<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>供養 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<atom:link href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%E4%BE%9B%E9%A4%8A/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
	<lastBuildDate>Fri, 21 Jul 2023 06:41:26 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=5.8.9</generator>

<image>
	<url>https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/06/cropped--32x32.jpg</url>
	<title>供養 - 禅活-zenkatsu-</title>
	<link>https://zenkatsu.site</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>	<item>
		<title>法話「喜悦の心の在り処」(2023/5/31禅活しょくどうにて)</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9079</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/9079#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 01 Jun 2023 15:00:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[こまきしょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[禅活しょくどう]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=9079</guid>

					<description><![CDATA[毎月開催している精進料理&#38;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、 現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。 今回は私西田が『典座教訓』の「喜心」についてお話しした内容を掲載いたします。 本編 さて、ここまでいす…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>毎月開催している精進料理&amp;食作法体験ワークショップ「禅活しょくどう」では、<br />
現在月替わりでメンバーの一人が法話を担当しています。</p>
<p>今回は私西田が『典座教訓』の「喜心」についてお話しした内容を掲載いたします。</p>
<h2>本編</h2>
<p>さて、ここまでいす坐禅と食事作法を通して、カジュアルな環境ながら曹洞宗の食の教えを実践していただきました。</p>
<p>度々お話ししている通り、曹洞宗には食事をする時の心構えを説いた『赴粥飯法』という書物があり、<br />
今実践していただいた作法はその内容をご家庭でも実践できる形にアレンジしたものです。</p>
<p>一方で、食事を作る、調理に関する教えが説かれたものが『典座教訓』です。</p>
<p>『典座教訓』は、永平寺を開かれた道元禅師が、中国に渡ってご修行された際の経験をもとに、修行道場の食を司る「典座」という役職について著された書物です。</p>
<p>道元禅師が出家をされた鎌倉時代、日本では僧侶が自分で身の回りのことをする習慣がなく、食事の用意や洗濯などはお寺に仕える人の仕事であったようです。</p>
<p>道元禅師もそのような環境で僧侶として修行をされたわけですが、中国に渡ってみると大きく環境が異なりました。</p>
<p>食事や掃除、畑仕事や大工仕事のようなことまで、お寺に関する労働を僧侶自ら行なっていたのです。</p>
<p>これには仏教が伝わった過程と社会背景が関係しています。</p>
<p>お釈迦様がいらした頃のインドでは、出家者に衣食住を供養する習慣が社会的に根づいており、僧侶は労働や生産活動をせず、社会から離れて修行生活を送ることができました。</p>
<p>しかし仏教が伝わった中国には、そういった風習がありません。</p>
<p>また、時の権力者や社会状況によっても修行生活が左右されてしまうため、インドのように旅をするのではなく、寺院を建てて定住し、僧侶たちは生活環境を自ら整えていく形での修行生活を送るようになります。</p>
<p>この、修行生活に必要な労働のことを「作務」といいます。</p>
<p>一般的には庭掃除や草とりを想像されるかもしれませんが、修行の場である寺院の運営に必要なことは、調理も洗濯も、現代で言えば事務仕事も<span>SNS</span>の更新も、場合によっては作務なのです。</p>
<p>そのような経緯があって、道元禅師が修行した中国のお寺では、ご老僧が腰を折って海藻の天日干しをしたりしていて、その様子に大変な衝撃を受けられました。</p>
<p>この、作務が重要な修行となっていることへの感動が、『典座教訓」の根底にはあります。</p>
<p>実は『典座教訓』とは、典座という役職を強調しつつも、修行道場の維持や作務にあたる心構えを説いたものなのです。</p>
<p>そんな『典座教訓』の中で特に有名な教えが「三心」です。</p>
<p>道元禅師は、作務にあたる時に持つべき心を「喜心」「老心」「大心」の三心として説かれました。</p>
<p>よく、典座の心得として知られる三心ですが、『典座教訓』には</p>
<blockquote><p><em>およそ諸々の知事・頭首の、職に当たるに及びて、</em><br />
<em>事を作し務を作すの時節は、喜心・老心・大心を保持すべき者なり</em></p></blockquote>
<p>とあるように、作務の役職に当たった人が忘れてはならない心として説かれています。</p>
<p>そこで、今回から三回にわけて、私と原山さんと渡辺さんが、それぞれに一つずつ三心についてのお話をさせていただきます。</p>
<p>本日私がお話しするのは「喜心」です。</p>
<p>喜心とは喜悦の心、簡単に申し上げると「喜んで取り組む心」のことです。</p>
<p>『典座教訓』には、</p>
<blockquote><p><em>今吾れ、幸いに人間に生まれ、而も此の三宝受用の食を作る、豈に大因縁に非ざらんや。</em><br />
<em>尤も悦喜すべきものなり。</em></p></blockquote>
<p>とあるように、人間に生まれ、三宝に食事を供養できるということが、最上の喜びであると説かれます。</p>
<p>三宝というのは仏教信仰の要である、仏・法・僧、お釈迦様のお覚りと、そこに至る教え、そしてそれを実践する人々のことです。</p>
<p>修行道場では、修行生活を送る修行僧に、この禅活しょくどうでは参加費こそ頂戴してはいますが、作法を実践する私たちに食事が供養されています。</p>
<p>それならば実践する人、僧宝への供養ではないか、と思われるかもしれません。</p>
<p>しかし実は、修行僧もここにいる私たちも、お釈迦様の教えを実践し、実践によってその心を宿した存在であるため、仏・法・僧の三宝が一つになった存在としてここにいます。</p>
<p>この時間、実は皆様は三宝になっているんです。そんな三宝に他ならない実践者に対して食事を供養できることを喜ぶのが、典座にとっての喜心ということです。</p>
<p>私も永平寺では、修行僧や指導役の和尚様方の食事を作る役をいただいていたことがありました。</p>
<p>永平寺の食事は、必要以上に精がついてしまうという栄養面や、素人が食事を作るという衛生面も含めて、動物性食品を使わない、いわゆる精進料理です。</p>
<p>ただし、ここにいらっしゃる皆様との大きな違いは、その多くが進んで精進料理を食べているわけではない、ということ。</p>
<p>つまりお肉が食べたいんです。</p>
<p>私も学生の頃に食べていたファミリーマートのスパイシーチキンが恋しくて仕方ありませんでした。</p>
<p>そんな中で、初めて食べた車麩の唐揚げはセブンイレブンの唐揚げ棒の味がして、思わず坐禅堂の天井を仰いでしまいました。</p>
<p>そして、食事を作る役にあたった時、私はあの感動をみんなに届けたいと思いました。</p>
<p>いかに外の世界の味に近づけるか、という工夫に一番力を入れたのです。</p>
<p>醤油とみりんの味付けになりやすい厚揚げをトマト味で煮たり、こんにゃくを凍らせてお肉の食感に近づけるなど、色んな手を尽くしました。</p>
<p>そして、頑張った分だけ、食べた人から反響もあり、これが喜んで取り組む喜悦の心、喜心か！と思っていました。</p>
<p>これは調理に関しての経験ですが、先ほどお話ししたように三心は典座だけの心得ではありません。</p>
<p>法事やお葬式、このワークショップでも、お勤めしたことを感謝されたり喜んでもらえるたびに、私は喜心を感じているつもりでした。</p>
<p>しかし、これはいわば「やりがい」の一言で済んでしまうような、非常に一般論的といいますか、わざわざ道元禅師が書かれるようなことだろうか？と思ってしまうような内容に感じられないでしょうか。</p>
<p>そこで重要になるのが、「なぜ三宝へ供養できることが喜びなのか」ということです。</p>
<p>これを考えるきっかけになった出来事が、この一年のお寺でのお勤めでした。</p>
<p>私は現在、栃木県足利市の明林寺というお寺で、永平寺で役に就いている住職の留守を預かる形で、法事やお葬式などの、いわゆる檀務をお勤めしています。</p>
<p>以前から手伝いはしていましたが、一人でお勤めするようになったことと、何より、一人の方のお葬式から四十九日、一周忌と、時間の経過と共に一連の御供養を全てお勤めするようになったのはとても大きな変化でした。</p>
<p>人の死と一口に言ってもその様子というのは実に様々で、見送るご遺族の反応や対応も全く異なります。</p>
<p>そんな中でも特に印象に残っているお勤めがあります。</p>
<p>ある日、お寺の電話が鳴り、受話器を取ると、「もしもし、西田くんですか？」と聞かれました。声の主は、小学生の友人のお母さんでした。</p>
<p>とても明るくフレンドリーなお母さんで、大変お世話になった方です。</p>
<p>その電話の内容は、お母さんのお父上、友人にとってはお祖父様が亡くなり、まだお墓が決まっていないのでぜひ西田くんのお寺でお願いしたい、というものでした。</p>
<p>すぐに枕経に伺い、お勤めをしてからお父上の生前のご様子や今後のことを含めて色々とお話ししました。</p>
<p>お母さんは昔とお変わりない様子でしたが、明るく振る舞っている中に焦りや悲しみが見え隠れして、少し心配になったのを覚えています。</p>
<p>それから数日後にお通夜に伺うと、その場の誰よりも悲しみの色が濃く、枕経の時とは打って変わって憔悴しきった様子で棺のそばに立つお母さんがいました。</p>
<p>明るいイメージのお母さんが式中も声をあげて泣いていることに私は動揺しました。</p>
<p>それほどにお父上の存在は大きく、気丈に振る舞っていた分、溢れた感情も並々ならぬものがあったに違いありません。</p>
<p>そんなご様子を見て、私は自分では力不足だったのではないか、住職が勤めるべきだったのではないかと、申し訳ない思いを抱いていました。</p>
<p>葬儀からしばらくして、お仏壇の開眼、いわゆる魂入れに伺った際、お母さんは<br />
「お葬式の時はごめんね。昔から知っている西田くんに頼めて本当によかった。今後の法事やお盆もお願いね。」<br />
と穏やかな笑顔で仰ってくれたのです。</p>
<p>ご自身も様々な経験をされる中で、いつも支えてくれていたお父上を亡くし、悲しみに沈んでいたところから、また前に一歩を踏み出す。</p>
<p>悲しくても辛くても続く人生の一歩に、私のお勤めが必要だと仰ってくれたのです。</p>
<p>この経験から、私は「三宝に供養できる喜び」をこんな風に捉えることができるのではないか、と考えます。</p>
<p>三宝は、お釈迦様のお覚りとそこにいたる道、そしてそれを実践する人であるということは先ほどお話した通りです。</p>
<p>永平寺の修行僧は、みんなそれぞれに置いてきた人や物や、我慢している事、耐えていることがあって、それでも僧侶として生きていくために道を歩んでいます。</p>
<p>この禅活しょくどうに来られたみなさんも、ご自身のお仕事やお家のことや人間関係や悩み事、立場や責任を抱えながら、この場に足を運ばれ、食を通してご自身の人生と向き合い、道を歩まれています。</p>
<p>そう考えると、三宝とは「志をもって道を歩む人」のことでもあり、そこに供養するというのは「その歩みの一歩に関わること」という見方ができるのではないでしょうか。</p>
<p>『典座教訓』には、喜心についての説示の最後に、</p>
<blockquote><p><em>能く千万生の身をして、良縁に結ばしめんが為なり。此の如く観達するの心、乃ち喜心なり。</em></p></blockquote>
<p>という一節があります。</p>
<p>これは、</p>
<p>自分一人のものではなく縁によって循環していくこの身を良縁と結ぶために、私はこの作務を全うするのだ。と、このように道理を見抜いて事にあたることが喜心である</p>
<p>というものです。</p>
<p>志をもって道を歩む人は、その道中で様々な人や場所や物と出会い、そこに縁を紡いでいきます。</p>
