒名をつけるということ</h2>
<p>それを踏まえた上で、<span class="sc_marker red"><strong>仏教では葬儀という儀礼の中で、亡くなった人との関係を「故人と私」から「仏様と私」に結び直すために、新たに仏としての名前をつけます。</strong></span></p>
<p>そう、<strong>それが戒名</strong>です。</p>
<p>話をしてくれて、触れることができて、目をみてくれた大切な人。</p>
<p>しかしその人が死によって肉体を失い、眼にも見えなければ、言葉を交わすこともできなくなります。</p>
<p>その関係のまま生きていたその人を想い続けると、音も匂いも感触もない、返事もしてくれないことが辛くてたまらなくなるはずです。</p>
<p>そこで、それからは肉体を持ったその人を拠り所にするのではなく、<span class="sc_marker red"><strong>良いところをお手本、悪いところは反面教師として、生きている間に残してくれた想いや生き様を、自分にとっての仏様として関係を受け止め直すこと</strong></span>が必要になるのです。</p>
<p>曹洞宗では「<span class="sc_marker y"><strong>仏は大師なるが故に帰依す</strong></span>」と言いますが、<span class="sc_marker red"><strong>仏様は自分を導いてくれる偉大な師のような存在であり、逆に言えば自分を導いてくれる存在こそが仏様</strong></span>なのです。</p>
<p>愛おしかったり憎かったり怖かったり尊敬していた故人に新たな名前をつけるのは、<span class="sc_marker red"><strong>「送り出す」</strong></span>というよりも、自分を導いてくれる仏様という存在に<span class="sc_marker red"><strong>「受け止め直す」</strong></span>こと。</p>
<p>あるいは<span class="sc_marker red"><strong>人生を導いてくれる仏様として関係を結びなおすこと</strong></span>、それが戒名をつけるということの意味なのです。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>戒</strong><strong>名がつくというのは、人生を全うした故人が、生きている人間にとっての仏様としての新たな道を歩き出したということ</strong></span>でもあるのです。</p>
<p>そして今度は仏様としての故人を心の中で育てていくこと、それが供養になってくるのですが、その話はまた改めて。</p>
<p>様々な産業や企業の取り組みの中で、戒名がサービスやオプションの一つと思われてしまうこともあるかもしれませんが、<strong>今一度宗教儀礼の大切な柱として戒名をつけることの意義を、まずは僧侶側が再確認しなければならないのかもしれません。</strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/189560_Fotor-min-1-300x222.jpg" alt="" width="300" height="222" class="alignnone size-medium wp-image-2854" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/189560_Fotor-min-1-300x222.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/189560_Fotor-min-1.jpg 624w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/2822/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>格安葬儀の裏で起きている「戒名」の問題</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/1740</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/1740#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 05 Jun 2019 13:48:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=1740</guid>

					<description><![CDATA[イオングループやDMM、アマゾンなどの大企業による僧侶派遣や寺院との提携した格安葬儀ビジネスがかなり増えてきて、価格競争も起こっている昨今。 さらに各葬儀会社もそれぞれ寺院と提携した「仲介」という形態まであり、とてもじゃないけど把握しきれな…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>イオングループやDMM、アマゾンなどの大企業による僧侶派遣や寺院との提携した格安葬儀ビジネスがかなり増えてきて、価格競争も起こっている昨今。</p>
<p>さらに各葬儀会社もそれぞれ寺院と提携した「仲介」という形態まであり、とてもじゃないけど把握しきれない状況です。</p>
<p>インターネットで調べて、ご遺族が納得できる葬儀・お別れができるならそれに越したことはありませんが、その影で問題も発生し始めています。</p>
<p>それは寺院にとってというよりは、ご遺族にとって深刻な問題です。</p>
<p>今回はそんな、発達した葬儀ビジネスが落とす影の部分に触れ、大変な思いをされる方が増えないことを願う回です。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/304193814045fa7662c77923dfe77d29_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1826" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/304193814045fa7662c77923dfe77d29_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/304193814045fa7662c77923dfe77d29_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>そもそも葬儀って？</h2>
<p>それにはまず、葬儀と戒名についてざっくりとご紹介しておかなければなりません。</p>
<p>葬儀というのは、実は<span class="sc_marker red"><strong>出家の儀式</strong></span>だということをみなさんはご存知でしたか？</p>
