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	<title>仏教の行事 - 禅活-zenkatsu-</title>
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	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
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	<title>仏教の行事 - 禅活-zenkatsu-</title>
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		<title>娑婆世界にいるという前提</title>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Mar 2023 15:00:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
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					<description><![CDATA[春のお彼岸も今日で終わりを迎えます。 お盆ほど世間の動きに影響しない行事なので、 言われるまで気づかなかった という方もいらっしゃるかもしれません。 私は例年通り、お彼岸の入りの前はお寺の草むしりや掃除をし、 お彼岸に入ってからは山梨と東京…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>春のお彼岸も今日で終わりを迎えます。</p>
<p>お盆ほど世間の動きに影響しない行事なので、<br />
言われるまで気づかなかった<br />
という方もいらっしゃるかもしれません。</p>
<p>私は例年通り、お彼岸の入りの前はお寺の草むしりや掃除をし、<br />
お彼岸に入ってからは山梨と東京のお寺のお手伝いをしてきました。</p>
<p>今回は今年のお彼岸に気づいた、仏教が説く一つの「前提」のお話です。</p>
<h2>この世は辛いもの？</h2>
<p>「彼岸」という言葉は、私たちが普段暮らす「此岸」に対して説かれたものです。</p>
<p>彼の岸、つまり向こうの岸は苦しみのない世界として描かれ、<br />
此の岸は悩み苦しみに耐え忍ばなければならない世界とされます。</p>
<p>この「耐え忍ぶ」という言葉を、古いインドの言葉では「サパー」、<br />
漢字を充てると「娑婆」となり、此岸＝耐え忍ぶ世界＝娑婆世界となります。</p>
<p>つまり仏教は前提としてこの世界を辛いものと捉えているわけです。</p>
<p>しかしそれは悲観的に、ネガティブなわけではなく、<br />
ある意味冷静に、客観的に捉えた結果なのです。</p>
<h2>なぜ娑婆というのか？</h2>
<p>では、なぜお釈迦様は冷静に、客観的に見てこの世界を「娑婆」としてのでしょうか。</p>
<p>それは私たちの人生は自分ではコントロールできないことだらけだからです。</p>
<p>生まれる場所や時代、性別、持って生まれる特性、<br />
老い方やかかる病、そして時期や死因も含めた死に方。</p>
<p>さらには愛着の対象との別れ、嫌悪の対象との出会い、<br />
欲しいものが手に入るか否か、そして感覚器官の働き。</p>
<p>生まれてから死ぬまでが思い通りにならないことだらけで、<br />
それに悩まされ、苦しめられるのが人生です。</p>
<p>そんな中で一時的に叶ったいくつかの願望や、<br />
辛くはない出来事を幸せと呼んだりするのかもしれません。</p>
<h2>娑婆だからこそ</h2>
<p>ただし、「娑婆に生まれたのは運が悪かった、諦めるしかない」<br />
というのが仏教ではありません。</p>
<p>辛く苦しいからこそ自分のあり方を考えることができる、<br />
コントロールは聞かなくても舵をとることはできる、<br />
ならば死というゴールが辛いものにならないように舵をとろう！<br />
というのが仏教だと、私は捉えています。</p>
<p>曹洞宗の『修証義』には「願生此娑婆国土しきたれり」という、<br />
法華経の一節を引用した箇所があります。</p>
<p>お釈迦様の教えに出会い生き方を見つめるために、<br />
願ってこのこの辛く苦しい世界に生まれたんだ、<br />
という意味の言葉です。</p>
<p>「生まれてきてよかった」と思える人は、<br />
時代を遡るほど少なかったはずです。</p>
<p>食べ物がない、争いが絶えない、<br />
救いのない世の中に生まれた人たちもまた、<br />
「願って生まれたんだ」と自分に言い聞かせていたのでしょう。</p>
<p>生まれることがコントロールできないからこそ、<br />
自分の意思で生まれてきたんだ！ということが、<br />
人生を歩み始めてしまったこと受け止める智慧だったとも考えられます。</p>
<p>つまり、仏教にとっては生まれたこの世界や人生というのは、<br />
思い通りにならないが故に苦しみ、耐えなければならないもので、<br />
だからこそ安らかであるための教えが光るということになるのです。</p>
<h2>みんな娑婆を生きている</h2>
<p>ここからがお彼岸の話。</p>
<p>この２月から、私はお葬式や法事、お彼岸のお手伝いを通して、<br />
色んな方の悲しみや辛さ、悩みに接してきました。</p>
<p>ご身内の突然の死に悲しむ方、<br />
時間は経てど傷が癒えない方、<br />
弱っていくペットの姿に心を痛める方、<br />
形や事情は違えど、誰もが何かしらの辛さ苦しさを抱えていました。</p>
<p>そんな中で、思い出したのが、経典にあるキサーゴータミーの話です。</p>
<p>お釈迦様が立ち寄ったある村で、<br />
亡くなった赤ちゃんを抱えたキサーゴータミーという女性が<br />
「どうかこの子を生き返らせてください」と懇願してきました。</p>
<p>そこでお釈迦様は<br />
「死人を出したことのない家から芥子粒をもらってきたら生き返らせることができますよ」<br />
というと、キサーゴータミーは早速村中を探し回ります。</p>
<p>しかし、死人を出したことのない家などありません。</p>
<p>誰もが死や別れを経験しながら生きている、<br />
自分だけに起きた出来事ではないことに気付いたキサーゴータミーは出家をし、<br />
後に立派な尼僧になりました。</p>
<p>このお話の重要なところは、キサーゴータミーが<br />
誰もが同じ苦しみの中で生きていると気づいたことでしょう。</p>
<p>人というのは大きな悲しみや困難に直面すると、<br />
「なんで私ばかり…」「私が今世界で一番辛い」<br />
と思ってしまうものです。</p>
<p>そうすると人のことが妬ましく思たり、<br />
心から差し伸べられた手やかけれられた言葉を<br />
振り払ってしまったりします。</p>
<p>だれもが何かしらの悲しみ苦しみを抱えているという前提は、<br />
自分の生き方と同時に他者を見る目も変えるのもしれません。</p>
<h2>此岸の中にある彼岸</h2>
<p>曹洞宗ではそんな前提の上で、<br />
この娑婆世界を此岸を彼岸にしていこうと説きます。</p>
<p>みんなが辛い世界だからこそ少し周囲のことを考え合う中に、<br />
生きながら彼岸を現前させていくのです。</p>
<p>どう足掻いても辛い世界なのだから、<br />
辛さを無視せずに、辛さ由来の安らかさを求めていく、<br />
彼岸会にはそんな生きる智慧があるのかもしれません。</p>
<p>現実を見る仏教だからこそ、この世界は娑婆であり、<br />
娑婆だからこそ彼岸がある。</p>
<p>そんな風に考えると、「みんなで娑婆に生まれたんだ！」<br />
という前提は非常に大切なことなのではないかと、このお彼岸に思いました。</p>
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		<title>人は無常に泣いて無常に笑う</title>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Sep 2022 15:00:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[彼岸]]></category>
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					<description><![CDATA[諸行無常。 仏教という教えの大前提となる４つの柱、四法印のうちの一つです。 諸行とは存在のことで、無常とは常が無い、つまり常に移ろい変化するということです。 無常というあり方は、日本ではよく儚さや哀愁と結びつけられます。 『平家物語』の「諸…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>諸行無常。</p>
<p>仏教という教えの大前提となる４つの柱、四法印のうちの一つです。</p>
<p>諸行とは存在のことで、無常とは常が無い、つまり常に移ろい変化するということです。</p>
<p>無常というあり方は、日本ではよく儚さや哀愁と結びつけられます。</p>
<p>『平家物語』の「諸行無常の響きあり」の言葉は代表的な例ですね。</p>
<p>以前も触れた内容に近いものではありますが、<br />
今回は人が無常によって救われていることについてのお話です。</p>
<p>過去記事</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3013" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="人は無常に泣いて無常に笑う"></div><div class="title">「諸行無常＝儚い」ではないという話</div><div class="date">2019.9.11</div><div class="substr">祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声　諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。 沙羅双樹さらそうじゅの花の色　盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。 法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた『平家物語』の冒頭の一説。 「諸行無常」という言葉は、仏教の根本であり大前提で...</div></a></div>
<h2>お彼岸のお手伝いでの話</h2>
<p>今回お伝えしたいことは、供養に携わるようになってから強く感じたことではありました。</p>
<p>そして先日のお彼岸にそれを再確認したのでここに書かせていただきます。</p>
<h3>新しいお位牌</h3>
<p>私は4~5年前から春と秋のお彼岸にあるお寺のお手伝いをさせていただいてます。</p>
<p>春秋ともにお彼岸の入りの日に町内の棚経をさせていただくのですが、<br />
一日でだいたい90軒ほどのお檀家さんおお家を周ります。</p>
<p>軒数が多いのでなかなかゆっくりお話しもできないのですが、<br />
回数を重ねるうちに少しずつ顔も覚えていただけるようになりました。</p>
<p>昨年の秋だったでしょうか。</p>
<p>いつも親切にしてくださるお家のお仏壇に位牌とお写真が増えていました。</p>
<p>写真に映っているのは幼い男の子。</p>
<p>聞いてみると、不慮の事故で亡くなってしまったとのことでした。</p>
<p>少し目を離した隙に、しかもお家で起こった出来事だっただけに、<br />
悔やんでも悔やみきれないご様子でした。</p>
<p>そこにいらっしゃったのお祖母様で、私にはかける言葉もありませんでした。</p>
<p>しかし帰る直前に、今年の春に弟が生まれるから今はその無事を願うだけです、<br />
とおっしゃってくれました。</p>
<h3>今年の秋</h3>
<p>そして先日、今年の秋もお彼岸の棚経のお手伝いに伺いました。</p>
<p>順番にお家を周ってお昼を過ぎた頃、そのお家に着きました。</p>
<p>玄関を開けるまで、不安で仕方がありませんでした。</p>
<p>あんなに悲しいことがあった後なのだから、どうか無事に生まれていてくれ！<br />
と祈るつもりでチャイムを押し、玄関を開けていただき、お家に足を踏み入れます。</p>
<p>その瞬間、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。</p>
<p>なんだか自分まで救われたような気がしながら、<br />
お仏壇に手を合わせ、お経を唱えました。</p>
<p>お経を終えて振り返ると、お祖母様だけでなく、<br />
赤ちゃんを抱いたお母さんも一緒にそこにいらっしゃいました。</p>
<p>今年の四月に無事に生まれた男の子は、全身を使って私の方に手を伸ばしていました。</p>
<p>「こんなこと珍しいね」と言われながら、赤ちゃんに指を握られ、<br />
私は心底嬉しく、安心し、感謝すら覚えました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8474" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3190-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>無常だからこその救い</h2>
<p>この数ヶ月の間に、私が心から幸せを願っている友人2人の元にそれぞれ新たな命が誕生しました。</p>
<p>どちらもブログや法話に登場したことのある2人ですが、本当に2人ともいい奴なので、<br />
そんな人が報われていると自分にとっても救いになります。</p>
<p>特に1人は、決して簡単とはいえない道のりを少しずつ、誠実に歩いてきました。</p>
<p>理不尽な辛い思いをして、かける言葉がないこともありました。</p>
<p>確かに、不幸や悲劇は無常であることによって起こります。</p>
<p>生老病死は、無常によって起こり、コントロールしきれない現象です。</p>
<p>その中で悲しい思いをする方がいるのがこの世界の理ともいえるでしょう。</p>
<p>幼いお子さんが亡くなるのも、無常によって起こった出来事です。</p>
<p>しかし同時に、新たな命が生まれることもまた、無常による出来事なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8475" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>無常の中での供養</h2>
<p>時々、三十三回忌まで供養が必要なのか？という議論を目にすることがあります。</p>
<p>正直なところ、亡くなってすぐに故人と関係を結び直し、<br />
仏様として受け止められるなら四十九日で十分ともいえるかもしれません。</p>