<p>供養をお勤めしたお檀家さんが家族や親戚を幸せにするかもしれないし、食事を供養した人が誰かの人生を救うかもしれません。</p>
<p>その人の踏み出す一歩との縁が、自分一人では到底届かなかったようなところまで、私たちの行いを、人生を運んでくれるのです。</p>
<p>そして、自分の行いが思い掛けぬところまで縁を結んでいくと思って事にあたることが、喜心の本質なのです。</p>
<p>それは単に自分が嬉しいかどうかという世界ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>自分の行動が果てしなく影響を及ぼすものであるということへの責任感と言ってもいいでしょう。</p>
<p>はじめにお話しした通り、喜心を含む三心とは調理をする時だけ、食事を供養する時だけのものではありません。</p>
<p>修行に必要な作務にあたる時の心構えです。</p>
<p>作務とは「作すべき務め」とも読むことができます。</p>
<p>人生という修行の中で作すべき務めがあったのなら、それは作務となり得ます。</p>
<p>私なら葬儀や法事もそうですし、皆さんならお仕事や家事一つとってもそうです。</p>
<p>相手が人であろうとものであろうと場所であろうと、目の前にした務めは、そこから良縁が紡がれていくことを願って全うする。</p>
<p>喜心、喜悦の心とは生き方そのものにも関わってくる心のことをいうのではないかと、私は考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>関連記事</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6993" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/04/名称未設定-1-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="法話「喜悦の心の在り処」(2023/5/31禅活しょくどうにて)"></div><div class="title">意外と知られていない、曹洞宗の帰依三宝</div><div class="date">2021.4.16</div><div class="substr">スポンサードリンク 仏教信仰の基本といえば三宝への帰依です。 三宝とは仏宝・法宝・僧宝の３つの総称で、帰依というのは帰投依伏、全てを放棄してお任せする、というような意味です。 つまりは、三宝への帰依、帰依三宝というのは、三宝にすべてお任せしきって、拠り所として生きていくということになるわけです。 し...</div></a></div>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/9079/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>お葬式での合掌に心を重ねる</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/9029</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/9029#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 27 Apr 2023 15:00:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お葬式]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[合掌]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=9029</guid>

					<description><![CDATA[「亡くなった人のことは悪く言うもんじゃない」 日本で古くから使われる言葉です。 これ以上何もできない、何も言えない人を悪く言っても、 生きている私たちにとっては損になります。 しかし、供養の過程においては、 そうとも言い切れないのではないか…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「亡くなった人のことは悪く言うもんじゃない」</p>
<p>日本で古くから使われる言葉です。</p>
<p>これ以上何もできない、何も言えない人を悪く言っても、<br />
生きている私たちにとっては損になります。</p>
<p>しかし、供養の過程においては、<br />
そうとも言い切れないのではないかと私は考えています。</p>
<p>今回は故人へのネガティブな感情を、<br />
合掌という行為から考えてみようとおもいます。</p>
<h2>恨み憎しみは我慢すべき？</h2>
<p>ご供養に携わっていると、<br />
必ずしも故人が褒め称えられる人物であるとは限りません。</p>
<p>周囲に様々な悪影響や迷惑をかけて、<br />
恨まれながら旅立っていったり、亡くなってホッとされている方もいます。</p>
<p>そして、ご遺族の多くはその恨みや怒りという感情を<br />
「抱いてはいけないもの」と思って蓋をしてしまうことが多い気がします。</p>
<p>そうして感情に蓋をしてしまうと、お通夜・葬儀はもちろん、<br />
その先の四十九日や一周忌を迎えても、消化不良の思いだけが燻り続けて、<br />
故人を仏様だなんて思えないまま時間が過ぎていってしまいます。</p>
<p>よく、お葬式で気を張って思い切り悲しめなかった方が、<br />
時間が経って精神的に参ってしまうというケースがあります。</p>
<p>そんな話があるように、亡くなってからお葬式、そして四十九日の間は、<br />
悲しみも感謝も恨みも怒りも、あらゆる感情を故人にさらけ出して<br />
故人と向き合った方が良いと私は考えています。</p>
<h2>合掌に心を重ねて</h2>
<p>以前、故人に戒授ける時に、そこに居合わせる遺族との関係の精算が伴う<br />
という話を書いたことがあります。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/8950" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/03/ブログサムネしんこう-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="お葬式での合掌に心を重ねる"></div><div class="title">故人に授戒する意味を考える</div><div class="date">2023.3.10</div><div class="substr">昨今、コロナ禍も相まってお葬式は縮小傾向にあり、 この先通夜・葬儀・告別式がそれぞれの意味を忘れられてしまうのでは？ という心配を抱くことがあります。 その中でお通夜はお釈迦様の般涅槃の再現、告別式は民間のお別れ式という 説明も理解もしやすい意味があるためおのずと必要性を説くことも そこまで難しくは...</div></a></div>
<p>これは、故人との間にある想いは綺麗なもの<br />
ばかりではないということが前提となったお話です。</p>
<p>さらにそこで大きな意味を持っているのが、<br />
一緒に合掌をするということです。</p>
<p>合掌には、右手を浄らかな理想の自分、左手を汚い面も含めた現実の自分、<br />
その両方を合わせて相手の前に差し出す<br />
というインドの考え方が根底にあります。</p>
<p>お葬式や供養で合掌をする時、まさに人は<br />
故人に対して良くも悪くも嘘偽りない自分をさらけ出して向き合っているのではないでしょうか。</p>
<p>「故人のために」手を合わせるのではなく、<br />
故人と自分の間に手を合わせている。</p>
<p>行為に心が宿ると考える曹洞宗ならばなおのこと、<br />
そんな捉え方ができるのではないかと、最近よく思うのです。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>葬儀の捉え方は様々な角度があるわけですが、<br />
今回は合掌という行いを心と重ねて考えてみました。</p>
<p>良くも悪くも全てを前に差し出すという行いであるなら<br />
当然そこにはネガティブな感情もあっていいのではないでしょうか。</p>
<p>そして、そんな感情を思い切りぶつけた上で故人との関係を考えてみると、<br />
実は恨んでいた故人の行いや人柄の中にふと学びがあったりするものです。</p>
<p>故人の良いところは人生の道標に、悪いところはガードレールにして、<br />
様々な形での受け止め直し方ができていけば、<br />
お葬式の意義も再認識されていくような気がします。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/04/25998416_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-9031" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/04/25998416_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/04/25998416_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/9029/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>故人に授戒する意味を考える</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8950</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8950#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Mar 2023 15:00:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>
		<category><![CDATA[お葬式]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8950</guid>

					<description><![CDATA[昨今、コロナ禍も相まってお葬式は縮小傾向にあり、 この先通夜・葬儀・告別式がそれぞれの意味を忘れられてしまうのでは？ という心配を抱くことがあります。 その中でお通夜はお釈迦様の般涅槃の再現、告別式は民間のお別れ式という 説明も理解もしやす…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>昨今、コロナ禍も相まってお葬式は縮小傾向にあり、<br />
この先通夜・葬儀・告別式がそれぞれの意味を忘れられてしまうのでは？<br />
という心配を抱くことがあります。</p>
<p>その中でお通夜はお釈迦様の般涅槃の再現、告別式は民間のお別れ式という<br />
説明も理解もしやすい意味があるためおのずと必要性を説くことも<br />
そこまで難しくはありません。</p>
<p>ところが葬儀、特に故人に戒を授けるということの意味については<br />
私自身がなかなか納得のいく説明をしきれずにいました。</p>
<p>しかし実際に供養に関わるようになって見えてきた、<br />
故人への授戒の意味について、今回はお話しします。</p>
<h2>授戒とは？</h2>
<p>そもそも授戒とは何かということについて簡単にお話ししておきましょう。</p>
<p>授戒とは字の通り「戒を授ける」という仏教の儀式です。</p>
<p>戒というのは、一般的には「戒律」という言葉で認識され、<br />
信仰の上での規則やルールと理解されていることが多いと思います。</p>
<p>実は世間でイメージされる上記のような意味は「戒律」の「律」の部分を指します。</p>
<p>律とは、円滑な修行生活の妨げになることを禁じたもので、<br />
修行僧の間で問題が起こるとその都度お釈迦様が定めていきました。</p>
<p>持ち物や食べ物のこと、性欲に関することなど、<br />
一つ一つの事例に沿って定められたので、<br />
その内容は多岐に渡ります。</p>
<p>こうしたルールや規範的な意味をもつ「律」に対して、<br />
「戒」は「誓い」というは方が意味合いは近いかもしれません。</p>
<p>ですので、戒を授かるというのは師匠によって「規則を与えられるというより」は<br />
師匠の前で「誓いを立てる」こととイメージしていただいてもいいでしょう。</p>
<p>仏教徒として生きる、あるいは出家をするスタートが、この授戒なのです。</p>
<h2>故人が出家する？</h2>
<p>そこで問題になるのが、「故人に戒を授ける」ということの意味です。</p>
<p>亡くなった方は戒を授けられ、その証である「戒名」が授与されます。</p>
<p>生きている間に授戒会で戒を授かる分には、<br />
今日から仏教徒として生きていくんだ！と気合の一つも入れることができます。</p>
<p>しかし、亡くなった方に戒を授けるとなると、<br />
結局は葬儀というのは目に見えない世界の不思議な話になってしまうのでしょうか？</p>
<p>たびたびお話ししているように、私はこの見えない世界の話がどうも得意ではありません。</p>
<p>「見えてはいないけど、こうなっているんですよ」という話は、<br />
これから先はなかなか支持されないでしょう。</p>
<p>では、この故人への授戒を、だれもが納得できる形で受け止める方法ないのでしょうか？</p>
