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	<title>肉を食べるということ - 禅活-zenkatsu-</title>
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	<description>禅を活かして、ちょっといい一日を</description>
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		<title>【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」④</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7407</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 16 Sep 2021 16:26:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗の食の教えから肉食を考えるこちらの連載。 今シリーズでは、その視点が実は食という限定された範囲だけでなく、 曹洞宗が掲げてきた「人権・平和・環境」という活動目標にも関わってくるものであることをお話ししています。 前…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗の食の教えから肉食を考えるこちらの連載。</p>
<p>今シリーズでは、その視点が実は食という限定された範囲だけでなく、<br />
曹洞宗が掲げてきた「<span class="sc_marker red"><strong>人権・平和・環境</strong></span>」という活動目標にも関わってくるものであることをお話ししています。</p>
<p>前回までは、曹洞宗の立場から肉食を捉えることと「人権」の関係性についてお話ししてきました。</p>
<p>今回からは同様に、「<strong>平和</strong>」との関わりについてのお話しです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7244" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/肉食べ-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」④"></div><div class="title">【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①</div><div class="date">2021.7.16</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗の立場から肉食を捉え直し、そこから広がる様々な問題点や課題を検討してきたこの企画。 前回は「食べることで成仏する」という文脈が、曹洞宗の教えに適う部分もある一方で、食肉加工業や漁(猟)に対する差別を生んできた歴史と繋がってしまう場合があることをお話ししました。 今回から、肉...</div></a></div>
<h2>曹洞宗にとっての「平和」</h2>
<p>曹洞宗では、次のような形で「平和」という活動目標を掲げています。</p>
<blockquote><p>曹洞宗は、戦争の悲惨さを直視し、いのちの尊さを自覚して、世界平和の実現に向けさらなる努力を続けています。<br />
また、宗門の布教目標であります「まごころに生きる」の実践として、国際布教、ボランティア活動も推進しています。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div><a href="https://www.sotozen-net.or.jp/activity/peace" target="_blank" rel="noopener">曹洞禅ネット</a></div>
</div>
</blockquote>
<p>やはり仏教徒として非暴力は重大なテーマですし、世界中で争いや弾圧や貧困によっていのちの尊厳が脅かされている現状は、<br />
僧侶にとって目を背けられないものです。</p>
<p>そしてこの目標が掲げられるまでには、曹洞宗という教団にとっても様々な経緯がありました。</p>
<h3>戦時中の日本の宗教教団</h3>
<p>明治時代、日本では全ての宗教を国家神道の下に収め、天皇を頂点とした宗教統制が行われました。</p>
<p>そのため、各宗教各宗派の布教活動は教義を伝える前提として国家の繁栄・安泰を説くものでなくてはならない、ということになります。</p>
<p>そして日本は大正・昭和にかけて、戦争の時代に突入していきます。</p>
<p>仏教ではお釈迦様以来非暴力が説かれてきましたが、その時代に非暴力を説ける教団はありませんでした。</p>
<p>曹洞宗も例外ではなく、<span class="sc_marker y">道元禅師の示した道と天皇の行く道は同じであると、戦争を翼賛する布教活動が展開されました</span>。</p>
<p><span class="sc_marker red">仏や祖師の名の下に敵兵の命を奪うことが信仰である、ということが、本気で説かれていた</span>のです。</p>
<h2>殺生仏果観との関連性</h2>
<p>私はこの、信仰の名の下に殺生が肯定されるという理論は、明治以降に生まれたものではなく、肉食の捉え方に原型があると考えています。</p>
<p>以前、当連載でお伝えした<span class="sc_marker red"><strong>殺生仏果観</strong></span>を覚えてらっしゃるでしょうか？</p>
<p>仏教伝来以前から肉食を宗教的タブーとしてきた日本では、仏教においても同様の方針をとりました。</p>
<p>一方で、諏訪信仰をはじめとする伝統的な宗教儀礼の中には、狩猟や漁撈によって得た生き物を供えるものが存在します。</p>