<p>しかし、人の心はそう単純ではありません。</p>
<p>故人との関係が深いほど別れは辛く、別れ方によっては受け入れ難いものになります。</p>
<p>ただ、そんな心もまた無常です。</p>
<p>四十九日、百箇日、一周忌と時間を経て、どんな方向だとしても心は変化します。</p>
<p>辛さが増してしまうこともあるかもしれないし、<br />
少しずつ故人が遺してくれたものに目が向くようになるかもしれません。</p>
<p>その心の変化が、少しでも良い方向に向かうためのお手伝いをするのが法事であり、<br />
僧侶の勤めだと、私は思っています。</p>
<p>変えること自体はできなくても、きっかけになりうるものが、仏教にはあると信じているからです。</p>
<p>そしてそう思えるのもまた、この世界が無常であるからに他ならないのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-8475" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1024x768.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-1536x1152.jpeg 1536w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/IMG_3720-min-2048x1536.jpeg 2048w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>無常とは、変化をするという性質のことで、良し悪しを感じるのは私たちの心です。</p>
<p>実は私たちは無常に泣かされているだけでなく、救われてもいるのではないでしょうか。</p>
<p>これが仏教の大前提としてあるからこそ、供養が成り立つともいえるでしょう。</p>
<p>この秋、私自身が無常であることによって救われて、その思いを新たにしました。</p>
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		<item>
		<title>秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた</title>
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		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 22 Sep 2022 21:30:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
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					<description><![CDATA[本日、9月23日は令和4年度の秋分の日。 秋のお彼岸のお中日です。 お彼岸については、 といった、彼岸会の受け止め方をテーマにした記事（筆者：しんこう）や、 あるいは、 といった、お彼岸のお供え物として定番の「おはぎ・ぼたもち」をテーマにし…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>本日、9月23日は令和4年度の秋分の日。</p>
<p>秋のお彼岸のお中日です。</p>
<p>お彼岸については、</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6928" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/名称未設定_4.1.1-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">報地はどこにある？〜お彼岸にちなんで〜</div><div class="date">2021.3.19</div><div class="substr">スポンサードリンク 2021年になって早三ヶ月。 今年も春のお彼岸を迎えました。 お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。 私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。 まさにこれを書いている前日がその...</div></a></div>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3069" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/IMG_4943_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">彼岸はどこにある？〜現代的な彼岸会との向き合い方〜</div><div class="date">2019.9.18</div><div class="substr">スポンサードリンク 今週は、日本全国で秋のお彼岸を迎えます。 お墓参りやお寺での法要に参加される方も多いはず。 そこで、今回はより有意義にお彼岸を迎えられる、彼岸会との向き合い方についてのお話です。 そもそもお彼岸ってなんぞや 「彼岸」って何？ お彼岸は、正式には彼岸会といい、実は日本だけで行われて...</div></a></div>
<p>といった、彼岸会の受け止め方をテーマにした記事（筆者：しんこう）や、</p>
<p>あるいは、</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/4866" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/たいとるぼたもち-150x150.png" width="150" height="150" alt="秋のお彼岸を思い出とともに語ってみた"></div><div class="title">ぼたもちとむさぼり</div><div class="date">2020.3.23</div><div class="substr">スポンサードリンク 今年の３月20日は春のお彼岸の中日でした。 禅活の久保田も、地元北海道の滝上町に帰り、お彼岸の法要をつとめてまいりました。 毎年お寺で行われる法要は、お正月、お彼岸、お盆、花祭り、などありますが、 久保田は子どもの頃からお彼岸が楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。 その理由は…...</div></a></div>
<p>といった、お彼岸のお供え物として定番の「おはぎ・ぼたもち」をテーマにした記事（筆者：ちしょー）を上げてきました。</p>
<p>今回は、ちしょーが自分自身にとっての秋の彼岸会を語っていきます。</p>
<h2>なんか、いい、お彼岸</h2>
<p>その地域や、それぞれのお寺の事情などによって回数や規模は変わりますが、</p>
<p>お寺では一年間に様々な行持をとり行います。</p>
<p>秋のお彼岸もその一つ。</p>
<p><strong>何を隠そう、数あるお寺の行持の中で、私ちしょーが一番好きなものはこの「秋の彼岸会」</strong>に他なりません。</p>
<p>その理由をご紹介いたします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まずは、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>・気候的にとても過ごしやすい時期であること</strong></span></p>
<p>暑さ寒さも彼岸まで、という言葉の通り、寒風酷暑もお彼岸にはひと段落。</p>
<p>時には残暑が厳しいなんてこともありますが、</p>
<p>過ごしやすい時期というのは、体調も調えやすい時期です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>・収穫のシーズンでおいしい野菜が食べられること</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y"><strong>・おはぎが食べられること</strong></span></p>
<p>食べ物の充実。</p>
<p>これは、自分で食べる分だけではなくて、</p>
<p>ご先祖さまへのお供え物とする際にも、</p>
<p>「美味しいですよ！どうぞ召し上がれ！」</p>
<p>と、気持ちよく捧げることができます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue"><strong>・せわしない感じがしないこと</strong></span></p>
<p>季節ごとのご先祖供養の中で、もっとも盛大に行われるのは、お盆でしょう。</p>
<p>沢山の人がお寺にやってきて、またほとんど全てのお檀家さんを一軒一軒お伺いするお盆のご供養は、</p>
<p>それはそれで、他とは代えがたい良さがありますが、</p>
<p>一方で、忙しかったり、肉体的な負担も大きかったりします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>秋のお彼岸の時期は、</p>
<p><span class="sc_marker y" style="font-size: 14pt;"><strong>体調や生活が自然と調い、</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y" style="font-size: 14pt;"><strong>落ち着いてご先祖さまのご供養に臨めている、</strong></span></p>
<p>そんな感覚が昔からあり、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;" class="sc_marker red"><strong>「なんか、秋彼岸っていいよなあ」</strong></span>と、感じていました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8464" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24668548_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>秋彼岸が好きな、本当の理由</h2>
<p>とはいえ、<strong>これらの「秋彼岸がなんか、いい」理由は、もしかすると後付けの理由なのかも</strong>しれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>振り返ると、子どものころの秋彼岸は、</p>
<p>父がお寺の外で働いていたこともあり、</p>
<p>だいたいいつも夕方にお墓参りをして、そのあと家族皆で食事を取るのが通例でした。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>思えば私にとっての秋彼岸は、特別な一家団欒の機会でもあった</strong></span>のでしょう。<span style="font-size: 10pt;">（春彼岸には雪のためにお墓参りができなかった）</span></p>
<p>その<strong>充実感や幸せな印象</strong>が今でも残っていて、</p>
<p>「秋彼岸が好き」という気持ちが強くなっているようにも思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私は、こうした自分自身の経験から、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>ご先祖供養の功徳の一つは、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>一緒に手を合わせることで、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>ご先祖様に向けるあたたかい気持ちを分かち合い、</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>人と人の絆が深まること</strong></span>だと感じています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>お彼岸とは、</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>太陽が真西に沈み、昼と夜の長さが釣り合う日。</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>ご先祖様の世界と私たちが生きる世界が、もっとも近づく日</strong></span>と考えられています。</p>
<p>そこでご供養をつとめることが掛け替えのない功徳となるのは、</p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>いつもよりご先祖様が身近に感じられる時期だからこそ、</strong></span></p>
<p><span class="sc_marker y"><strong>ご供養を通じて、人と人のつながりが深まり、絆が強まる</strong></span>ということなんじゃないか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな風に、思えてくるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-8463" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/24593129_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>おわりに</h2>
<p>今回は、少々短めの記事となってしまいました。</p>
<p>自分自身の秋彼岸に対する気持ちを書かせていただきましたが、</p>
<p>ご先祖供養、お墓参りは他の何にも代えることのできない、</p>
<p>すばらしい行いだと私は考えています。</p>
<p>お時間がある方はこの機会に、</p>
<p>お香を焚いたり、お供えをしたり、</p>
<p>ご自分にできるご供養を何らかの形にしていただきたいと願っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに……</p>
<p>今回は秋彼岸のお中日ということで、これにちなんだ記事とさせていただきましたが、</p>
<p>先日のライブ配信でいただいたブログや動画の「ネタ」は、</p>
<p>今後少しずつ形にしていきたいと思います！</p>
<p>アイデアをくださった皆様、誠にありがとうございました！</p>