<h2>懺悔の重要性</h2>
<p>そこで重要になってくるのが懺悔です。</p>
<p>懺悔は戒を受ける前に必ず行う、過去の過ちに対する反省です。</p>
<p>自分の過去の至らぬ部分は、貪り、怒り、それによって周りが見えなくなり、<br />
身と言葉と心に行為として現れてしまった。<br />
その全てを今悔い改めます。</p>
<p>という意味の「懺悔文」を葬儀では授戒の前にお唱えします。</p>
<p>これは一つは故人に変わってのお唱えです。</p>
<p>しかし、これは遺族も同時に懺悔しているのではないか、と最近思うのです。</p>
<p>人は生きていれば大小様々に短所があったりぶつかったりするものです。</p>
<p>故人との関係だって、極端に言えばせいせいしたという方や、<br />
恨みを抱いている方もいるかもしれません。</p>
<p>そんな中で、故人と遺された人が同時に懺悔をし、<br />
詫びるべきところや改めるべきところを悔いるという段階を経ることは<br />
生前の関係の精算として非常に重要なことになります。</p>
<p>生前の良くなかった点にもしっかりと目を向けることで、<br />
故人の長所はお手本に、短所は反面教師とする受け止め方が見えてきます。</p>
<h2>死んだら何もできない</h2>
<p>そうして懺悔を経て授戒をするわけですが、<br />
ここで重要になってくるのが、<br />
人は死んだら善行も悪行も重ねられない、ということです。</p>
<p>懺悔して過ちを悔い改め、戒を受けた故人は、<br />
今後はもう悪行を行を重ねることのできない存在になります。</p>
<p>一方で、遺された私たちの人生は続きます。</p>
<p>その中で長い時間をかけてでも、故人を恨みや憎しみの対象ではなく、<br />
学びの対象とすることが、少なくとも曹洞宗の葬儀なのだと思います。</p>
<p>簡単なことではありませんが、<br />
やはり仏教は生きている人間がどう歩んでいくか、<br />
というところに集約されるのです。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>「そんなの死んだ人の勝ち逃げじゃん」と思われても仕方ないと思います。</p>
<p>しかし、「故人が生きている間にできなかった生き方をしてみせよう」<br />
という気概で臨む供養の姿勢もあるのではないか、と最近特に思うのです。</p>
<p>人は誰もが未完成のまま人生を終えていきます。</p>
<p>至らなかった点を懺悔と戒が補い、<br />
遺された人はそこから自らを省みる。</p>
<p>生きている人間を主役として、葬儀をみた時、<br />
故人に戒を授けることにはこのような意味もあるのかもしれないな、<br />
と最近考えるようになり、書いてみました。</p>
<p>戒という儀式が遺族と故人の関係を精算し、<br />
関係を結び直す役目を果たしていくと考えれば、<br />
目に見えない話ではなくなるのかもしれません。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/03/25086136_s-min-300x208.jpeg" alt="" width="300" height="208" class="alignnone size-medium wp-image-8952" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/03/25086136_s-min-300x208.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/03/25086136_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8950/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ストーリーとして見る供養</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8888</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8888#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Feb 2023 15:00:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8888</guid>

					<description><![CDATA[この３月で曹洞宗総合研究センターを修了し、お寺に戻ってきて一年が経ちます。 私は永平寺を下りてすぐに総合研究センターに行ったので、 腰を据えてお寺の供養に関わるようになったのは昨年からでした。 それ以前も週末には法事を手伝ったりお通夜を勤め…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>この３月で曹洞宗総合研究センターを修了し、お寺に戻ってきて一年が経ちます。</p>
<p>私は永平寺を下りてすぐに総合研究センターに行ったので、<br />
腰を据えてお寺の供養に関わるようになったのは昨年からでした。</p>
<p>それ以前も週末には法事を手伝ったりお通夜を勤めることはありました。</p>
<p>供養については総合研究センターでもある程度勉強もしていたので、<br />
理屈としてはわかっているつもりでした。</p>
<p>しかし、この一年で改めて気づかされたことをお話しします。</p>
<h2>葬儀と供養の意義</h2>
<p>まず、ここでは私の、というより師匠から学んだ葬儀や供養の意義についてお話ししておきたいと思います。</p>
<p>曹洞宗は、お釈迦様と同じように行動することで、お釈迦様の至った心を体現していく宗派です。</p>
<p>だからお釈迦様が覚った姿である坐禅をすることで、<br />
お釈迦様と同じように食事と向き合うことで、行の上にさとりがあるとします。</p>
<p>そしてそれは人の死に際しても同様です。</p>
<p>故人をお釈迦様と同じように送ることで、遺された私たちはそのお弟子様たちと重なります。</p>
<p>言うなれば、曹洞宗のお通夜はお釈迦様の涅槃の再現なのです。</p>
<p>道元禅師も、ずっとご自身の言葉で教えを示してこられたのに、<br />
最後はお釈迦様の遺言をそのまま引用した『正法眼蔵』「八大人覚」巻を最後の著作としました。</p>
<p>それはお釈迦様のように生きることでお釈迦様の心を現そうとした道元禅師にとっては、<br />
必然ともいえる最期だったのかもしれません。</p>
<p>そうした背景もあり、曹洞宗では故人をお釈迦様と重ねながら通夜をし、<br />
その後は改めて関係を結び直す意味で、戒名を授け、故人を仏様として受け止めていきます。</p>
<p>ここで重要なことは、仏にすることは決して故人を遠ざけることでも、忘れることでもないということです。</p>
<p>常に心の真ん中に置いて人生の指針とし、時間の経過の中で向き合い方も変えながら、<br />
共に歩んでいくことで仏として育てていくのが葬儀を終えた後の追善供養となっていきます。</p>
<p>供養の意義については過去に触れています。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3190" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_2547_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="ストーリーとして見る供養"></div><div class="title">冠婚葬祭の新解釈〜供養の意味を考える〜</div><div class="date">2019.10.11</div><div class="substr">スポンサードリンク 現代では「結婚式」と「お葬式」を合わせた名称として使われる「冠婚葬祭」という言葉。 前回は「冠婚」と「葬祭」ではなく「冠」「婚」「葬」「祭」それぞれに意味があることをお話ししました。 しかし、これを知っただけではただのマメ知識。 今回はそこから一歩踏み込んで、「冠婚葬祭」を人生と...</div></a></div>
<h2>ストーリーとして見る供養</h2>
<p>さて、ここまで書いたことは、お寺に帰ってくる前から理解していることではありました。</p>
<p>この二月でお寺に帰ってきてから一年が経ちました。</p>
<p>すると、最近何件か昨年お通夜をお勤めした方々の一周忌の法事をお勤めしました。</p>
<p>一年経って四十九日よりは明るくなったお家、まだ悲しみの癒えないお家、<br />
そのご様子は本当に様々です。</p>
<p>これは法事だけ、お通夜だけを手伝っていた頃には見えなかったものでした。</p>
<p>亡くなった直後の枕経からお葬式、四十九日、一周忌と、点ではなく線でお勤めするようになって、<br />
初めて供養がストーリーとして見えるようになってきたのです。</p>
<p>故人の人柄を聞き、師匠と共に戒名を考え、お葬式を勤め、そして四十九日を迎えて納骨し、一周忌を迎える。</p>
<p>ご遺族が悲しみや怒りや後悔といった様々な感情と向き合う日々を過ごし、<br />
そのストーリーを見てきた自分がかけるべき言葉を探す。</p>
<p>ストーリーを追ってきた僧侶だからこそできる関わり方があることを、この一年で学びました。</p>
<h2>シンプルが求められる時代に</h2>
<p>葬儀や供養を縮小したり簡素にする風潮は、コロナ禍で急速に加速しました。</p>
<p>しかし、お通夜や葬儀が二日間に分けられていることや、<br />
四十九日、一周忌、三回忌…と細かく供養があるのは、<br />
それだけ大切な人を失った人の心が細かく変化するものであり、<br />
その心の変化に沿っているからだと、私は捉えています。</p>
<p>様々な事情でコンパクトにせざるを得ないことはあります。</p>
<p>しかしそれは、信仰としてお通夜や葬儀の意味を信じる以上、<br />
僧侶側の都合であってはいけないと思います。</p>
<p>状況に合わせた柔軟さはあっても、基本的には勤めるべきことを大切にし、<br />
そこで見えたストーリーに対して、お釈迦様の教えを栞のように挟むのが僧侶の役目なのかもしれないなと、<br />
一年経った今、そんなことを考えました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8908" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2023/02/本.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8888/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>続・伊集院さんの話から、師弟関係について考えた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8710</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8710#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Dec 2022 15:00:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8710</guid>

					<description><![CDATA[今回は以前書いた、タレントの伊集院光さんと六代目三遊亭圓楽師匠の師弟関係についての記事の続編です。 こちらをご覧いただいてから読み進めていただけますと幸いです。 師弟の別れ 以前記事を書いたのが五月。 それから半年も経たない2022年9月3…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は以前書いた、タレントの伊集院光さんと六代目三遊亭圓楽師匠の師弟関係についての記事の続編です。</p>
<p>こちらをご覧いただいてから読み進めていただけますと幸いです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7100" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/師弟関係-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="続・伊集院さんの話から、師弟関係について考えた"></div><div class="title">伊集院さんの話から、師弟関係について考えた</div><div class="date">2021.5.28</div><div class="substr">突然ですが、先日私に弟弟子ができました。 ずっと出家を希望されていて、年齢は私より年上で、しっかり社会人を勤めてこらられた方です。 私の師匠の元で出家したということで、同じ師匠を持った弟弟子になるというわけです。 その出家の儀式の準備や式中、私は師弟関係と無縁の世界にあった方にとって、師匠とはどのよ...</div></a></div>
<h2>師弟の別れ</h2>
<p>以前記事を書いたのが五月。</p>
<p>それから半年も経たない2022年9月30日。</p>
<p>六代目三遊亭圓楽師匠はご逝去されました。</p>
<p>この出来事については禅活のちしょーさんとも追悼動画を投稿しました。</p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/SHpIBIYJLBY" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>今回書きたいのはそのさらに後、2022年12月27日にTBSラジオで放送された<br />