<p>そこで、宗教儀礼によって本来仏になれなかった生き物が仏になる、という<span class="sc_marker red">信仰の上で殺生や肉食を肯定したもの</span>が殺生仏果観です。</p>
<p>それは同時に宗教儀礼に必要な供物を獲る猟(漁)師の罪悪感を和らげるための、苦肉の策と呼べるものだったのかもしれません。</p>
<p>そしてこれが、<span class="sc_marker y">日本で仏教信仰と殺生の共存が可能になったきっかけ</span>となりました。</p>
<p>これを戦時中の布教と結びつけのはあくまでも個人的な推測で、それを細かく検証したり、<br />
そういった研究があるわけではありません。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker blue">日本では武士や戦国武将や時の権力者が、敵対する者の命を奪いながらも仏教に帰依したという歴史</span>があります。</p>
<p>殺生仏果観と呼ばれる宗教的な殺生肯定がなされた鎌倉時代以降、武士の台頭と仏教の関わり方を調べていけば、<br />
その後の変容が見えてくるかもしれません。</p>
<p>いずれにせよ、<span class="sc_marker y">肉食はあくまでも食の話であって戦争や殺生とは無関係、とは言えないだろうと、私は考えています。</span></p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7224" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/ブログサムネ-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」④"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「食べて成仏」の問題点</div><div class="date">2021.7.9</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えるこちらの企画。 前回は僧侶が肉食を肯定する際にしばしば引用される「三種の浄肉」が日本社会でもつ危うさについてお話ししました。 今回もそこにやや似た話題です。 食べることが成仏？ 我々僧侶の間で、動物性の食品を口にする際に、やや冗談めかして「食べるこ...</div></a></div>
<h2>曹洞宗の平和と布教活動の現状</h2>
<p>実は、私は食に関する研究をする以前は、曹洞宗が掲げる「平和」と戦時中の布教活動をテーマとしていました。</p>
<p>関心を持ったきっかけは、永平寺で広報誌の編集室にいた際、<br />
戦時中の和尚様の出された文章を改めて編集して出版するという時のことです。</p>
<p>普段編集室にいらっしゃることのない老師方もいらっしゃり、<br />
「ここはカットですね」といった具合に言葉を削除しておられました。</p>
<p>私は、師匠が仏教の素晴らしさの第一に暴力や戦争を否定していることを挙げていたこともあり、<br />
戦時中も無縁だっただろう、と思っていました。</p>
<p>しかし、実際は教団として国家に統制される中で、正しさの軸は国家となり、戦争を肯定する布教活動が行われていたことをここで知ったのです。</p>
<p>これがあまりにも衝撃的で、私は研究の中で、それを他の若手僧侶がどれくらい知っているのかを調べることにしました。</p>
<p>「平和」を活動目標に掲げる曹洞宗として、戦時中の布教の在り方の反省は行っているものの、<br />
<span class="sc_marker y">今後布教に携わる若手僧侶約200名のほとんどが、当時のこともそれに対する反応も知りませんでした</span>。</p>
<p><span class="sc_marker red">正確には意識することがなかった</span>のだと思います。</p>
<p>私も修行中の編集室での経験がなければ、そこに関心を持つことはなく、<br />
仏教は暴力を否定しているということだけを信じていたでしょう。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker red">社会や国家とのバランスの中でその大前提すら歪んでしまうことあるとは思いもよらなかった</span>はずです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5472" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>私はこれまで触れてきたように、曹洞宗の教えをしっかり根底に据えて肉食を捉えれば、<br />
人権問題や生命倫理の様々な問題に対応しうると考えています。</p>
<p>そしてそれは平和に関しても同様です。</p>
<p><span class="sc_marker red">肉食と殺生、さらには戦争や暴力は、いのちとの向き合い方という点で地続きになった問題</span>です。</p>
<p>あとはそこをどれだけ疑問を持ちながら意識できるかが、私たち曹洞宗僧侶の課題なのではないでしょうか。</p>
<p>かなり個人的な意見として関連づけてみましたが、肉食を捉えなおすことで「平和」への取り組み方も見えてくると、私は思います。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">【参考書籍】</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">吉田時夫著「曹洞宗と天皇制を考える」2014年・文芸社</span><br />
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<p><span style="font-size: 12pt;">ブライアン・アンドレー ヴィクトリア「禅と戦争」(新装版)2015年・えにし書房</span><br />