<p>それでは、次回以降もお楽しみに！</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized-300x212.jpg" alt="" width="300" height="212" class="alignnone size-medium wp-image-8462" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized-300x212.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2022/09/22454149_s_optimized.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7794</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7794#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 15:36:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お通夜]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[涅槃会]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
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					<description><![CDATA[2月15日はお釈迦様に関する三つの行事、三仏忌の一つ涅槃会ねはんえです。 涅槃会とはお釈迦様のご命日のことで、これが曹洞宗のお通夜に通じているというお話は、過去にした通りです。 今回は、コロナ禍で省略されるケースも増えてきたお通夜が、 実は…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><strong>2月15日</strong>はお釈迦様に関する三つの行事、三仏忌の一つ<ruby><span class="sc_marker red"><strong>涅槃会</strong></span><rt>ねはんえ</rt></ruby>です。</p>
<p><span class="sc_marker y">涅槃会とはお釈迦様のご命日</span>のことで、これが<span class="sc_marker red">曹洞宗のお通夜に通じている</span>というお話は、過去にした通りです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/4556" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="曹洞宗だからこそ大切にしたいお通夜の話"></div><div class="title">【２/１９法話】最後の説法を胸に〜涅槃会に学ぶお通夜の心〜</div><div class="date">2020.2.21</div><div class="substr">新宿四ツ谷の東長寺さんで毎月開催している【一行写経と法話の会】も今回を入れて残すところ２回。 今回は私西田が法話を担当させていただきました。 涅槃会からお通夜の心について考えてみます。 お釈迦様の涅槃 本日は先週二月十五日、お釈迦様の御命日である仏涅槃会ぶつねはんえについてのお話をさせていただきます...</div></a></div>
<p>今回は、コロナ禍で省略されるケースも増えてきたお通夜が、<br />
実は曹洞宗だからこそ意義深くて、大切にしたいお勤めであるというお話です。</p>
<p>禅宗なのにお通夜を大切にするその理由について考えてみましょう。</p>
<h2>お通夜と涅槃会</h2>
<p>まずはお通夜について簡単に確認しておきましょう。</p>
<p>お通夜は、お釈迦様のご最期、<span class="sc_marker red">涅槃に入られた時のご様子が由来となった法要</span>です。</p>
<p>お釈迦様は周りを囲むお弟子様たちにご遺言を遺し、<br />
<span class="sc_marker y"><strong>「私の死にゆく姿が最後の説法だからよく見ておきなさい」</strong></span>と仰って最期を迎えられました。</p>
<p>その夜お弟子様たちは<span class="sc_marker red">夜通しお釈迦様の遺され教えを確認し合い、</span><span class="sc_marker red">お釈迦様亡き後の歩む道を定められた</span>のです。</p>
<p>この「夜通し教えを確認し合った」ということが元となって、私たちはお通夜を営みます。</p>
<p><span class="sc_marker red">亡くなった方をお釈迦様</span>として、<span class="sc_marker y">ご遺族は遺された弟子</span>たち、<br />
そして<span class="sc_marker blue">僧侶はご遺言として故人に代わってお経を唱えます</span>。</p>
<p>お通夜とはまさに、<strong>個人をお釈迦様に見立てた涅槃の再現</strong>なのです。</p>
<div id="attachment_4596" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><img aria-describedby="caption-attachment-4596" loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-300x300.jpg" alt="" width="300" height="300" class="size-medium wp-image-4596" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-300x300.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min-150x150.jpg 150w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/Buddhas_Nirvana-min.jpg 550w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /><p id="caption-attachment-4596" class="wp-caption-text">高野山金剛峯寺所蔵</p></div>
<h2>曹洞宗とお通夜</h2>
<p>では私が、曹洞宗こそお通夜を大切にすべきと思う理由はどこにあるかというと、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>曹洞宗がどこまでもお釈迦様を大切にする宗派</strong></span>だからです。</p>
<p>これは他の宗派が大切にしていない、ということではありません。</p>
<p>曹洞宗の教えを伝えた<span class="sc_marker y">道元禅師は、どこまでもお釈迦様を仰ぎ、敬い、慕った方</span>でした。</p>
<p>お釈迦様が覚られた姿であるから、坐禅をすること自体がさとりであり、<br />
修行とさとりは一つ「<ruby><span class="sc_marker red">修証一等</span><rt>しゅしょういっとう</rt></ruby>」なのだ、と説かれましたし、<br />
食事作法や洗面にいたるまで、<span class="sc_marker red"><strong>生活の一つ一つをお釈迦様のように行うことが、曹洞宗の修行</strong></span>です。</p>
<p>道元禅師は<span class="sc_marker y">ご自身をお釈迦様と重ねることを突き詰めていった方</span>、と言ってもいいでしょう。</p>
<p>その徹底ぶりは、そのご最期からもうかがえます。</p>
<p>道元禅師の遺された『<ruby>正法眼蔵<rt>しょうぼうげんぞう</rt></ruby>』という87巻の書物の最終巻は、タイトルを「<ruby><strong>八大人覚</strong><rt>はちだいにんがく</rt></ruby>」といいます。</p>
<p>これは、100巻を目指して執筆されていたものが体調が優れず、最期を悟って書かれた一巻です。</p>
<p>ではその最期の一巻でどんな言葉を遺されたのかというと、<br />
実はほとんどがお釈迦様のご遺言のお経『<ruby><strong>仏垂般涅槃略説教誡経</strong><rt>ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう</rt></ruby>』の引用なのです。</p>
<p>八大人覚というのは、お釈迦様がご自身の死後、<br />
お弟子様たちがしっかりと仏道を歩めるように遺された８つの心構えのことで、<br />
<span class="sc_marker y">道元禅師はこれを引用してご自身のご遺言とされました</span>。</p>
<p>それまで、日本の歴史にも名を残すような教えや言葉を記してきた道元禅師が、<br />
最期の最期でなぜ、ご自身の言葉を遺さなかったのでしょうか。</p>
<p>それは、<strong><span class="sc_marker red">ご自身の最期すらもお釈迦様と重ね、お釈迦様のように人生を締めくくろうという、</span></strong><br />
<strong><span class="sc_marker red">道元禅師の信仰の姿がそこにあったから</span></strong>なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-4593" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_0881-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>禅宗なのに？</h2>
<p>曹洞宗は、臨済宗、黄檗宗と共に、坐禅を信仰の中心に置く、禅宗に分類されます。</p>
<p>そのため、坐禅をする宗派なんだからお通夜や葬儀、<br />
供養をするのはおかしいという意見が内外から聞こえることもあります。</p>
<p>よく考えてみましょう。</p>
<p>曹洞宗が坐禅をするのは、お釈迦様のように在るためです。</p>
<p>そしてその信仰の先に、お釈迦様の最期にちなんだお通夜をお勤めする。</p>
<p>これほど意義深いことはあるでしょうか。</p>
<p>禅宗だから坐禅をしていればいいのではなく、<br />
<span class="sc_marker red"><strong>坐禅をするからこそお通夜に深い意義を見出す</strong></span>のだと、私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-4594" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/02/IMG_2541-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>これから先の未来に</h2>
<p>現在、コロナ禍において葬儀を一日にまとめたり、簡略にするケースも増えています。</p>
<p>それは葬儀の場で感染者を出したくないという、ご遺族や関係業者さんのお気持ちとしては当然のことだと思います。</p>
<p>ただ、一度安易に省略してしまったら、今後情勢が変わった時に、<br />
「お通夜は省略してもいいものだ」となってしまわないでしょうか。</p>
<p>これはお通夜を省略していいか悪いかの話ではありません。</p>
<p>曹洞宗としてお葬式をするならば、今一度お通夜の意味を見直し、ご遺族が故人を仏様として<br />
関係を結び直すためのその「心」だけでもお伝えるする必要があるのではないでしょうか。</p>
<p>曹洞宗の信仰の上にお葬式が営まれるならば、<br />
ご遺族、葬儀社、そして我々僧侶も、お通夜の心を忘れずにいたいものです。</p>
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		<title>意外と知らない7月盆と8月盆の違い</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7257</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 22 Jul 2021 16:35:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お盆]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
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					<description><![CDATA[先日、私のライフワークでもある「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いていた時のこと。 パーソナリティであるオードリーの若林さんがこんな出来事をお話ししていました。 ある日奥様が、若林さんの亡くなったお父上のお盆参りをしたいと仰ったことか…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>先日、私のライフワークでもある「<span class="sc_marker red">オードリーのオールナイトニッポン</span>」を聴いていた時のこと。</p>
<p>パーソナリティであるオードリーの若林さんがこんな出来事をお話ししていました。</p>
<p>ある日奥様が、若林さんの亡くなったお父上のお盆参りをしたいと仰ったことから、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong><span class="sc_marker y">「ところでお盆って７月と８月どっちだっけ？」</span></strong></span>という話になったそう。</p>
<p>若林さんは夏休みにランニングで迎え火を焚いた記憶を頼りに「８月じゃなかった？」というと、</p>
<p>奥様は周囲の方々やスーパーのお盆用品特集をエビデンスとして７月説を強く主張。</p>
<p>若林さんはご自身の夏休みの記憶との間で揺れるも、７月ということで一応の納得をされたそうです。</p>
<p>このブログの読者様ならもうご存知でしょう。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red">若林さん、７月と８月、どっちもお盆ありますよー！</span></strong></p>
<p>７月にお盆の供養を行う地域と８月に行う地域があることから、七月盆・八月盆という言葉もあります。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">七月盆は毎年7/13~17</span></strong></p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">八月盆は毎年8/13~17</span></strong></p>