「さようなら六代目三遊亭円楽」という番組を聞いて気づいたことです。</p>
<p>この番組は伊集院さんの深夜ラジオと円楽師匠のラジオで共にディレクターを務め、<br />
この２年ほどでお二人の距離をより縮めた立役者ともいえる金子陽平さんの企画です。</p>
<p>伊集院さんがMCとして円楽師匠のラジオでの様子を振り返ったり、<br />
円楽師匠の兄弟子でもある三遊亭好楽師匠をゲストに思い出を噛み締めました。</p>
<p>円楽師匠というと笑点と伊集院さんの師匠というイメージが主であった私にとっては、<br />
番組内で紹介されたエピソードは、温かみや気遣いや厳しさなど、<br />
円楽師匠のお人柄がつたわってくるものばかりでした。</p>
<h2>伊集院さんの言葉</h2>
<p>そして、１時間の番組も終盤に差し掛かり、伊集院さんはその胸中を吐露します。</p>
<p>「これで吹っ切れたような気がします。」</p>
<p>番組を終始明るく、かつ丁寧に進行してきた伊集院さんですが、<br />
ご逝去の瞬間はもちろん、お別れ会でも受け止めきれなかったと語ります。</p>
<p>しかし、ご自身が落語をやめて選んだ道でであり、<br />
師匠との縁を新たに結んだラジオブースでそのご遺徳を偲ぶことで、<br />
ある種の恩返しというか、伊集院さんなりの供養ができた瞬間だったのでしょう。</p>
<p>お二人の間でしかわからない様々な思いの中には、負い目や申し訳なさや後悔もあったのかもしれません。</p>
<p>当然、ご自身にとっての絶対の存在である円楽師匠が亡くなってしまったというショックもあったでしょう。</p>
<p>しかし、ご自身の選んだ道が、師匠から受けた恩に報いるものになったことで、<br />
伊集院さんにしかできない供養となり、それによって吹っ切れることができたのかもしれません。</p>
<h2>恩に報いることができる幸せ</h2>
<p>この伊集院さんの言葉を聞いた時、一つ気づいたことがありました。</p>
<p>それは、私たち僧侶はかなりわかりやすい形で、故人に対して恩返しと呼べるようなことができるということです。</p>
<p>お葬式や法事など、僧侶は自分の生きる道が故人を偲ぶことと直結していて、<br />
供養をした手応えとでもいいましょうか、そうした実感のようなものがあります。</p>
<p>一方でほとんどの方は、伊集院さんのような芸事や表現の世界でもない限り、<br />
ご自分の仕事や生活や道というものが直接供養とは結びつきにくいのではないでしょうか。</p>
<p>そこで改めて意味を見出したのが、『修証義』の第五章「行持報恩」の一節です。</p>
<blockquote><p>唯当に日日の行持、其報謝の正道なり。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div>『修証義』「行持報恩」</div>
</div>
</blockquote>
<p>仏道の上に行われる一つ一つの行いをこそが、恩に報いる正しい道なのだーー。</p>
<p>平たく言えばこのような意味ですが、私はもう少しこれを広げて、<br />
故人を背負って歩む道が、そのまま恩に報いる道である、と捉えています。</p>
<p>恩を返すのではなく、恩に報いる。</p>
<p>その道は一人一人の日々の行いの中にこそある、とするならば、<br />
伊集院さんのような方や我々僧侶だけでなく、だれもが日々を供養にすることができるはずです。</p>
<p>むしろ、日々の行いの一つ一つが供養になるように、と願って行われることにこそ、<br />
生きていくための教えとして仏教が真価を発揮すると思います。</p>
<p>この、全ての「道」が供養になりうることを伝えるのは、<br />
僧侶として非常に重要な責任であることに、今回気づくことができました。</p>
<h2>生き様を供える</h2>
<p>そして伊集院さんは、番組をこう締めました。</p>
<p>「六代目三遊亭円楽の弟子、伊集院光でした。」</p>
<p>それは、廃業した伊集院さんに<br />
「お前が尊敬を忘れてないならおれはお前の師匠だ」<br />
と語った円楽師匠に対する、伊集院さんが最後に手向けた言葉のようでした。</p>
<p>その思いや意思を胸に、いつまでも弟子として生きていくという決意を聞き、<br />
私は円楽師匠が伊集院さんの中で成仏した瞬間を見たような気がしました。</p>
<p>内面をよく見つめる方は、時折仏教書よりも明確にお釈迦様の教えを体現してくれることがあります。</p>
<p>まさにそんな、供養とは、成仏とはこういうことだと教えられた、素晴らしい放送でした。</p>
<p>改めて六代目円楽師匠、ありがとうございました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、円楽師匠は曹洞宗で得度しておられた縁で、大本山總持寺制作の動画にも出演されています。</p>
<p>よろしければご覧ください。</p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/F52QUR_yrOw" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><br />
&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8710/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>人は無常に泣いて無常に笑う</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8471</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8471#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Sep 2022 15:00:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[彼岸]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8471</guid>

					<description><![CDATA[諸行無常。 仏教という教えの大前提となる４つの柱、四法印のうちの一つです。 諸行とは存在のことで、無常とは常が無い、つまり常に移ろい変化するということです。 無常というあり方は、日本ではよく儚さや哀愁と結びつけられます。 『平家物語』の「諸…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>諸行無常。</p>
<p>仏教という教えの大前提となる４つの柱、四法印のうちの一つです。</p>
<p>諸行とは存在のことで、無常とは常が無い、つまり常に移ろい変化するということです。</p>
<p>無常というあり方は、日本ではよく儚さや哀愁と結びつけられます。</p>
<p>『平家物語』の「諸行無常の響きあり」の言葉は代表的な例ですね。</p>
<p>以前も触れた内容に近いものではありますが、<br />
今回は人が無常によって救われていることについてのお話です。</p>
<p>過去記事</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3013" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="人は無常に泣いて無常に笑う"></div><div class="title">「諸行無常＝儚い」ではないという話</div><div class="date">2019.9.11</div><div class="substr">祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声　諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。 沙羅双樹さらそうじゅの花の色　盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。 法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた『平家物語』の冒頭の一説。 「諸行無常」という言葉は、仏教の根本であり大前提で...</div></a></div>
<h2>お彼岸のお手伝いでの話</h2>
<p>今回お伝えしたいことは、供養に携わるようになってから強く感じたことではありました。</p>
<p>そして先日のお彼岸にそれを再確認したのでここに書かせていただきます。</p>
<h3>新しいお位牌</h3>
<p>私は4~5年前から春と秋のお彼岸にあるお寺のお手伝いをさせていただいてます。</p>
<p>春秋ともにお彼岸の入りの日に町内の棚経をさせていただくのですが、<br />
一日でだいたい90軒ほどのお檀家さんおお家を周ります。</p>
<p>軒数が多いのでなかなかゆっくりお話しもできないのですが、<br />
回数を重ねるうちに少しずつ顔も覚えていただけるようになりました。</p>
<p>昨年の秋だったでしょうか。</p>
<p>いつも親切にしてくださるお家のお仏壇に位牌とお写真が増えていました。</p>
<p>写真に映っているのは幼い男の子。</p>
<p>聞いてみると、不慮の事故で亡くなってしまったとのことでした。</p>
<p>少し目を離した隙に、しかもお家で起こった出来事だっただけに、<br />
悔やんでも悔やみきれないご様子でした。</p>
<p>そこにいらっしゃったのお祖母様で、私にはかける言葉もありませんでした。</p>
<p>しかし帰る直前に、今年の春に弟が生まれるから今はその無事を願うだけです、<br />
とおっしゃってくれました。</p>
<h3>今年の秋</h3>
<p>そして先日、今年の秋もお彼岸の棚経のお手伝いに伺いました。</p>
<p>順番にお家を周ってお昼を過ぎた頃、そのお家に着きました。</p>
<p>玄関を開けるまで、不安で仕方がありませんでした。</p>
<p>あんなに悲しいことがあった後なのだから、どうか無事に生まれていてくれ！<br />
と祈るつもりでチャイムを押し、玄関を開けていただき、お家に足を踏み入れます。</p>
<p>その瞬間、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。</p>
<p>なんだか自分まで救われたような気がしながら、<br />
お仏壇に手を合わせ、お経を唱えました。</p>
<p>お経を終えて振り返ると、お祖母様だけでなく、<br />
赤ちゃんを抱いたお母さんも一緒にそこにいらっしゃいました。</p>
<p>今年の四月に無事に生まれた男の子は、全身を使って私の方に手を伸ばしていました。</p>
<p>「こんなこと珍しいね」と言われながら、赤ちゃんに指を握られ、<br />
私は心底嬉しく、安心し、感謝すら覚えました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8474" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>無常だからこその救い</h2>
<p>この数ヶ月の間に、私が心から幸せを願っている友人2人の元にそれぞれ新たな命が誕生しました。</p>
<p>どちらもブログや法話に登場したことのある2人ですが、本当に2人ともいい奴なので、<br />
そんな人が報われていると自分にとっても救いになります。</p>
<p>特に1人は、決して簡単とはいえない道のりを少しずつ、誠実に歩いてきました。</p>
<p>理不尽な辛い思いをして、かける言葉がないこともありました。</p>
<p>確かに、不幸や悲劇は無常であることによって起こります。</p>
<p>生老病死は、無常によって起こり、コントロールしきれない現象です。</p>
<p>その中で悲しい思いをする方がいるのがこの世界の理ともいえるでしょう。</p>
<p>幼いお子さんが亡くなるのも、無常によって起こった出来事です。</p>
<p>しかし同時に、新たな命が生まれることもまた、無常による出来事なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8475" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>無常の中での供養</h2>
<p>時々、三十三回忌まで供養が必要なのか？という議論を目にすることがあります。</p>
<p>正直なところ、亡くなってすぐに故人と関係を結び直し、<br />
仏様として受け止められるなら四十九日で十分ともいえるかもしれません。</p>
<p>しかし、人の心はそう単純ではありません。</p>
<p>故人との関係が深いほど別れは辛く、別れ方によっては受け入れ難いものになります。</p>
<p>ただ、そんな心もまた無常です。</p>
<p>四十九日、百箇日、一周忌と時間を経て、どんな方向だとしても心は変化します。</p>
<p>辛さが増してしまうこともあるかもしれないし、<br />
少しずつ故人が遺してくれたものに目が向くようになるかもしれません。</p>
<p>その心の変化が、少しでも良い方向に向かうためのお手伝いをするのが法事であり、<br />
僧侶の勤めだと、私は思っています。</p>
<p>変えること自体はできなくても、きっかけになりうるものが、仏教にはあると信じているからです。</p>