<p>お寺やご住職によって異なるかもしれませんが、私の師匠が行う葬儀では実際にカミソリを持っていって頭を剃る「動作」をします。</p>
<p>髪の毛というのは自分を良く見せようという煩悩の象徴とされ、それを剃ることは煩悩を離れることを意味します。</p>
<p>故人の髪の毛を剃るという形で、まずはその方のこれまでの人生に区切りをつけ、これから仏弟子として生きてもらうのです。</p>
<p>髪を剃ることで、身は仏弟子として生きる準備が整った故人にとって、次に必要になるのは心の道標です。</p>
<p>自分のルールではなく、仏弟子として実践していくべき心得をお渡しする必要があります。</p>
<p>その心得が<strong>「戒」</strong>です。</p>
<p>お釈迦様が説かれた仏弟子としての生き方である「戒」を僧侶が授け、その方がこれから先迷わないようにと願う儀式が葬儀なのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h2>戒名とは？</h2>
<p>そしてその戒を受け、<strong>仏弟子となった人の名前を「戒名」</strong>と言います。</p>
<p>戒名というのは何も亡くなった方の名前というばかりではありません。</p>
<p>生きている人に付いていることもあります。</p>
<p>その代表が私たち僧侶です。</p>
<p>私であれば「<ruby>西田稔光<rt>にしだとしみつ</rt></ruby>」という人間が高校生の時に師匠から戒を受け「<ruby>法雲稔光<rt>ほううんしんこう</rt></ruby>」という戒名をもらいました。</p>
<p>ちなみに、お寺に生まれると、住職である親は出家をすることを視野に入れて名前をつけることがあるので、私の場合は戸籍上の名前と戒名は読みが異なるだけで同じ字を書きます。</p>
<p>なので後から出家した僧侶は、本名と戒名が全く違う場合もあります。祖父がそうでした。</p>
<p>さて、そんな戒名ですが、これはお釈迦様から伝わった<strong>「<span class="sc_marker red">戒」を受けた証明でもあり、戒名を授けた人が「師匠」となる</span></strong>わけです。</p>
<p>この師匠というのは僧侶でも簡単に変えることはできず、事態がこじれると師匠を替えるために出家からすべてやり直しということもあるほどです。</p>
<p>ですから戒名をもらう相手は、菩提寺（檀家になっているお寺）があるならばそのお寺の住職、新しくお寺にお墓をとるのならそのお寺の住職である必要があります。</p>
<h2>葬儀ビジネスとモラル</h2>
<p>しかし近年、葬儀ビジネスの多様化・競争化の中で、ある出来事が起きています。</p>
<p>それは、企業と提携した僧侶が菩提寺に相談なく勝手に<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y blue"><strong>戒名をつけてしまうということ。</strong></span></p>
<p>これは私の地元で起きていることです。</p>
<p>元々、お寺が決まっていなかったり、お墓が決まっていない方の場合は、仮に葬儀を行ったとしても戒名ではなく俗名で葬儀をするのが地元の寺院間での通例でした。</p>
<p>それはご遺族がその後どうするか決めた時に、決めた先でスムーズにお話が進むようにするためです。</p>
<p>戒名の中には「戒名料」がかかるものもあり、それは日常生活からすれば決して安いものではありません。</p>
<p>それを考えれば、ひとまず戒名をつけないで俗名のまま葬儀をすることがご遺族のため、という風に考えたのです。</p>
<p>ところが最近はそうした説明もなく戒名までつけてあとは放置してしまう、という事例が増えてきているのです。</p>
<p>もしかすると葬儀がビジネス化する中で「戒名＝サービスの１つ」となってきている部分があるのかもしれません。</p>
<p>ただでさえ悲しみの中で心に余裕のないご遺族が、仲介する葬儀会社や企業、あるいは派遣された僧侶から勧められれば、そのまま戒名をつけてしまうのも無理はありません。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>しかしその後、お寺やお墓を決めた時に、先ほど述べたように「師匠を替える」ことになり、大変な場合だと戒名の付け直しとなり、また戒名料がかかってしまうことになってしまう</strong></span>のです。</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">大切な人を亡くした</span>ご遺族が、さらに経済的にも辛い思いをしなければならないなんて、こんなことがあっていいわけがありません。</p>
<p>もし<span class="sc_marker y"><strong>ご遺骨を預けるのが宗教や宗派を問わない霊園だったら問題ありません</strong>。</span></p>
<p>しかし、<span class="sc_marker y"><strong>もしお墓やお墓をとるお寺が決まっている場合はくれぐれもご注意ください</strong>。</span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1827" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/5a44ba95dc873b27f6ec641ae217e4ab_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>・「葬儀だけ」のつもりで付き合う僧侶から戒名をもらう場合は慎重に。</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>・お寺によっては戒名料がかからない戒名もある。</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>・信頼できる僧侶を一人見つけておく。</strong></span></p>
<p>以上の三点が、今の私の立場から申し上げられることです。</p>
<p>また、<span class="sc_marker red"><strong>その土地ごとに地域性がありますので、葬儀会社の方や決めようとしているお寺とは大変でもよく相談しておくこと</strong></span>をオススメします。</p>
<p>葬儀の中で不必要なトラブルがなく、故人と納得のいくお別れができることを心から願っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/1740/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