<p>と、<span class="sc_marker y">日付は毎年固定でちょうど一ヶ月違いのお盆がある</span>のです。</p>
<p>ただし、なぜ七月盆の地域と八月盆の地域があるのか、それを説明できる方は少ないのではないでしょうか。</p>
<p>そこで今回は、<span class="sc_marker y">七月盆と八月盆の違い</span>についてのお話しです。</p>
<h2>お盆の起源</h2>
<p>私は２年ほど前にこのブログで５回にわたって、お盆という仏教行事について記事を書いたことがあります。</p>
<p>なので、行事の由来や意味に関する詳細はそちらをご覧いただくとして、今回は七月盆と八月盆の違いに絞ってお話しします。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/155" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/DSC_8649-min_Fotor-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="意外と知らない7月盆と8月盆の違い"></div><div class="title">お盆ってどんな行事なの？〜お経から学ぶ由来と意味〜 vol.1</div><div class="date">2019.6.30</div><div class="substr">スポンサードリンク 七月十三日、東京などの都市部をはじめ、一部の地域では一ヶ月早い「迎え盆」に入ります。 これは、お盆の由来が説かれたお経に出てくる旧暦の七月十五日のお盆の中日の、日付をそのまま採用したか、今の暦に合わせて八月十五日にしたかで生まれた違いです。 実際のところ、旧暦を今の暦に合わせて八...</div></a></div>
<p>お盆というのは正式名称を「<strong><ruby>盂蘭盆会<rt>うらぼんえ</rt></ruby></strong>」といい、その起源となる『仏説盂蘭盆経』というお経があります。</p>
<p>このお経の中で、後に盂蘭盆会と呼ばれる供養が行われたが<span class="sc_marker y"><strong>7月15日</strong></span>でした。</p>
<p>7月15日というのは、修行僧が一箇所に止まって行った３ヶ月間の修行の最終日にあたる日でもあります。</p>
<p>このお経にならって、<strong><span class="sc_marker red">お盆という行事はこの7月15日を中日として、13日から17日までの5日間でお勤めされる</span></strong>ようになりました。</p>
<p>つまり、元々はお盆は<span class="sc_marker y">7月に行われるのがベーシック</span>だったということですね。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2541-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2733" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2541-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2541-min-768x513.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2541-min-1024x684.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/IMG_2541-min.jpg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>なぜ8月盆が生まれたのか？</h2>
<p>では、なぜその後一ヶ月違いの８月盆が生まれたのでしょうか。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その原因は２つあります。</span></p>
<h4>原因①旧暦と新暦の違い</h4>
<p>日本では1873(明治5)年12月2日まで、月の満ち欠けと太陽の動きを暦の基準とした太陰太陽暦を採用していました。</p>
<p>これが旧暦です。</p>
<p>ところが同年12月3日から太陽の動きを基準とした太陽暦を採用したことで、1873年12月3日が明治6年1月1日となり、新暦となったのです。</p>
<p>…とは言ったものの、<span style="font-size: 14pt;">わかりづらい！</span></p>
<p>要するに、日本はそれまで西洋諸国と暦の数え方が違っていて、<span class="sc_marker y">その差を埋めたことで季節的には一ヶ月分暦が早まってしまった</span>ということです。</p>
<p>立春が寒いうちにあったりするのも同じ理由です。</p>
<p>七夕も、旧暦の７月７日は今の８月７日にあたる時期なので、梅雨ではなく星がよく見えた季節だった、ということになります。</p>
<p>これをお盆に当てはめた時、<strong>新暦の7月15日という<span class="sc_marker red">「日付」</span>に合わせるか</strong>、</p>
<p><strong>旧暦を変換した8月15日という<span class="sc_marker red">「時期」</span>に合わせるか</strong>という選択肢が生まれたのです。</p>
<p>そこで、決め手になったのが２つめの原因です。</p>
<h4>原因②地域と産業</h4>
<p><span class="sc_marker y">新暦の7月というと、稲作や農業が盛んな地域では繁忙期になります</span>。</p>
<p>そのため、そうした地域では<span class="sc_marker red">繁忙期を過ぎた8月という「時期」を優先した</span>のです。</p>
<p>逆に、そうした<span class="sc_marker red">農業への影響がない都市部などでは新暦に変わっても7月という「日付」を基準</span>としました。</p>
<p>こうして七月盆と八月盆という２つのお盆が誕生したのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22033716_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7261" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22033716_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22033716_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>生活に合わせたらいいじゃない！</h2>
<p>そんな経緯で生まれた二つのお盆。</p>
<p>これは、<span class="sc_marker y">地域の生活に合わせて、一番ゆっくりお勤めできる時期を選んだ結果</span>ともいえるでしょう。</p>
<p>私の地元栃木県は8月盆で、13日の迎え盆には親戚も集まってお墓参りに来られます。</p>
<p>ところが、お仕事によっては行楽シーズンにはお休みを取れない方もいらっしゃり、ご家族が残念そうにしておられることもあります。</p>
<p>読者の皆様の中にも、<span class="sc_marker blue">お盆にお参りができず心苦しい思いをされたことのある方</span>はいらっしゃるでしょう。</p>
<p>ましてやこの社会情勢では帰省そのものがハードルの高いものとなってしまいました。</p>
<p>そうした理由で7月や8月のお盆にお参りができないことにお悩みの方は、ご自身の生活に合わせてまた改めてゆっくりとお盆のご供養をされるのも、いいのかもしれません。</p>
<p>7月盆と8月盆があるのは<span class="sc_marker red"><strong>、供養をする時期と生活のバランスをとった、先人達の柔軟な対応の証</strong></span>でもあるのではないでしょうか。</p>
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		<title>お葬式は誰を救う？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Mar 2021 15:21:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[戒名]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[葬儀]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 前回はお彼岸にちなんで、回向文などに出てくる「報地」はどこにあるのか、ということについてお話ししました。 今回はこれに関連する内容で、お葬式についてのお話です。 私の最近の体験をもとに、お葬式は誰を救うものなのかというこ…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>前回はお彼岸にちなんで、回向文などに出てくる「報地」はどこにあるのか、ということについてお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6928" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/名称未設定_4.1.1-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="お葬式は誰を救う？"></div><div class="title">報地はどこにある？〜お彼岸にちなんで〜</div><div class="date">2021.3.19</div><div class="substr">スポンサードリンク 2021年になって早三ヶ月。 今年も春のお彼岸を迎えました。 お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。 私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。 まさにこれを書いている前日がその...</div></a></div>
<p>今回はこれに関連する内容で、<strong>お葬式についてのお話</strong>です。</p>
<p>私の最近の体験をもとに、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>お葬式は誰を救うものなのか</strong></span>ということについて、考えてみたいと思います。</p>
<h2>とある体験</h2>
<p>まだ住職にはなっていない私ですが、週末は実家のお寺に帰って法事のお手伝いをしています。</p>
<p>基本的にはお葬式が済み、四十九日以降の御供養をお勤めすることが多いのですが、時々「<strong>授戒</strong>」をお勤めすることがあります。</p>
<p>この授戒とは在家檀信徒の方が仏教徒として行う授戒のことではありません。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>なんらかの事情があって、お葬式やお戒名の授与を行えなかった故人への授戒</strong></span>です。</p>
<p>本当に事情は様々で、そこに触れることはできませんが、これは先日お勤めした授戒のお話です。</p>
<p>その方にはお寺としても非常にお世話になったこともあり、師匠と私と伯父、３名の僧侶で授戒をすることになりました。</p>
<p>法要にはご遺族のみの参列で、本堂にて授戒・お位牌の開眼などをお勤めいたします。</p>
<p>お焼香には幼いお孫さんも出られて、それを見守るお施主さんは非常に嬉しそうでした。</p>
<p>そして一通りのお勤めが終わり、師匠が「葬儀とは？供養とは？」ということについてお話しをすると、<span class="sc_marker blue">堰を切ったようにお施主さんをはじめご遺族が涙をこぼしはじめました。</span></p>
<p>後から師匠に聞いたところでは、<span class="sc_marker blue">亡くなるのも急だったうえ、お葬式もきちんとできなかったことに対して、ご遺族はひどく心を痛めていた</span>そうです。</p>
<p>そして授戒の後、ご遺族は心にのしかかっていた重しが取れたように、泣いてお礼をいいながら、お寺を後にされました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6946" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4128-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>誰が、誰を救うのか</h2>
<p>一般にお葬式、正確には通夜と葬儀は、<span class="sc_marker red">故人を仏様にする儀式</span>と認識されます。</p>
<p>曹洞宗に限った話で言えば、<strong>故人は葬儀の中で髪を剃り、戒を受けて仏道修行に入る</strong>という言い方をします。</p>
<p>ただ、少なくとも私には、<strong><span class="sc_marker blue">葬儀中に故人様がお坊さんになって修行をしている姿や、仏像のような仏様になった姿は見えていません。</span></strong></p>
<p>そのため、誤解を恐れずに言えば、<strong>儀式をお勤めしただけでは故人が救われたかどうかは私にはわからないのです</strong>。</p>
<p>しかし、私にも見えるものがあります。</p>
<p>それは<span style="font-size: 14pt;">ご遺族の表情</span>です。</p>
<p>別れの辛さや不条理さへの怒り、あるいは生前の関係への後悔など、様々な思いがあるでしょう。</p>
<p>しかしそれでも、お葬式という儀式を通してお見送りをしたという一つの安心が、表情や言葉の端々に表れることがあります。</p>
<p>当然、すぐに納得ができた、諦めがついたという方はほとんどいらっしゃいません。</p>
<p>ただ、「お見送り」をしたという事実に、<span class="sc_marker red">最後に故人に尽くすことができたという安心</span>があるのです。</p>
<p>私は、今回の授戒によって救われたのは、お葬式が出来なかったことに心を痛めていたご遺族だったように見えました。</p>
<p>そして、<strong>ご遺族が救われ、お一人お一人の心の中で仏様となった時、初めて故人が救われる</strong>のだと、思うようになったのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6945" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4118-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>誰がために誰がためもなく</h2>