<p>そしてそう思えるのもまた、この世界が無常であるからに他ならないのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8475" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>無常とは、変化をするという性質のことで、良し悪しを感じるのは私たちの心です。</p>
<p>実は私たちは無常に泣かされているだけでなく、救われてもいるのではないでしょうか。</p>
<p>これが仏教の大前提としてあるからこそ、供養が成り立つともいえるでしょう。</p>
<p>この秋、私自身が無常であることによって救われて、その思いを新たにしました。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8471/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8459</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8459#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 22 Sep 2022 21:30:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8459</guid>

					<description><![CDATA[本日、9月23日は令和4年度の秋分の日。 秋のお彼岸のお中日です。 お彼岸については、 といった、彼岸会の受け止め方をテーマにした記事（筆者：しんこう）や、 あるいは、 といった、お彼岸のお供え物として定番の「おはぎ・ぼたもち」をテーマにし…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>本日、9月23日は令和4年度の秋分の日。</p>
<p>秋のお彼岸のお中日です。</p>
<p>お彼岸については、</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6928" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/名称未設定_4.1.1-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">報地はどこにある？〜お彼岸にちなんで〜</div><div class="date">2021.3.19</div><div class="substr">スポンサードリンク 2021年になって早三ヶ月。 今年も春のお彼岸を迎えました。 お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。 私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。 まさにこれを書いている前日がその...</div></a></div>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3069" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/IMG_4943_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">彼岸はどこにある？〜現代的な彼岸会との向き合い方〜</div><div class="date">2019.9.18</div><div class="substr">スポンサードリンク 今週は、日本全国で秋のお彼岸を迎えます。 お墓参りやお寺での法要に参加される方も多いはず。 そこで、今回はより有意義にお彼岸を迎えられる、彼岸会との向き合い方についてのお話です。 そもそもお彼岸ってなんぞや 「彼岸」って何？ お彼岸は、正式には彼岸会といい、実は日本だけで行われて...</div></a></div>
<p>といった、彼岸会の受け止め方をテーマにした記事（筆者：しんこう）や、</p>
<p>あるいは、</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/4866" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/たいとるぼたもち-150x150.png" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">ぼたもちとむさぼり</div><div class="date">2020.3.23</div><div class="substr">スポンサードリンク 今年の３月20日は春のお彼岸の中日でした。 禅活の久保田も、地元北海道の滝上町に帰り、お彼岸の法要をつとめてまいりました。 毎年お寺で行われる法要は、お正月、お彼岸、お盆、花祭り、などありますが、 久保田は子どもの頃からお彼岸が楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。 その理由は…...</div></a></div>
<p>といった、お彼岸のお供え物として定番の「おはぎ・ぼたもち」をテーマにした記事（筆者：ちしょー）を上げてきました。</p>
<p>今回は、ちしょーが自分自身にとっての秋の彼岸会を語っていきます。</p>
<h2>なんか、いい、お彼岸</h2>
<p>その地域や、それぞれのお寺の事情などによって回数や規模は変わりますが、</p>
<p>お寺では一年間に様々な行持をとり行います。</p>
<p>秋のお彼岸もその一つ。</p>
<p><strong>何を隠そう、数あるお寺の行持の中で、私ちしょーが一番好きなものはこの「秋の彼岸会」</strong>に他なりません。</p>
<p>その理由をご紹介いたします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まずは、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>・気候的にとても過ごしやすい時期であること</strong></span></p>
<p>暑さ寒さも彼岸まで、という言葉の通り、寒風酷暑もお彼岸にはひと段落。</p>
<p>時には残暑が厳しいなんてこともありますが、</p>
<p>過ごしやすい時期というのは、体調も調えやすい時期です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>・収穫のシーズンでおいしい野菜が食べられること</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>・おはぎが食べられること</strong></span></p>
<p>食べ物の充実。</p>
<p>これは、自分で食べる分だけではなくて、</p>
<p>ご先祖さまへのお供え物とする際にも、</p>
<p>「美味しいですよ！どうぞ召し上がれ！」</p>
<p>と、気持ちよく捧げることができます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>・せわしない感じがしないこと</strong></span></p>
<p>季節ごとのご先祖供養の中で、もっとも盛大に行われるのは、お盆でしょう。</p>
<p>沢山の人がお寺にやってきて、またほとんど全てのお檀家さんを一軒一軒お伺いするお盆のご供養は、</p>
<p>それはそれで、他とは代えがたい良さがありますが、</p>
<p>一方で、忙しかったり、肉体的な負担も大きかったりします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>秋のお彼岸の時期は、</p>
<p><span class="sc_marker y" style="font-size: 14pt;"><strong>体調や生活が自然と調い、</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y" style="font-size: 14pt;"><strong>落ち着いてご先祖さまのご供養に臨めている、</strong></span></p>
<p>そんな感覚が昔からあり、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;" class="sc_marker red"><strong>「なんか、秋彼岸っていいよなあ」</strong></span>と、感じていました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8464" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>秋彼岸が好きな、本当の理由</h2>
<p>とはいえ、<strong>これらの「秋彼岸がなんか、いい」理由は、もしかすると後付けの理由なのかも</strong>しれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>振り返ると、子どものころの秋彼岸は、</p>
<p>父がお寺の外で働いていたこともあり、</p>
<p>だいたいいつも夕方にお墓参りをして、そのあと家族皆で食事を取るのが通例でした。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>思えば私にとっての秋彼岸は、特別な一家団欒の機会でもあった</strong></span>のでしょう。<span style="font-size: 10pt;">（春彼岸には雪のためにお墓参りができなかった）</span></p>
<p>その<strong>充実感や幸せな印象</strong>が今でも残っていて、</p>
<p>「秋彼岸が好き」という気持ちが強くなっているようにも思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私は、こうした自分自身の経験から、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>ご先祖供養の功徳の一つは、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>一緒に手を合わせることで、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>ご先祖様に向けるあたたかい気持ちを分かち合い、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>人と人の絆が深まること</strong></span>だと感じています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>お彼岸とは、</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>太陽が真西に沈み、昼と夜の長さが釣り合う日。</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>ご先祖様の世界と私たちが生きる世界が、もっとも近づく日</strong></span>と考えられています。</p>
<p>そこでご供養をつとめることが掛け替えのない功徳となるのは、</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>いつもよりご先祖様が身近に感じられる時期だからこそ、</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>ご供養を通じて、人と人のつながりが深まり、絆が強まる</strong></span>ということなんじゃないか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな風に、思えてくるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8463" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>おわりに</h2>
<p>今回は、少々短めの記事となってしまいました。</p>
<p>自分自身の秋彼岸に対する気持ちを書かせていただきましたが、</p>
<p>ご先祖供養、お墓参りは他の何にも代えることのできない、</p>
<p>すばらしい行いだと私は考えています。</p>
<p>お時間がある方はこの機会に、</p>
<p>お香を焚いたり、お供えをしたり、</p>
<p>ご自分にできるご供養を何らかの形にしていただきたいと願っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに……</p>
<p>今回は秋彼岸のお中日ということで、これにちなんだ記事とさせていただきましたが、</p>
<p>先日のライブ配信でいただいたブログや動画の「ネタ」は、</p>
<p>今後少しずつ形にしていきたいと思います！</p>
<p>アイデアをくださった皆様、誠にありがとうございました！</p>
<p>それでは、次回以降もお楽しみに！</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized-300x212.jpg" alt="" width="300" height="212" class="alignnone size-medium wp-image-8462" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized-300x212.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8459/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>弔辞・弔電の意義を考えてみた</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/8444</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/8444#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Sep 2022 21:30:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=8444</guid>