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		<title>【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」③</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7380</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7380#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 26 Aug 2021 17:22:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の立場から肉食を捉え直すこちらの連載。 前回から、肉食と人権について考えています。 肉を食べること、ひいては猟(漁)やと畜解体が仏教的な罪業と結びついたことが、 後の職業・身分・部落差別の大きな要因となっていた…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p><span>曹洞宗僧侶の立場から肉食を捉え直すこちらの連載。</span></p>
<p>前回から、肉食と人権について考えています。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7312" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/肉食べ人権-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」③"></div><div class="title">【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」②</div><div class="date">2021.7.30</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の立場から肉食を捉え直すこちらの連載。 今シリーズでは、肉食を曹洞禅の食の教えから考えることで、 曹洞宗が掲げる「人権・平和・環境」の取り組みを網羅するものになる、ということについてお話ししています。 今回は、この連載開始のきっかけであり、私が食に関する活動と研究をする...</div></a></div>
<p>肉を食べること、ひいては猟(漁)やと畜解体が仏教的な罪業と結びついたことが、<br />
後の職業・身分・部落差別の大きな要因となっていたことは歴史からみても明らかです。</p>
<p>そこで今回は、改めて<span class="sc_marker y">曹洞宗の視点から肉食に関する職業について見直し、人権問題について考えてみます</span>。</p>
<h2>動物性食品の生産は殺生？</h2>
<p>まずはじめに、<span class="sc_marker y">曹洞宗の立場から見たとき、猟(漁)や食肉加工といった動物性食品の生産が殺生なのか</span>、という点について考えてみましょう。</p>
<p>ここで重要なのは<br />
<span style="font-size: 14pt;"><strong>①殺生とは何か</strong></span><br />
<span style="font-size: 14pt;"><strong>②職業でも殺生となるのか</strong></span><br />
ということです。</p>
<p>実は①については過去に触れているのですが、それを応用するという意味でもう一度お話しします。</p>
<h3>殺生とは何か</h3>
<p>殺生とは、仏教的にも一般的にも生物の「いのち」を奪うことを意味します。</p>
<p>人はもちろん、動物や魚のいのちを奪うことは「殺生」であり悪行である、という認識も一般的でしょう。</p>
<p>ここで重要なのが、<span class="sc_marker y red">いのちの定義</span>です。</p>
<p>仏教では、仏になれる存在をはじめは出家者に限定していましたが、そこから在家者も仏になれるとし、やがて動物も含まれるようになりました。</p>
<p>こうした、仏になる可能性を<ruby><strong>仏性</strong><rt>ぶっしょう</rt></ruby>といい、この<span class="sc_marker y">仏性の有無が仏教にとってのいのちの有無の判断基準となっている</span>と私は捉えています。</p>
<p>そして仏性を有するものの範囲は大きく広がり、宗派によって山川草木にも仏性がある、と言われるようになっていきます。</p>
<p>その中で<span class="sc_marker y">曹洞宗の道元禅師は、やや異なる視点で仏性を捉えていました</span>。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker red"><strong>仏性とは仏としての性質</strong>であり、<strong>今この世の全てのものが「仏のいのち」</strong>としてはたらいている</span>と説かれたのです。</p>
<p>そうなると、<span class="sc_marker y blue">仮に食べることや食物として生産すること、生きるための消費が殺生となるなら、</span><br />
<span class="sc_marker y blue">曹洞宗の信仰の上では猟や食肉加工はおろか、野菜や果物の収穫、木の伐採、建築、お香を焚くことですら全て殺生</span>になってしまいます。</p>
<p>そこで重要になるのが不殺生という言葉の解釈です。</p>
<p>曹洞宗では出家をする時の受戒では『<ruby><strong>梵網経</strong><rt>ぼんもうきょう</rt></ruby>』に従って不殺生戒を含む16の戒を説かれ、授かります。</p>
<p>そして修行を経て、一人前の僧侶として師匠から教えを継ぐ際には道元禅師の『<strong><ruby>教授戒文<rt>きょうじゅかいもん</rt></ruby></strong>』に従って戒の内容を改めて説かれます。</p>