<p>時々、葬儀とは遺族のためか故人のためか、という議論を見かけることがあります。</p>
<p>私の師匠は葬儀の際、ご遺族に<strong>「供養とは<span class="sc_marker red"><ruby>存亡<rt>そんもう</rt></ruby>共に救われるもの</span>です」</strong>というお話をします。</p>
<p>それは、生き死にに関係なく、<span class="sc_marker red"><strong>一つの儀式を通してそこに携わった全ての人がそれぞれの形で救われるものであるということ</strong></span>です。</p>
<p>ご遺族にはご遺族の、ご友人ならご友人の、それぞれの立場から<span class="sc_marker y">故人との関係を結び直して、自分を導いてくれる仏様にする儀式</span>。</p>
<p>それが葬儀なのだと私は捉えています。</p>
<p>そして、忘れてはならないのが、<span style="font-size: 14pt;">私たち僧侶も葬儀をお勤めすることで救われている</span>ということです。</p>
<p>故人を仏様として受け止めていくことはもちろん、僧侶という道を選び、それを必要とされることで、仏道を歩むことができます。</p>
<p>故人もご遺族も参列者も、僧侶も葬儀社の方も、全ての人が何かしらの形で救われる儀式として、葬儀は存在しているのではないか、そんな風に感じています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6947" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-768x513.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min-1024x684.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/IMG_4137-min.jpeg 1616w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>お葬式のこれから</h2>
<p>コロナ禍にあって、お葬式は大幅な縮小や家族葬、あるいは直接火葬場というケースが増えてきました。</p>
<p>また、様々な企業の参入によって、お葬式にも手軽さ、目新しさを求める空気が流れているようにも感じます。</p>
<p>個人的には、変化はあって然るべきだし、色々な形があっていいと思います。</p>
<p>ただ、お釈迦様をお送りした時に習ってお勤めされる伝統的なお葬式には、どのような意味があったのか、失ってはいけない部分はどこか、そこは抑えておかなれければならないのではないでしょうか。</p>
<p>故人を救うためにまずは遺族を救えるものになるように努め、それによって私たち僧侶や葬儀社さんも救われる、存亡共に救われる葬儀がお勤めできるように精進したいと近頃切に思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<item>
		<title>報地はどこにある？〜お彼岸にちなんで〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6928</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 18 Mar 2021 16:36:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 2021年になって早三ヶ月。 今年も春のお彼岸を迎えました。 お彼岸は春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間の日本独自の仏教行事です。 私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝い…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>2021年になって早三ヶ月。</p>
<p>今年も春のお彼岸を迎えました。</p>
<p>お彼岸は<strong>春分・秋分の日をお中日とした前後３日間、計一週間</strong>の日本独自の仏教行事です。</p>
<p>私はこのお彼岸の初日、入りの日にはご縁があって山梨のお寺での棚経のお手伝いをさせていただいています。</p>
<p>まさにこれを書いている前日がその棚経の日で、今年も１日で約90軒のお家でお勤めをさせていただきました。</p>
<p>棚経は、そのお宅のお仏壇や祭壇の前でお経をあげるお勤めですが、お経の後には必ず、そのお経を何のためにお唱えしたか、を申し上げる「<strong><ruby>回向<rt>えこう</rt></ruby></strong>」もお唱えします。</p>
<p>その回向でかなりの確率で登場する言葉が、今回のテーマ「<strong><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><ruby>報地<rt>ほうち</rt></ruby></span></strong>」です。</p>
<p>口が勝手に動くようになるくらい、何度もお唱えしたこの「報地」。</p>
<p>「<span class="sc_marker y">仏様のいらっしゃる場所」という意味のこの言葉を、どう受け止めていくか私なりに考えていきます。</span></p>
<h2>報地を荘厳す</h2>
<p>曹洞宗の回向にかなりの高確率で登場する<span class="sc_marker red"><strong>「報地を<ruby>荘厳<rt>しょうごん</rt></ruby>す」</strong></span>の一説。</p>
<p>報地というのは曹洞宗が好む言い回しなのか、<span class="sc_marker red">『仏教語大辞典』では「報土」として掲載されており、意味としては<strong>「仏様の住む土地」</strong>のことです。</span></p>
<p>修行をした結果、その修行に応じてそれぞれの報土を持って、安住する場所、といったところでしょうか。</p>
<p>つまり、回向でお唱えする「報地を荘厳す」というのは、<span class="sc_marker red"><strong>「ご供養の対象である仏様のいらっしゃる場所を功徳によって彩る」</strong></span>といった意味になります。</p>
<p>ただ、<span class="sc_marker blue">私はこの目で見えない世界の話を雰囲気的に納得しなくてはいけない感じがどうも苦手</span>で、自分がお檀家さんだったら納得いっていなかったような気がします。</p>
<p>では、報地というものをどう解釈すると、より生き方に活かしやすいものになるのでしょうか。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/Mandala1_detail-min-260x300.jpeg" alt="" width="260" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-6930" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/Mandala1_detail-min-260x300.jpeg 260w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/03/Mandala1_detail-min.jpeg 541w" sizes="(max-width: 260px) 100vw, 260px" /><br />
（画像出典：<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85">Wikipedia</a>)</p>
<h2>棚経での出来事</h2>
<p>今年で３年目になる山梨での棚経ですが、毎回お昼頃に伺うお宅があります。</p>
<p>そちらでは、お昼ご飯といえるくらいお茶や食べ物を出して下さって、必然的に色んなお話を伺うことになります。</p>
<p>そして昨年の春、そのお宅の女性が、私にこんなことを尋ねてくださいました。</p>
<p>「最近妹が亡くなってしまったんだけど、生まれ変わったりするんですかね、どこに行っちゃうんですかね。」</p>
<p>その方は、生まれてずっと一緒に育ってきて、この先も同じように時を過ごすと思っていた妹さんの死を、どう受け止めていいか、どう諦めていいかがわからないというご様子でした。</p>
<p>曹洞宗では、葬儀によって故人を仏様とし、生まれ変わりといったことは説きません。</p>
<p>ではその仏様となった妹さんがどこにいらっしゃるかというと、それは<span class="sc_marker red">遺された方お一人お一人の心の中</span>です。</p>
<p>ありきたりな言い方にはなってしまいますが、仏様として見る人の心に、仏様は存在しているのです。</p>
<p>私がそのような旨のことをお伝えすると、その方も<strong>「どこかに遠くに行っちゃったわけじゃないんですね」</strong>と納得し、ご安心いただけたようでした。</p>
<p>そして、自分でお話をしておきながら、私自身も妙に納得がいったのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/5379d90c9d03dae875fd0327083ad293_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-4975" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/5379d90c9d03dae875fd0327083ad293_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/5379d90c9d03dae875fd0327083ad293_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>報地の在り処</h2>
<p>私はこの、<strong>仏様のいらっしゃる心の中を「報地」というのではないか</strong>と思っています。</p>
<p>遺された私たちが、先に旅立っていった方を葬儀や法事を通して少しずつ仏様として受け止め直し、</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>「あなたに導かれて、良い生き方をしようと前に進んでいますよ」</strong></span>という、</p>
<p>人生という修行の成果こそが報地なのではないかと、私は思うのです。</p>
<p>辞書の意味をそのまま受け取れば、〇〇という戒名の仏様がどこかにいて、その方が守っている場所が報地という風に捉えてしまいますし、その方が画は思い浮かぶでしょう。</p>
<p>しかし実際には、<span class="sc_marker y">生前の関係によって、一人の仏様も人によって色んな受け止め方があります</span>。</p>
<p>私にとっては優しかった祖父が、父にとっては厳しい存在であったように、生前の人間関係や立場によって、その仏様から学ぶことは異なります。</p>
<p>そう考えた時、報地というのはなにも一箇所、一つの場所を指すのではなく、その仏様を思う人の数だけ、心の数だけ存在するものなのではないでしょうか。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red">仏様と私たち一人一人の心の合流地点</span></strong>、と言ってもいいかもしれません。</p>
<p>仏様とお一人お一人の間にあるからこそ、法事やお彼岸といったお勤めを通して、一つ一つの報地が功徳によって彩られますように、と回向をするのが、私たち僧侶なのではないでしょうか。</p>
<p>これはあくまでも個人的な見解で、学問的な裏付けがあるわけではありません。</p>
<p>しかし、自分の心の中にお一人お一人の仏様との報地があると思うことで、よりご供養というものが自分事となっていくのではないかと、私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/IMG_0223_Fotor-min-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-4959" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/IMG_0223_Fotor-min-300x225.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/IMG_0223_Fotor-min-768x576.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/IMG_0223_Fotor-min-1024x768.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>【坐禅コラム#13】YouTube Liveで摂心をやってみた！</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6637</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6637#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Dec 2020 15:00:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[坐禅(座禅)]]></category>
		<category><![CDATA[オンライン坐禅]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[坐禅(座禅)コラム]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://zenkatsu.site/?p=6637</guid>

					<description><![CDATA[スポンサードリンク 12月。 臘月ろうげつとも呼ばれるこの月の8日、お釈迦様はお覚さとりを開かれました。 このため、12月8日は成道会じょうどうえという、世界中の仏教徒にとって特別な日になります。 特に、禅宗である曹洞宗は、お釈迦様のお覚り…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>12月。</p>
<p><ruby>臘月<rt>ろうげつ</rt></ruby>とも呼ばれるこの月の8日、お釈迦様はお<ruby>覚<rt>さと</rt></ruby>りを開かれました。</p>