					<description><![CDATA[昨今、コロナ対策で様々なものが規模縮小、時間短縮されています。 それは「効率化」につながる場合もあるのかもしれませんが、 一方で、削られたり、失ったりしてはならないものまでなくなってしまったと感じることもあります。 &#160; 「葬儀にお…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>昨今、コロナ対策で様々なものが規模縮小、時間短縮されています。</p>
<p>それは<strong>「効率化」</strong>につながる場合もあるのかもしれませんが、</p>
<p>一方で、<strong>削られたり、失ったりしてはならないものまでなくなってしまった</strong>と感じることもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「葬儀における弔辞・弔電」</strong></span>もその一つです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最近は、コロナ対策の観点からか、</p>
<p>弔辞が読まれるご葬儀は少なくなってきているように感じます。</p>
<p>また<strong>「コロナ対策の観点から弔電はすべてご芳名のみ読み上げさせていただきます」というケースも</strong>経験したことがあります。</p>
<p>こうした状況は、社会情勢を鑑みて、やむを得ないことであるのかもしれませんが、</p>
<p>私としては残念でなりません。</p>
<h2>弔辞・弔電の大切さ</h2>
<p>弔辞・弔電は、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」</strong></span></p>
<p>掛け替えのない機会です。</p>
<p>こうした機会は<strong>もっと大切にされなければならない</strong>、と感じます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これまでは弔辞・弔電について、僧侶や寺院の方から、</p>
<p>「必ず弔辞を用意してください」</p>
<p>とか、</p>
<p>「弔電はなるべくすべて読んでください」</p>
<p>などとお願いすることは少なく、</p>
<p>喪主の方や葬儀社の方針に任せていることが多かったのではないかと思います。<span style="font-size: 10pt;">（※　推測です。もちろん例外もあると思います。）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、</p>
<p>もしも「弔辞お断り」「弔電はすべて省略」というようなやり方が、</p>
<p>当然のようにまかり通ってしまうのならば、</p>
<p>僧侶、寺院の方から何らかの働きかけをしていく必要が生まれてくるでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それだけ、私は「葬儀における弔辞・弔電」を重要なものと捉えています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8447" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/23215394_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>弔辞・弔電のもう一つの大切な役割</h2>
<p>先ほど、</p>
<p>弔辞・弔電について、</p>
<p>「故人と近しい関係にあった方や、何らかの事情で参列のかなわない方が、ご供養の気持ちをお届けする」</p>
<p>掛け替えのない機会、と書きました。</p>
<p>しかし、私はそれだけではなく、</p>
<p><strong>弔辞・弔電にはもう一つの大切な役割がある</strong>と考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それは、<span style="font-size: 14pt;"><strong>ご葬儀に参列した方々のご供養の気持ちを一つにまとめ上げるということ</strong></span>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>葬儀に参列した方々が抱く気持ちというのは、様々だと思います。</p>
<p>故人との関係性やお付き合いの深さも異なるでしょうし、</p>
<p>誰もがまったく同じ気持ちでいるということはまずありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、<span style="font-size: 14pt;"><strong>言葉には、それだけで人を共感させる力があります</strong></span>。</p>
<p>弔辞・弔電で、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>故人との思い出や、生前のご様子とともに、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>死を惜しみ、悼む気持ちが語られたとき、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>参列する方々の気持ちは、より近しく故人に寄り添います。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>人生の最後を飾る葬儀という場において、</p>
<p><strong>参列した方々のご供養の気持ちをまとめ上げるという役割は、</strong></p>
<p><strong>故人の死を悼む<span style="font-size: 18pt;">「生の言葉」</span>だからこそ果たせる</strong>のではないでしょうか。</p>
<p>実際に私も、弔辞・弔電は、</p>
<p>一字一句聞き洩らさぬようにしています。</p>
<p>そうすることで、自らの気持ちが故人や参列する方がたにより近しく寄り添えると思うからです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに……</p>
<p>これは、私個人の考えですが……</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「弔辞・弔電で寝るくらいなら、お経で寝てくれ！」</strong></span></p>
<p>と思います。</p>
<h2>お経で寝てもいいの？→できれば起きていてください</h2>
<p>たまに、ごくたまにですが……</p>
<p><strong>ご葬儀の際に「いびき」が聞こえてくることがあります。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>それも決まって、「弔辞・弔電」のとき。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もしかするとお経を唱えているときは、自分自身の声でいびきに気が付いていないのかもしれませんが、</p>
<p>なぜか弔辞・弔電（特に弔電の際）に寝ている方が多いように思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>お経で寝てしまうのは……</strong></p>
<p>そりゃあ、なるべくなら起きていてほしいですが、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>ある意味、仕方がない</strong></span>ことだと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>葬儀の際の<strong>お経は故人を安んずるために読まれる</strong>ものですし、</p>
<p><strong>木魚が刻む一定のリズム</strong>や低音で発せられる<strong>読経の声</strong>、</p>
<p>心地よい<strong>鐘の響き</strong>。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>眠くなって当然です。</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>寝てしまったくらいでお経の功徳は減りません</strong>し、</p>
<p><strong>寝てしまっても故人とともに安らかな気持ちになる、と捉えることもできるかも</strong>しれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>しかし、弔辞・弔電は寝ちゃダメなんです！</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>聞いてなきゃ意味がありません！</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>緊張しながらお経を聞いていると、</p>
<p>弔辞・弔電が始まったときにはその気持ちがゆるんで眠くなってしまうのかもしれませんが、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>お経はなるべくリラックスしながら耳を傾け、弔辞・弔電は集中して聞く。</strong></span></p>
<p>こういった心持ちで参列していただきたいと思っています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8446" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24273715_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>こんな弔辞は○○だ。政治家S先生の場合。</h2>
<p>少し話はズレますが、</p>
<p>以前つとめさせていただいた、とある会社の社長さんのご葬儀での弔辞の話をご紹介したいと思います。</p>
<p>そのご葬儀では、弔辞が読まれました。</p>
<p><strong>その弔辞を読んだのは、とある政治家の先生</strong>です。</p>
<p>仮にS先生としておきましょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>地元では大人気で、人を惹きつけるパワーを持ったS先生</strong>の弔辞は、</p>
<p>何と言うか熱がこもっていて、</p>
<p>「ああ、本当に故人のことを想っているんだなあ」</p>
<p>と感じ入るとともに、</p>
<p>「さすが、人たらしとして知られる先生じゃわい」</p>
<p>と感心させられるものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、</p>
<p>弔辞もいよいよ終盤というところになって、S先生が発した言葉に、</p>
<p>私は思わず心の中で、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「ズコー！」</strong></span></p>
<p>とずっこけてしまいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それがどのような発言であったかというと、</p>
<p><strong>「……だからこそ！亡くなられた○○さんと何度も語り合った、<span style="font-size: 18pt;">北方領土返還</span>を私が生きているうちに果たしたい！」</strong></p>
<p><strong>「それをもってご供養としたい！」</strong></p>
<p>というものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>……それは、確かに、S先生にとってはご供養になることなのでしょう。</p>
<p>S先生と故人の間では、それを大きな目標として、信念として共有していたのかもしれません。</p>
<p>しかし、<strong>領土問題という非常に政治的でセンシティヴなことを、</strong></p>
<p><strong>弔辞の場で言ってしまうのはどうなのかなあ、とモヤモヤした気持ちに</strong>なりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>こうした話題は、万人が同じ意見を持つことがなかなか難しい</strong>ものだと思います。</p>
<p>先にも書いたように、</p>
<p>弔辞・弔電は参列者の気持ちをまとめ上げ供養の気持ちを一つにするという役割を担っています。</p>
<p>やはり<strong>共感が難しいという点で、弔辞において述べるには、政治の話題は不適切</strong>だなあ、と感じたのです。</p>
<h2>混ぜるな危険！～〇辞・〇電のNG語り</h2>
<p>政治の話題以外にも、弔辞・弔電には向かない言葉や話題があると思います。</p>