<p>『梵網経』では、不殺生戒は比較的シンプルに殺生を戒める形で説かれるのに対し、<br />
『教授戒文』では<span class="sc_marker y">「仏祖の<ruby>慧命<rt>えみょう</rt></ruby>を<ruby>続<rt>つ</rt></ruby>ぐ」</span>という説かれ方をします。</p>
<p>以前お話しした通り、「仏祖の慧命を続ぐ」とは<span class="sc_marker y">仏のいのちとしてのはたらきを生かす</span>ということ。</p>
<p>これは<span class="sc_marker red">生物としての生命活動が止まることではなく、縁起の上で形を変えながら続いていく</span>ということです。</p>
<p>この『梵網経』と『教授戒文』の間にあるものは<span class="sc_marker y">修行、つまり仏教の実践</span>です。</p>
<p><strong>教えの実践を通して初めて納得のできる不殺生の在り方が、『教授戒文』では説かれています</strong>。</p>
<p>曹洞宗にとっては、<span class="sc_marker blue">生命を奪うことではなくはたらきを止めることが殺生</span>であり、<br />
<span class="sc_marker red">自分自身の生き方によってそのはたらきを止めずにつなぐことが不殺生</span>なのです。</p>
<h3>職業でも殺生なのか</h3>
<p>そこで改めて動物性食品に関する生産業が殺生であるか、ということを考えてみましょう。</p>
<p>これは結局のところ、<span class="sc_marker y">その職業にどう携わっているか</span>によって変わります。</p>
<p>曹洞宗の宗典である<strong>『修証義』の第四章「発願利生」</strong>には</p>
<blockquote><p><ruby>治生産業<rt>ちしょうさんぎょう</rt></ruby><ruby>固<rt>もと</rt></ruby>より<ruby>布施<rt>ふせ</rt></ruby>に非ざること無し。</p></blockquote>
<p>とあります。</p>
<p>「治生産業」というのは職業から生活に至るまでの全ての社会生活のことで、ここではその全てが布施にならないことはない、という意味です。</p>
<p>布施というのはお金のことではなく、「<span class="sc_marker y">貪らない行い</span>」のことです。</p>
<p>つまり、<span class="sc_marker red">全ての社会生活が、自らの利益を貪らないことで布施という仏行になる</span>わけです。</p>
<p>そして仏行である布施は、同時に不殺生の実践でもあります。</p>
<p>これらを合わせて考えると、<span class="sc_marker blue">欲や身勝手さに振り回されて行うならば、お花屋さんだろうとお医者さんだろうと殺生</span>をしていることになります。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker red">他の為を思って行われるならば、食肉の生産も猟も布施行であり不殺生の実践となりうる</span>のです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/5470" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」③"></div><div class="title">肉を食べるということ〜曹洞宗の立場から考える〜不殺生としての食</div><div class="date">2020.5.29</div><div class="substr">スポンサードリンク 食肉加工場の見学をきっかけに、肉食に関連した差別や対立について、僧侶の立場から考えるこちらの連載。 前回から、いよいよ曹洞宗としての不殺生の捉え方について書き始めました。 動植物はもちろん、鉱物や加工物に至るまで、この世界にあるもの全てを「仏の命」として捉える曹洞宗にとって、不殺...</div></a></div>
<h2>曹洞宗の教えと職業差別</h2>
<p>ここまで曹洞宗の仏性、不殺生、布施の教えを元に動物性食品に関する生産業が殺生かということを考えてみました。</p>
<p>結局のところ、曹洞宗の教えの上では<span class="sc_marker y">業種によって殺生とすることはなく、重要なのは携わる姿勢や経営の仕方</span>であることがわかりました。</p>
<p>また、殺生となるような働き方や経営をしたからといって、<span class="sc_marker blue">差別をしていいということにはなりません</span>。</p>
<p>差別とはそもそも坐禅から最も離れるレッテル貼りや決めつけである「<ruby><span class="sc_marker y"><strong>分別</strong></span><rt>ふんべつ</rt></ruby>」です。</p>
<p>そのため<span class="sc_marker y">悪い「業種」はないけれど悪い「働き方」はある、というのがここでの一つの答え</span>とします。</p>
<p>その上で、やはり<span class="sc_marker red"><strong>職業やそれによる部落などの差別はあってはなりません</strong></span>。</p>
<p>しかし、曹洞宗には、故人の職業や出身を理由に差別戒名をつけてしまった歴史があり、これに対する反省と繰り返さないための学習が、宗派全体をあげての取り組みとなっています。</p>
<p>こうしたことが起こってしまったのは、今回ご紹介したような教えの上に社会を見るということができなかったということが原因の一つといえるでしょう。</p>