<p>このため、<span class="sc_marker y"><strong>12月8日は<ruby>成道会<rt>じょうどうえ</rt></ruby></strong></span>という、世界中の仏教徒にとって特別な日になります。</p>
<p>特に、禅宗である曹洞宗は、お釈迦様のお覚りを自分たちが実践するという形で追慕するため、一週間の集中坐禅期間、<ruby><span class="sc_marker y"><strong>摂心</strong></span><rt>せっしん</rt></ruby>を設けます。</p>
<p>そしてこの成道会にちなんだ摂心を、臘月の8日にちなんで、<span class="sc_marker red"><strong><ruby>臘八摂心<rt>ろうはつせっしん</rt></ruby></strong></span>といい、修行道場はもちろん、世界中の曹洞宗の僧侶が朝から晩まで坐禅をするのです。</p>
<p>私がいた永平寺では一週間の間、<span style="text-decoration: underline;">3時半に起床してから夜９時まで、合計7時間以上の坐禅</span>をしました。</p>
<p>当然これは楽なものではなく、初日の夜には膝や腰が痛かったことを覚えています。</p>
<p>あれから5年。</p>
<p>東京で過ごす私は、この臘八摂心の期間に坐禅をすることはほとんどなく、法話やコラムの原稿を書いていたらいつの間にか過ぎていた、という状態が続きました。</p>
<p>ところが今年は、思いつきから生まれたYouTubeのライブ配信で、思いがけず素晴らしい時間を過ごすことができました。</p>
<p>今回はそんな、修行道場を離れた私が<strong>YouTube Liveでオンライン摂心を開催したお話</strong>です。</p>
<h2>禅活オンライン坐禅ウィーク</h2>
<p>話は11月末に遡ります。</p>
<p>所属する曹洞宗総合研究センターでの研究発表を控え、禅活メンバー内でその期間は動画やブログの更新は難しいのでは、という話になりました。</p>
<p>じゃあ12月の1〜7日はお休みしましょうか、となった時に、気付きました。</p>
<p><span style="font-size: 18pt;" class="sc_marker red">「やだ！ちょうど臘八摂心じゃない！」</span></p>
<p>そこで思いついたのが、兼ねてよりやってみたかった<strong>YouTube Liveでのライブ配信</strong>でした。</p>
<p>前回の坐禅コラムでオンライン坐禅をやってみた所感を書いてみましたが、Youtubeではライブ配信をできずにいました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/5873" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/07/note-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【坐禅コラム#13】YouTube Liveで摂心をやってみた！"></div><div class="title">【坐禅(座禅コラム)】#12 オンラインで坐禅で気づいたこと〜インスタ・YouTube・zoomを比較してみた〜</div><div class="date">2020.7.31</div><div class="substr">スポンサードリンク 坐禅についてあれこれ考えてお伝えしてきたこちらのコラム。 前回はお家で坐禅をする時にオススメのクッションなどをご紹介しました。 さて、今日で7月も終わり、緊急事態宣言が出てから丸４ヶ月が過ぎようとしています。 これまで毎月のワークショップが活動の中心だった禅活-zenkatsu-...</div></a></div>
<p>そして、調べてみると<span class="sc_marker y">Zoomの有償版を契約していたら、Zoomの画面をそのままYouTube Liveで配信できる</span>そうな！</p>
<p>ということは、禅活メンバーも各自の家で坐禅ができるし、他の和尚様方にご参加いただけるのでは！？</p>
<p>これはやるしかない！と思った私は前日にメンバーに相談(というかほぼ告知)し、半ば強引に摂心にちなんだオンラインでの坐禅を実行に移したのでした。</p>
<p>そして、その日の夜に急遽初YouTube Liveで開催の告知をしました。</p>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/E6VYtsxiClw" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<h2>配信中の様子</h2>
<p>今回のオンライン坐禅ウィークは、研究発表当日の7日以外の12/1〜6まで、<span class="sc_marker y">YouTubeとInstagramで交互で１時間ずつ配信</span>することにしました。</p>
<p>Instagramは普段から毎週<strong>「禅スタグラム」</strong>と称して、オンラインの坐禅会を開催しており、こちらはSNS原人の智照さんを除く私と亮道さんは慣れ親しんだ配信方法です。</p>
<p>初日の1日、トップバッターは言い出しっぺの私、稔光。</p>
<p>禅活メンバーがZoom上に集まり、緊張しながらYouTube Liveに接続します。</p>
<p>Zoomを繋いでいるとYoutube上のコメントが見えず、配信とは20秒ほどタイムラグもあるので、手元にタブレットを置いて映像を確認。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker blue">「う、映ってる！」</span></p>
<p>さんざん動画配信をしておきながら、今更ライブ配信画面に驚く私。</p>
<p>そしてもっと驚いたのは、平日の夜にも関わらずあっという間に<span class="sc_marker y">普段のInstagramライブの視聴者数を上回った</span>こと。</p>
<p>禅活はInstagramのフォロワーさんより、Youtubeの登録者さんが多く、これも要因だと思いますが、<span class="sc_marker y">Instagramと違ってアカウントが無くても視聴できるYoutubeの方が敷居が低い</span>のかもしれません。</p>
<p>続々とコメントをいただきながら、身体ほぐし、坐禅の案内へと進み、この日は10分ほど坐禅をして終了。</p>
<p>１時間の視聴者数は<span style="font-size: 14pt;">160名</span>を超え、常時<span style="font-size: 14pt;">40名</span>近い方がご視聴・ご参加くださいました。</p>
<p>これはYouTubeとしては大した数字ではないかもしれません。</p>
<p>しかし、40名近い方々がご参加いただき、途中退出を含めて160名となれば、相当な大規模な坐禅会です。</p>
<p>私が修行していた当時の永平寺でも、全山合わせて150名程度です。</p>
<p>配信なので顔を合わせることはできませんが、何かとてもすごいことをしている気がしました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.11.27-min-300x86.png" alt="" width="300" height="86" class="alignnone size-medium wp-image-6642" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.11.27-min-300x86.png 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.11.27-min-768x221.png 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.11.27-min-1024x295.png 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.11.27-min.png 1680w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<h2>坐禅ってすごい</h2>
<p>そしてそれは、回を追うごとに確信に変わりました。</p>
<p>知り合いの範囲や、関心のありそうな和尚様方をお誘いしたところ、なんとメンバー以外に<strong>最大8名の和尚様方</strong>がご参加下さったのです。</p>
<p>しかも、諸事情で超超レアキャラメンバーの<strong>真大さん</strong>も参加し、世代を超えた僧侶とたくさんの視聴者様と共に、坐禅をすることができました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.10.49-min-300x120.png" alt="" width="300" height="120" class="alignnone size-medium wp-image-6641" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.10.49-min-300x120.png 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.10.49-min-768x308.png 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.10.49-min-1024x410.png 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.10.49-min.png 1678w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>私がそこで感じたのは、<span class="sc_marker y">年齢も性別も国籍も、そしてオンラインでは今いる場所まで超えて、坐禅という時間を共有していることへの感動</span>でした。</p>
<p>新型コロナによって人との距離ができたと思っていましたが、その距離を越えるものが坐禅にはあるのではないか、そう思わされたのでした。</p>
<p>画面に映る、住まいも年齢も違うお坊さん、視聴者さん。</p>
<p>普通に生活をしていたら、さらに言えば新型コロナの流行がなければこんなにたくさんの方とのご縁を感じる機会はなかったでしょう。</p>
<p>私は、<span class="sc_marker red">お釈迦様が坐禅によって縁起という真理を覚られた理由がわかった</span>ような気がしました。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.09.12-min-300x130.png" alt="" width="300" height="130" class="alignnone size-medium wp-image-6639" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.09.12-min-300x130.png 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.09.12-min-768x333.png 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.09.12-min-1024x445.png 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/12/スクリーンショット-2020-12-11-0.09.12-min.png 1654w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>振り返って</h2>
<p>実は、今回の配信に「摂心」というワードを入れなかったのは、<span class="sc_marker blue">時間の短さやYouTube Liveという形式への負い目があったから</span>でした。</p>
<p>修行道場では朝から晩まで、何時間も厳粛にお勤めされている摂心を、この形で名乗っていいのだろうかという、どこからともない後ろめたさが、<strong>「禅活オンライン坐禅ウィーク」</strong>という名称の背景にはありました。</p>
<p>しかし今ははっきりと、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red">あれは摂心であったと胸を張って言えます</span>。</p>
<p>大勢の方と坐禅を共にし、自分がご縁の中で生かされていることを実感したあの時間は、<span class="sc_marker y">今の環境で今の自分だからこそできる摂心だったのです</span>。</p>
<p>今回はZoomやYouTube Liveの機能にも新たな可能性を感じることができ、今後の活動への意欲も一層増しました。</p>
<p>オンライン摂心が無事お勤めできたことも、そこから多くを学ぶことができたのも、全ては視聴者の皆様、ご参加いただいた和尚様方のおかげです。</p>
<p>禅活を代表してお礼申し上げると共に、今後の活動にもぜひご期待いただけますと幸いです。</p>
<p>Special Thanks(順不同)</p>
<p><span>浅摩泰真師 </span></p>
<p><span>山内弾正師</span></p>
<p><span>今成健二師</span></p>
<p><span>加藤熙章師 </span><a href="https://twitter.com/moebius1005"><span>https://twitter.com/moebius1005</span></a></p>
<p><span>Shojin-Project　Twitter:<a href="https://twitter.com/shojin_project">https://twitter.com/shojin_project</a><br />
丹羽隆浩師<br />
菊池志門師<br />
山岸弘明師<br />
</span></p>
<p><span>SVA(シャンティ国際ボランティア会) HP:</span><a href="https://sva.or.jp/"><span>https://sva.or.jp/</span></a><span><br />
日比洸紹師<br />
村松清玄師<br />
</span></p>
<p><span>全国曹洞宗青年会</span><a href="https://www.sousei.gr.jp/"><span>https://www.sousei.gr.jp/</span></a><span><br />
菅生泰礼師<br />
</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">視聴＆参加者の皆様</span></p>