<p>それは、祝辞・祝電でも同様かもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>パッと思いつく限りで言えば、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・必要以上に自分語りをする</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・政治の話題ように利害、損得が絡む話題を交える</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・ジョークの範疇を越えて、恨み言や苦言を呈する</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>・ひたすら長い</strong></span></p>
<p>こんなところでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これらは参列した方の気持ちをまとめ上げるどころではなく、</p>
<p>下手をすると、</p>
<p>言葉を贈られる側への気持ちをバラバラに引き裂く邪悪な雑音となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もし、自分が何かしらのスピーチをさせていただく機会があるとしたら、</p>
<p>こうした雑音には細心の注意を払いたいものです。</p>
<h2>おわりに</h2>
<p>さて、今回は弔辞・弔電の持つ、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「共感」</strong></span>を促すという役割について書かせていただきました。</p>
<p>ここまでは言葉を贈る側の話をしてきましたが、</p>
<p>最後に、その言葉を参列者として聞く側も、しっかりと聞かなければならないということを書いておきたいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>弔辞・弔電あるいは祝辞・祝電の際に、</p>
<p>疲労から眠ってしまうのはまだしも、</p>
<p>スマホをいじったり、パンフレットばかりを読んでいる方は、</p>
<p>これはその式典への<span style="font-size: 18pt;"><strong>「無関心」</strong></span>を表明していることに他ならないと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>供養の場、祝賀の場……</p>
<p><strong>「場」とは、皆で作り上げるもの</strong>です。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>その「場」にいるものは「場づくり」に貢献する義務を負う</strong></span>と私は考えます。</p>
<p>皆が心を一つにして、死者を悼んだり、あるいは門出を迎えた人を祝ったりする場において、</p>
<p>このような態度は、はなはだ不適切であると言わざるを得ません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span class="sc_marker red">ついスマホの通知が気になったり、手元のパンフレットが読みたくなったりというのは、誰にでもあることだとは思いますが、</span></p>
<p><span class="sc_marker red">自分の振る舞いが、その「場」に影響を与えるということをよく踏まえて、</span></p>
<p><span class="sc_marker red">行いをあらためていきたいものです。</span></p>
<p><span class="sc_marker red">（まあ、ずっと集中し続けるのも、その場が堅苦しくなりすぎてしまうと思います。いい塩梅で。）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なんか、今回は、堅く、重めの記事になっちゃいました！</p>
<p>まあ、こんなこともあります！</p>
<p>それではまた次回！</p>
<p>ここまでお読みいただいた皆さま、ありがとうございました！</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/8444/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「危ない終活」を考える</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7638</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7638#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Dec 2021 16:35:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[終活]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=7638</guid>

					<description><![CDATA[広告 終活という言葉を聞くようになってずいぶん経ちました。 その流行はエンディング産業という新たな市場も生まれるほどの、もはや社会現象といえるものです。 いずれやってくる自分の死の瞬間や死後について、整理や準備をしていく終活はには、もちろん…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>広告</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p><strong>終活</strong>という言葉を聞くようになってずいぶん経ちました。</p>
<p>その流行はエンディング産業という新たな市場も生まれるほどの、もはや社会現象といえるものです。</p>
<p>いずれやってくる自分の死の瞬間や死後について、整理や準備をしていく終活はには、もちろん良い点がたくさんあります。</p>
<p>死を恐れ遠ざけるのではなく、いずれやってくるものとして迎え入れる準備をするのは、<br />
仏教的な生き方とも言えるでしょう。</p>
<p>ただし、向き合い方によってはむしろより死を恐れることになりかねなかったり、<br />
残された方を混乱させてしまうことにもなりかねません。</p>
<p>そこで今回は、私が最近気づいた「<span class="sc_marker y">危ない終活</span>」についてのお話です。</p>
<h2>死後のオーダーメイド</h2>
<p>終活ブームの始まりは、少子高齢化社会が叫ばれるようになってからのこと。</p>
<p>当初は子や孫が混乱したり苦労をしないよう、生前に身辺の整理や遺言などの意思表示をしておくことが終活の中心だったようです。</p>
<p>特に高齢でなくてもエンディングノートなどで、万が一の時に必要になる情報を書き留めるなど、<br />
ある種の備えとしても機能していました。</p>
<p>生前葬と呼ばれるものも話題になり、生きている間にお別れを済ませておく、ということも流行しました。</p>
<p>それから年月を経る中で、終活は一大産業となっていきます。</p>
<p>お別れの仕方や生前の墓じまいなどだけでなく、様々な商品やサービスが開発されていきました。</p>
<p>それからでしょうか。</p>
<p>自分の死は自らコンパクトでスマートに収めることが、ある種の「きれいな死に方」であると思われるようになりました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y">自分の死後はこういう送り方で、こういう風に扱ってほしい。</span></p>
<p><span class="sc_marker red">まるで自分の死後をオーダーメイド</span>するかのような、そんな潮流を感じるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7683" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22209732_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>仏教にとっての死の本質</h2>
<p>冒頭で申し上げたように、終活そのものは死と上手に向き合っていく、ある種仏教的な営みといえるでしょう。</p>
<p>しかし、その中で自分の死を自分の理想の形に近づけようという思いが働き始めると、少し話が違ってきます。</p>
<p>仏教では、死は生・老・病と合わせた<span class="sc_marker y">四苦の一つ</span>であると説きます。</p>
<p>たびたびこのブログや動画で触れてきたように、<span class="sc_marker blue">苦というのは単に「苦しい」という意味ではありません</span>。</p>
<p>古いインドの言葉では<span class="sc_marker y">ドゥッカ</span>という言葉が、中国で翻訳された時に「苦」という字が当てられました。</p>
<p>ではこの本来のドゥッカとは、制御が利かない馬のような状態のことで「<span class="sc_marker y">不満足な</span>」といった意味があり、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>コントロールがきかない、思い通りにならないということ</strong></span>なのです。</p>
<p>死苦を「死ぬのは苦しい」という感覚として捉えた場合、これには個人差があります。</p>
<p>しかし<span class="sc_marker red">「死ぬのは思い通りにならない」と言った場合には、全ての人に共通した事実になります</span>。</p>
<p>仮に自ら命を絶った人でも、そこまでの経緯が思い通りのものであったわけではないでしょう。</p>
<p>このように、仏教では死の本質を<span class="sc_marker y">思い通りにならないけれど必ず訪れる</span>というところに見出します。</p>
<p>一方、終活が死後をオーダーメイドするような方向に行きつつあるのはなぜでしょうか。</p>
<p>それは、現代は科学や医療の発達によって、<br />
<strong><span class="sc_marker blue">人間がかなりの範囲のものを思い通りにできるようになってしまったから</span></strong>ではないでしょうか。</p>
<p>多くを思い通りにしたことで、<span class="sc_marker red">どう足掻いても思い通りにならない死への恐怖が、</span><br />
<span class="sc_marker red">むしろ強調されてしまった</span>のではないかと、私は思っています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7682" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/2083556_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>お釈迦様の終活</h2>
<p>お釈迦様は、長きにわたる説法の旅の末、80歳で最期を迎えます。</p>
<p>その様子を記した経典は『<ruby>涅槃経<rt>ねはんぎょう</rt></ruby>』と呼ばれ、成立年代などによっても様々な特徴を持っています。</p>
<p>そんなお釈迦様の最期を記したお経の中に、弟子たちに遺言を残していく様子を描いた<br />
「<span class="sc_marker red"><strong><ruby>遺教経<rt>ゆいきょうぎょう</rt></ruby></strong></span>」と呼ばれるお経があります。</p>
<p>これは、私の実家のお寺ではお通夜の際にお唱えし、故人が残された私たちに最期の教えを説いているという形で、<br />
お釈迦様が弟子たちに遺言を残された最期の瞬間を再現します。</p>
<p>では、お釈迦様はどんなことを仰るかというと、そのほとんどがご自身がいなくなってからの<span class="sc_marker y">弟子たちの生き方に関することなのです。</span></p>
<p>お釈迦様は様々な場面を想定して、弟子たちが後から迷うことがないよう、懇切丁寧に教えを説かれます。</p>
<p>別のお経では、お釈迦様が自分の葬儀に関わるなと仰ったという風にありますが、<br />
それは人生の有限性を示した上で、少しでも弟子たちに修行励んでもらいたい、という親心だったと思われます。</p>
<p>そして最期の最期に、<span class="sc_marker y">もう聞いておきたいことはないかと繰り返し確認をした後、息を引き取ります。</span></p>
<p>お釈迦様は、残される人の生き方を気にかけて、最後まで対話をやめませんでした。</p>
<p>この、<span class="sc_marker red"><strong>弟子たちとの対話、コミュニケーションこそが、お釈迦様の終活だった</strong></span>のではないかと私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7685" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22970841_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>人は一人で死なない</h2>