<p>逆に言えば、きちんと教えを学び、その視点から社会を見渡した時、<span class="sc_marker y">曹洞宗には人権問題を大きく改善していく可能性がある</span>ということなのではないかと、私は考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><a href="https://www.sotozen-net.or.jp/activity/jinken/torikumi">曹洞宗の差別戒名への取り組み(曹洞禅ネット)</a></strong></p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」②</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7312</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 29 Jul 2021 16:06:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[人権]]></category>
		<category><![CDATA[差別]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の立場から肉食を捉え直すこちらの連載。 今シリーズでは、肉食を曹洞禅の食の教えから考えることで、 曹洞宗が掲げる「人権・平和・環境」の取り組みを網羅するものになる、ということについてお話ししています。 今回は、…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗僧侶の立場から肉食を捉え直すこちらの連載。</p>
<p>今シリーズでは、肉食を曹洞禅の食の教えから考えることで、<br />
<span class="sc_marker red">曹洞宗が掲げる「人権・平和・環境」の取り組みを網羅するものになる</span>、ということについてお話ししています。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7244" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/肉食べ-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」②"></div><div class="title">【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①</div><div class="date">2021.7.16</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗の立場から肉食を捉え直し、そこから広がる様々な問題点や課題を検討してきたこの企画。 前回は「食べることで成仏する」という文脈が、曹洞宗の教えに適う部分もある一方で、食肉加工業や漁(猟)に対する差別を生んできた歴史と繋がってしまう場合があることをお話ししました。 今回から、肉...</div></a></div>
<p>今回は、この連載開始のきっかけであり、私が食に関する活動と研究をするきっかけともなった、<br />
<span class="sc_marker red">肉食と人権問題についてのお話です</span>。</p>
<h2>そもそも肉食忌避はいつから？</h2>
<p>日本では、肉食をタブー視してきた歴史があります。</p>
<p>これは<span class="sc_marker y">仏教伝来以降のものと思われがちなのですが、実はそんなことはありません</span>。</p>
<p>仏教が伝来したといわれるよりずっと前の日本の様子を、<br />
３世紀末に記録したとされる中国の歴史書『<ruby>魏志<rt>ぎし</rt></ruby>』の「<ruby>倭人伝<rt>わじんでん</rt></ruby>」にはこんなことが書かれています。</p>
<blockquote><p>その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る。<span class="sc_marker red">始め死するや停喪十余日、時に当たりて肉を食わず</span>、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣りて澡よく浴し、以て練沐如くす。</p>
<div class="blockquote_ref">
<div><span style="font-size: 10pt;">新訂 「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉」 (岩波文庫)</span></div>
</div>
</blockquote>
<p>要するに<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y">当時の日本人は人が亡くなると肉食を断った</span>と書かれているのです。</p>
<p>他にも、渡航の無事を祈るために船に乗る「<span class="sc_marker y"><ruby>持衰<rt>じすい</rt></ruby></span>」も肉食と飲酒を断ったと書かれています。</p>
<p>ここから分かるのは、日本人は<br />
<strong><span style="font-size: 14pt;">・宗教的行為(場所)から肉食を遠ざけた</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 14pt;">・肉食そのものは古くから行われていた</span></strong><br />
ということです。</p>
<p>この<span class="sc_marker red">肉食文化はあるけれど宗教的行為や場所としてはNGという感覚</span>が、<br />