<p>&nbsp;</p>
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<p>&nbsp;</p>
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		<title>祖母の一周忌と小さな祥(さいわい)</title>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 12 Nov 2020 15:00:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[供養]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク このブログを書いている今から１年前の2019年11月12日、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた祖母が93でその生涯を閉じました。 そして先日、その命日に先立って身内で一周忌の法事をお勤めしました。 今回はそんな祖母の一…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>このブログを書いている今から１年前の2019年11月12日、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた祖母が93でその生涯を閉じました。</p>
<p>そして先日、その命日に先立って身内で一周忌の法事をお勤めしました。</p>
<p>今回はそんな<strong>祖母の一周忌の法事から学んだこと</strong>をお話しします。</p>
<h2>小祥忌とは？</h2>
<p>昨年、祖母が亡くなった時のことは、私なりの供養として法話にし、ここでもお話しさせていただきました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3782" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="祖母の一周忌と小さな祥(さいわい)"></div><div class="title">【12/4法話】祖母が教えてくれた生き方〜成道会にちなんで〜</div><div class="date">2019.12.6</div><div class="substr">禅活-zenkatsu-で毎月開催している【一行写経と法話の会】も今回で丸一年。 今月は12月4日に開催し、わたくし西田が、成道会じょうどうえにちなんだ法話をさせていただきました。 お釈迦様の苦悩と成道会 今月12月8日は、お釈迦様がお覚さとりを開いた、道を成した日である「成道会」です。 シャカ族の...</div></a></div>
<p>仏教では、<span class="sc_marker red"><strong>旅立つ人の肉体にすがるのではなく、その教えを拠り所に生きていこう</strong></span>、と考えます。</p>
<p>長生きであったとはいえ、祖母との別れは辛いものでしたが、生前に教えてくれたこと、してくれたことを自分の道標としてこの一年を過ごしてきました。</p>
<p>しかし、世の中にはその事実を簡単に受け入れられる別ればかりではないでしょう。</p>
<p>以前、幼い頃に父上を亡くされた方が、「<strong>７年じゃ全然受け入れられないよね</strong>」と仰ったのを聞いた時、死別とは状況や関係性などによって本当に様々な形で人の心に残るのだと、と気づかされたものです。</p>
<p><strong>いつ、どのように、誰に訪れるかわからない、思い通りにならないから「<span class="sc_marker y"><ruby>死苦<rt>しく</rt></ruby></span>」</strong>。<br />
(「苦」は思い通りにならないという意味)</p>
<p>本当にお釈迦様の教えには深く頷かされます。</p>
<p>にも関わらず、死から一年経った一周忌の法要には、このような言い方があります。</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><ruby>小祥忌<rt>しょうじょうき</rt></ruby></span>。</p>
<p>「<ruby>吉祥<rt>きちじょう</rt></ruby>」という言葉があるように、祥という字には「<span class="sc_marker y">幸い</span>」という意味があります。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>辛く悲しい死別から一年で「小さな幸い」だなんて、ずいぶん勝手なことを言ってくれるじゃないかと思ってしまいます。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0593-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3878" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0593-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0593-min-768x512.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0593-min-1024x683.jpeg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0593-min.jpeg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>会食での出来事</h2>
<p>人との別れに、「充分」などということはないのかもしれませんが、私は祖母が亡くなる数日前にお見舞いに行き、手を握って別れることができました。</p>
<p>それでも一年経って幸いと思えるかと聞かれたら、そうとも言えません。</p>
<p>ところが、今回の一周忌の法事で、納得のいく出来事がありました。</p>
<p>ごく身内のみで法事をお勤めし、会食に席でのことです。</p>
<p>父である師匠の音頭で献杯をし、和やかに食事が進みます。</p>
<p>すると師匠が不意に、つい最近結婚した従兄弟夫妻に、挨拶を促しました。</p>
<p>従兄弟は私の２歳年上で、兄弟子でもあります。</p>
<p>そんな従兄弟はさすが僧侶といったところで、突然のキラーパスにも対応してお連れ合いを紹介し、拍手で迎えられました。</p>
<p>そしてその挨拶の後、師匠がこんなことを言いました。</p>
<p><strong>「旅立って欠けていく家族もあれば、こうして新たな家族を迎えることもできる。<span class="sc_marker red">これも諸行無常の理といったところ</span>ですね。」</strong></p>
<p>そう、<span style="color: #ff0000;"><strong>諸行無常であるが故に祖母が旅立った一年後、同じく諸行無常が故に従兄弟が結婚するというご縁をいただけた</strong></span>のです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/76d218726de18a348b6760fbf12965cd_s-min-300x214.jpg" alt="" width="300" height="214" class="alignnone size-medium wp-image-3598" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/76d218726de18a348b6760fbf12965cd_s-min-300x214.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/76d218726de18a348b6760fbf12965cd_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>無常の中に光を見る</h2>
<p>以前、<strong>諸行無常とは悲しい言葉ではなく、あらゆる物事は移り変わっていくという法則のこと</strong>である、というお話をしました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3013" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/8cd090a945d6a6d3b3107eb28265711f_s_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="祖母の一周忌と小さな祥(さいわい)"></div><div class="title">「諸行無常＝儚い」ではないという話</div><div class="date">2019.9.11</div><div class="substr">祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声　諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。 沙羅双樹さらそうじゅの花の色　盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。 法話や本などで、僧侶に使い古されたと言ってもいいくらい使われた『平家物語』の冒頭の一説。 「諸行無常」という言葉は、仏教の根本であり大前提で...</div></a></div>
<p>確かに人は、特に日本人は人との別れや、物事の儚さ感じた時に、諸行無常という言葉が身に染みます。</p>
<p>しかし実は、<span class="sc_marker red"><strong>良い方向に変わることもまた、諸行無常が故に起こる出来事</strong></span>なのです。</p>
<p>そう考えた時、<strong>小祥忌という言葉は単に「一年経ったからもう幸せですよ！」と決めつけるような、押し付けがましいものではない</strong>ということがわかってきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>辛い別れから一年が過ぎ、身の回りに全く変化はなかったでしょうか？</p>
<p>もちろん、気持ちは深く沈んだまま変わりないということはあるかもしれません。</p>
<p>しかし、その一年の間にも季節は巡り、誰もが等しく１歳年をとります。</p>
<p>辛さ悲しさの中で気づかなかったとしても、そうやって世界は日々変化をし続けています。</p>
<p>そ<strong>う考えた時、一年で悲しみが癒えたわけではないけど、今日まで変化しながら生きてきた。</strong></p>
<p><strong>そうやって変化しながらいつかこれを飲み込んで、前を向いて見ようと思える日がくるかもしれません。</strong></p>
<p><strong>諸行無常を生きる中に、そんなわずかな光を見出すこと、それが小さな祥なのではないでしょうか。</strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-1-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3879" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-1-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-1-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-1-1024x683.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/12/DSC_0571_Fotor-min-1.jpg 1620w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>故人が仏様になっていく</h2>
<p>今回、こうして<strong>小祥忌</strong>という別名について考えることができたのは、間違いなく祖母のおかげです。</p>
<p>そうして、<span class="sc_marker red"><strong>生きていた頃とは違った形で、私たちを導いてくれた時、故人は本当の意味で仏様となります</strong></span>。</p>
<p>死別後の日々は、故人を忘れるためのものではありません。</p>
<p>諸行無常の中で少しずつ、自分を導いてくれる仏様として、心の中で育てていく日々です。</p>
<p>法事はその日々の中で、自分と仏様の関係を見つめる儀式なのだと、私は思います。</p>
<p>今回は小祥忌の供養として、祖母が教えてくれたことをお話しさせていただきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
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			</item>
		<item>
		<title>棚経でのご供養を通じて感じたこと</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/5945</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/5945#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[久保田智照]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 09 Aug 2020 15:00:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[お盆]]></category>
		<category><![CDATA[お経]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教の行事]]></category>
		<category><![CDATA[棚経]]></category>
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					<description><![CDATA[8月、夏真っ盛り。 新型コロナウイルスが猛威を振るう中、花火大会、高校野球甲子園大会、盆踊り、夏祭りなど、今年は全国的に多くの「夏の風物詩」が取りやめとなりました。 僧侶が各ご家庭をめぐりながらご先祖供養をする「棚経」も夏の風物詩と言ってい…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>8月、夏真っ盛り。</p>
<p>新型コロナウイルスが猛威を振るう中、<span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">花火大会、高校野球甲子園大会、盆踊り、夏祭りなど、</span><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">今年は全国的に多くの「夏の風物詩」が取りやめとなりました。</span></p>