<p>死後をオーダーメイドするような終活の仕方には、実は特徴があると私は捉えています。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker y"><strong>死を自分一人のものだと思ってしまうということ</strong></span>です。</p>
<p>確かに理屈としては、人は一人で死んでいきます。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker y">人は死ぬ時、関わりのあった人の心の中でも死んでいきます</span>。</p>
<p>仮に私が死んだとしたら、両親の中で息子という私の死があります。</p>
<p>禅活をご覧いただいている方にとっても、禅活のしんこうが死ぬでしょう。</p>
<p>そうやって、関係性の数だけ、人の死はあります。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>死は自分一人だけのものではないのです。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7684" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/12/22700406_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>生き切る終活</h2>
<p>その中で、迷惑をかけたくないという判断だけで、相談もなく墓じまいをしてしまうと、<br />
<span class="sc_marker y">場合によっては残された方は供養したくてもできない、手を合わせる場所もない</span>、ということになってしまいます。</p>
<p>ならば迷惑をかけたくない、という思いではなく、最も良い道を選ぶ。</p>
<p>そのためのコミュニケーションこそが一番重要な終活なのではないでしょうか。</p>
<p>コミュニケーションをとるべき人としっかりとって生き切れば、<br />
死後は残された人たちがその意思を汲み取ってくれるはずです。</p>
<p>「自分の葬式はこうしてくれ」と言わなくても、きっとその通りになると信じていいんです。</p>
<p>逆に言えば、生前の関係性がうまくいかなければ、残された人がその通りしてくれないかもしれません。</p>
<p><span class="sc_marker red">死は思い通りにならないのだから、生き切ることで安心して後を任せるような、</span><br />
<span class="sc_marker red">そんな仏教に基礎に立ち返った終活</span>が見直されてもいいのではないでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/7638/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>法話「人の死をどう受け止めるか」原稿&#038;反省点</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7642</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7642#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Nov 2021 21:30:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[法話]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=7642</guid>

					<description><![CDATA[広告 11月6日に禅活チャンネルで公開した、5分法話「人の死をどう受け止めるか」。 今回は、その原稿を公開し、動画では語り切れなかった反省点をピックアップしていきます！ 起 私たち人間にとって、「死」というテーマは重大で、深刻なものです。 …]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>広告</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
<p>11月6日に禅活チャンネルで公開した、5分法話「人の死をどう受け止めるか」。</p>
<p><iframe title="５分法話「人の死をどう受け止めるか」(&amp;反省会)" width="850" height="478" src="https://www.youtube.com/embed/ewC1B8PEHs8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe></p>
<p>今回は、その原稿を公開し、動画では語り切れなかった反省点をピックアップしていきます！</p>
<h2>起</h2>
<p>私たち人間にとって、「死」というテーマは重大で、深刻なものです。</p>
<p>誰も経験したことがないはずなのに、<br />
自分の死はおそろしく、<br />
他者の死の場合はその方が身近であればあるほど重く、苦しく、心に突き刺さってきます。</p>
<p>この「死」という得体のしれないものについて、<br />
私がお話しできることは「人の死を自分自身がどう受け止めたか」ということです。</p>
<p>そこで今回は、私が僧侶として人の死から学んだことをお話しさせていただきます。</p>
<h2>承</h2>
<p>今年５月のこと、友人から１本の電話を受けました。</p>
<p>「おお、智照。悪いね。親父なんだけどさ、どうも危ないみたいなんだ。<br />
今日明日の話ではないようだけどね。でさ、どうなるかはわかんないんだけど、<br />
もし亡くなったときには葬儀をつとめてくれるか？」</p>
<p>「ああ、オレでいいなら、勿論。」</p>
<p>そんなやり取りを交わして数時間後、「亡くなった」という連絡が届きました。</p>
<p>私自身もそのお父さんからお世話になっていたということがあり、<br />
急な知らせに気持ちの整理がついていませんでした。</p>
<p>急いでご葬儀の準備を進めて、迎えたお通夜の日。</p>
<p>新型コロナの影響も考慮して、連絡も最小限にとどめ家族と近しい親類だけで送るというお話でしたが、<br />
会場には多くの方が弔問に訪れていました。</p>
<p>聞けば、弔問に訪れた方々の多くが、故人の教え子であるとのことでした。</p>
<p>友人のお父さんは教員として定年退職まで勤め上げた方で、<br />
かつての生徒たちが口づてに訃報を聞き、駆けつけてきたそうです。</p>
<p>それぞれが口々に感謝の言葉を述べ、ひたすらに思いを込めてご焼香をされていく姿を見つめながら、<br />
私はその様子を、お釈迦さまが亡くなられた時のお姿に重ね合わせていました。</p>
<h2>転</h2>
<p>お釈迦さまが亡くなられるときの様子を記した、『<ruby><span class="sc_marker red"><strong>仏垂般涅槃略説教戒経</strong></span><rt>ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう</rt></ruby>』というお経があります。</p>
<p><ruby><strong>遺経</strong><rt>ゆいきょう</rt></ruby>また<strong><ruby>遺教経<rt>ゆいきょうぎょう</rt></ruby></strong>とも呼ばれ、２月１５日の<ruby>涅槃会<rt>ねはんえ</rt></ruby>や、亡くなった方の枕経で唱えることの多いお経です。</p>
<p>その内容は、死に瀕したお釈迦さまが、残されるお弟子さま方に対して最後の説法を行うというものです。</p>
<p>お釈迦さまは、そのお命が尽きようとしている最後の最後まで、お弟子さま方に教えを伝えようとなさいました。</p>
<p>お経の最後はこのように結ばれます。</p>
<p><em><strong>「</strong></em><em><strong>汝等、且く止みね。復た語ること得ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す。</strong></em><br />
<em><strong>我滅度せんと欲す。是れ我が最後之教誨する所なり。」</strong></em></p>
<p>これはすなわち、</p>
<p><strong>「弟子たちよ、静かにするがいい。もはや言葉を発してはいけない。</strong><br />
<strong>時はまさに過ぎ去ろうとしている。私はここで死を迎える。これが私の最後の教えである」</strong></p>
<p>というお諭しです。</p>
<p>ここでお釈迦さまがはご自身の死を通して「いのち」のあり方を説かれたのだと私は思います。</p>
<h2>結</h2>
<p>私が、友人のお父さんの葬儀に、お釈迦さまのご最期を重ね合わせていたのは、<br />
その教えを受けた方々は、きっとこれからも受けた教えを胸に、<br />
日々を生きていかれるのだろうと感じたからに他なりません。</p>
<p>亡くなったその人の生きざまや教えが、残された人の胸に宿り、そして人生を生きる支えとなっていく。</p>
<p>これは人の「死」のひとつの真実の姿ではないでしょうか。</p>
<p>だとすれば、人の死を考える際に大切なことは、</p>
<p>死んでどうなるかということ以上に、どのように生き、<br />
どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか。</p>
<p>それは友人のお父さんだけでなく、私自身に問われていることでもあります。</p>
<p>今回は「人の死をどう受け止めるか」についてお話をいたしました。</p>
<p>ご清聴ありがとうございました。</p>
<h2>反省点①</h2>
<p>それでは、反省に参りましょう。</p>
<p>一つ目はこちら。</p>
<p><strong>「人の死を考える際に大切なことは、死んでどうなるかということ以上に、</strong><br />
<strong>どのように生き、どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか」</strong></p>
<p>法話の中でいうと「結」にあたる部分で用いた表現です。</p>
<p>特に、「死んでどうなるかということ以上に」という部分。<br />
ここは別の表現が必要だと思いました。</p>
<p>ここの何が反省点であるのかというと、</p>
<p>周知の通り、日本の仏教には浄土信仰があります。</p>
<p>死後、極楽浄土へ行くことを大切にしている人にとって、</p>
<p>この一文は自分の信仰を軽視されたように思えてしまうのではないか、と感じました。</p>
<p>もちろん、私自身にそのような意図はなかったのですが、安易な比較は危険だと気が付きました。</p>
<p>伝えたいことを強調するために、別の何かと対比するということは、普段何気なく行ってしまうことだと思います。</p>
<p>しかし、どちらかを上げるということは、どちらかが下がるということに繋がります。</p>
<p>それが、決して意図しないものであっても、下げられてしまった方は傷ついてしまうかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、曹洞宗でも、決して死後を軽視しているわけではありません。</p>
<p>この点についても誤解を与えかねない表現だと思いました。</p>
<h2>反省点②</h2>
<p>今回は、原稿をもとに法話をいたしましたが、</p>
<p>書き言葉をそのまま話しているせいか、ぎこちなさが目立ちました。</p>
<p>原稿作成の際、なるべく話し言葉に近づけるようにと気を付けてはいましたが、</p>
<p>どうしても違和感があったと思います。</p>
<p>聞く、ということはかなり負担になる行為なので、</p>
<p>法話という決して短くない時間を「聞いていただく」ためには、もう少し工夫が必要だったと思います。</p>
<h2>おわりに</h2>
<p>これまでにもいろいろな場所で法話をさせていただきましたが、</p>
<p>動画での法話にはまたひとつ工夫が必要だと感じました。</p>
<p>ご視聴いただいている皆さま、いつもありがとうございます。</p>
<p>次回は、しんこうさんの回になりますが、そちらもどうぞお楽しみに。</p>
<p>それでは！</p>
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
		<ins class="adsbygoogle"
     		style="display:inline-block;width:310px;height:280px"
     		data-ad-client="ca-pub-2669743989558143"
     		data-ad-slot="8855209824"></ins>
		<script>
		(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
		</script>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://zenkatsu.site/archives/7642/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