<p>僧侶が各ご家庭をめぐりながらご先祖供養をする「棚経」も夏の風物詩と言っていいでしょう。</p>
<p>お盆に里帰りし、おじいちゃんおばあちゃんと一緒にお仏壇に手を合わせたという経験をお持ちの方も多いことと思います。</p>
<p><span style="font-size: 16px; background-color: #ffffff;">しかし今年はウイルスの影響から、里帰りをあきらめた方が多いそうです。</span></p>
<p>様々なことが例年通りに行えなくなっている中、ご先祖様へのご供養までもが難しくなってしまっていることを非常に残念に思います。</p>
<p>今回は、これまでに勤めてきた「棚経」でのお檀家さんとのやり取りを通じて久保田が感じたことをお伝えしていきます。</p>
<h2>お仏壇に現れる「やさしさ」</h2>
<p>棚経の際、僧侶は様々なご家庭を訪問します。</p>
<p>初めてうかがうお宅もあれば、いつもお世話になっている方のお宅もあります。</p>
<p>その中で久保田がいつも感じているのが、お檀家さんの<span style="font-size: 14pt;"><strong>「やさしさ」</strong></span>です。</p>
<p>「やさしさ」と言っても、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「おやつをくれたからあの人はやさしい！」</strong></span>とか</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「お茶を淹れてくれたからあの人はやさしい！」</strong></span>という、</p>
<p>僧侶に対する「やさしさ」の話ではありません。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>その「やさしさ」とは、お仏壇と相対したときにわかる「ご先祖様への想い」です。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/646538_s-min-217x300.jpg" alt="" width="217" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-5947" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/646538_s-min-217x300.jpg 217w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/646538_s-min.jpg 463w" sizes="(max-width: 217px) 100vw, 217px" /></p>
<p>お茶やお花やお菓子など色とりどりのお供えがなされ、整えられたお仏壇。</p>
<p><strong><span style="font-size: 14pt;">そこから伝わるお檀家さんの心の温かさに触れ、法要を務めさせていただく私も、とても温かな気持ちでご供養に臨めるのです。</span></strong></p>
<h2>やさしさの「回向」</h2>
<p>これまでに何度も記事で触れているお話ですが、<span style="font-size: 18pt;"><strong>「<ruby>回向<rt>えこう</rt></ruby>」</strong></span>とは<ruby>回<rt>めぐ</rt></ruby>らし<ruby>向<rt>む</rt></ruby>けるということです。</p>
<p>法要の最後に、功徳を外側に広く振り向けるために読まれるのが「回向」です。</p>
<p>自業自得や因果応報という言葉があるように……</p>
<p>本来、仏教では自分がしたことの報いは自分に返ってくると考えます。</p>
<p>それはお経を唱える場合でも変わりません。</p>
<p>「自業自得」というと一般には「悪いことの報いは必ず返ってくる」という文脈で使われることが多いと思いますが、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>実は悪いことの報いが返ってくるのと同じように、良いことをした報いも基本的には自分に返ってくるのです。</strong><span style="font-size: 12pt;">(ちなみに日本に浸透している「自業自得」という言葉の使い方は、差別に繋がる場合がありますので気を付けましょう)</span></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このようにおっしゃったお檀家さんがおりました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「おばあちゃんが死んでからこっち、お師匠さんに言われたから毎日般若心経を唱えているんだよ。お経の後の言葉も含めてさ。唱えるだけで何だかすっきりするんだ。」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「<span style="background-color: #ffffff;">なんとなく意味が分かってきた気がするけど、</span>お経は難しいね。特にお経の後の言葉が、わかるようでわからないんだ。」</span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5950" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/1093052_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<p>お経の後の言葉、というのは「回向」のことでしょう。</p>
<p>こちらのお檀家さんの言葉を受けて、私は先ほど紹介した「自業自得」のお話と「回向」の意味をお伝えしました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「なるほどなあ。オレの気持ちが楽になってるのも、なんだか納得できた気がするよ。」</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「自分から優しいことをできたら、優しい気持ちになれるもんな。」</strong></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="background-color: #ffffff; font-size: 16px;">こちらのお檀家さんとのお話の中で、私は「回向」による功徳を目の当たりにしたような気がしました。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>ご供養という「やさしさ」を広く外側に向けることで、その報いは何倍もの「やさしさ」となって返ってきたということなのだろうと思えたのです。</strong></span></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3467513_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5949" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3467513_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3467513_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>「死んだら無になるんですよね？」</h2>
<p>また別のお檀家さんとのお話です。</p>
<p>そのお檀家さんは92歳の女性です。</p>
<p>ご高齢ということもあってか、最近は目が不自由になり、足腰も弱ってきているとのことでした。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「ごめんなさいね。いろいろと不自由で、大したおもてなしもできないで」</span></p>
<p>申し訳なさからか、何度もこうしたことをおっしゃいます。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/obaasan04_cry-253x300.png" alt="" width="188" height="222" class="alignnone wp-image-5951" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/obaasan04_cry-253x300.png 253w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/obaasan04_cry.png 510w" sizes="(max-width: 188px) 100vw, 188px" /></p>
<p>その度に、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「どうか、お気になさらないでください」</span></p>
<p>と伝えるのですが、気に病む様子は変わりませんでした。</p>
<p>ご先祖供養を終えて、そのおばあさんとお話をしていた時のこと。</p>
<p>昔の話やお互いの近況の話などに花を咲かせていると、</p>
<p>不意におばあさんがこのような質問を投げかけてきました。</p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><strong>「ねえ、和尚さん。人は死んだら無になるんですよね？」</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">突然投げかけられた、重大な質問。</span></p>
<p>きっと、年々弱っていくご自身の体に言いようのない不安を感じていたからこその言葉だったのでしょう。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>この質問には、借り物の言葉でなく私自身が向き合うことが必要だと感じました。</strong></span></p>
<p>言葉を選びつつ、そのおばあさんに私自身の考えを伝えることにしました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「○○さん。これは私自身の考えになります。仏教の教えに照らしたら、間違っている部分もあるかもしれませんが、聞いてください」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「私たち自身、もともととても頼りない存在です」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「誰かに支えられなければ生きていられないし、でも同じように自分も誰かが生きるのを支えているんです」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「今の肉体がなくなっても、私はそれで終わりだとは思えません」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt; background-color: #ffffff;">「私も○○さんからとても多くのものをいただいています。私の中にも○○さんはいるんです。」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「<span class="sc_marker red"><strong>人の心の中にあって、人を見守ってくれる存在のこと。それは”無”でなくて”仏”というのではないでしょうか</strong></span>」</span></p>
<p>このように伝えました。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">おばあさんから、声に出しての返答はありませんでしたが、静かに、小さく数回頷かれたのがわかりました。</span></p>
<p>これが、その時の自分に伝えられる精一杯でした。</p>
<h2>感じた自分の変化</h2>
<p>新型コロナウイルスの不安がある中ではありますが、</p>
<p>私が住職を務めるお寺では、消毒や3密の回避、健康に懸念がある場合の訪問中止など、一定のガイドラインを設けた上で棚経を行うことにいたしました。</p>
<p>今現在、棚経の真っ最中です。</p>
<p>そんな中、息子さん一家が今年の里帰りをあきらめた、というお檀家さんがいらっしゃいました。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「会えないのはさみしいけど、こっちは遊ぶ場所もないし、孫にとっては面白くないだろうからねえ」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「案外向こうは来なくてよかったと思っているかもしれない」</span></p>
<p>こんなことをおっしゃるので、</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「いえ！そんなことはありません。お孫さんもきっと△△さんに会いたいと思っています」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「それにご先祖様に手を合わせるということは、やさしさに触れることのできる掛け替えのない機会です」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「確かに子どもにとってご供養は面白くないかもしれませんが、ご先祖様がお孫さんを健やかに成長させてくれます」</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「落ち着いたら、またお孫さんと一緒にお仏壇に手を合わせてください」</span></p>
<p>と伝えました。</p>
<p>以前の私であれば、当たり障りないことを言っていたでしょう。</p>
<p>今回このような返答が出たということは、ご紹介したやり取りのように、多くのご供養を務め、お檀家さんと触れ合う中で、私自身も僧侶として成長しているということなのかもしれません。</p>
<p>回向し、回向され。</p>
<p>人とのかかわりをより強く感じながら、今年のお盆を過ごしていきたいと思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5948" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/08/3571902_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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