形を変えて今も残り続けているのだと、私は捉えています。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/2792" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/08/DSC_8475_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」②"></div><div class="title">肉を食べるということ〜肉食と不殺生〜日本前編</div><div class="date">2019.8.30</div><div class="substr">スポンサードリンク  僧侶の立場から肉食を考えるこの企画。 はじめの３回では食肉加工場見学の経験と、そこから見えきた僧侶としての課題を書きました。 そして国と仏教と肉食について考えるべく、前回までインド・中国仏教における肉食について触れました。 今回はいよいよ日本仏教と肉食についてのお話。 実は今回...</div></a></div>
<h2>「肉」と関わる仕事への差別</h2>
<p>そして、そうした<span class="sc_marker y">肉食に対する忌避感を強めたのが仏教</span>でした。</p>
<p>日本の仏教受容の始まりは、仏教の中でも密教と呼ばれる、祈祷を中心とするものでした。</p>
<p>国家としては、僧侶の祈祷による宗教的な力によって、国を護り繁栄させて欲しいという願いがありました。</p>
<p>そんな国家的な宗教行為には、当然肉食はタブーで、<br />
<span class="sc_marker y">まだ正式な戒律が伝わる以前から、国家として僧侶に肉食を禁止する決まり</span>まで出されました。</p>
<p>また、後に日本に伝わった戒律も、中国で成立した肉食を禁止するものであったことから、<br />
仏教は肉食への忌避感をより強いものとしていきます。</p>
<p>そんな仏教が貴族へ、民衆へと伝わるようになると、<span class="sc_marker blue">問題になるのが肉を生産したり加工したりする職業</span>です。</p>
<p>現代では、マグロの解体ショーはお寿司屋さんや市場のパフォーマンスとして大変人気がありますが、<br />
実は同じ様な習慣が10世紀初め頃にあったそうです。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker y">宴の場でのキジの解体ショー</span>でした。</p>
<p>これがおもてなしとして親しまれていたのが、徐々に廃れていきます。</p>
<p>その理由は、<span class="sc_marker red">仏教が広がるにつれ動物を捕らえ、肉にしていく過程が、罪業として広く認識されるようになった</span>からです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4549787_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7314" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4549787_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4549787_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h3>罪業の隔離</h3>
<p>しかし、動物を捕らえ、肉へと加工する過程、いわゆる猟(漁)やと畜解体が罪業と認識されたからといって、<br />
肉食自体がやめられたわけではありませんでした。</p>
<p>それどころか、日常や宴の場では肉はご馳走として重宝され続ける一方で、<br />
宗教行為や場所と関係する前後には肉食を断つ「<span class="sc_marker y"><ruby>精進<rt>そうじ</rt></ruby></span>」という習慣が生まれます。</p>
<p>肉を生産・調理するところまでが殺生であり、<br />
食べる事自体はそこのタブーに触れないという価値感が形成されいくのです。</p>
<p>その結果、<span class="sc_marker y">食肉加工や狩猟・漁撈に携わる人は罪を背負う存在として扱われるようになり、<br />
その存在そのものが社会的に忌避されるようになります</span>。</p>
<p>こうした職業の方々は時代を下っていくと、<br />
<strong><span class="sc_marker red">「<ruby>穢多<rt>えた</rt></ruby>」や「非人」と呼ばれ、社会的に差別を受けることになります。</span></strong></p>
<p>差別を受けた職業・身分というのは肉に関係するものだけではありませんが、<br />
<span class="sc_marker blue"><strong>死んだ牛馬の解体などを行う地域は特に町から遠ざけられ、<br />
地域そのものがそうした差別にさらされる「被差別部落」となっていく</strong></span>のです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4840811_s-min-300x169.jpeg" alt="" width="300" height="169" class="alignnone size-medium wp-image-7315" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4840811_s-min-300x169.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4840811_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>差別がもたらしたもの</h2>
<p>こうした差別がいかに愚かであるかは、現代人であれば一目瞭然でしょう。</p>
<p>と畜解体や猟(漁)をしてくれる人がいるから、食卓があるというのは、小学生でもわかることです。</p>
<p>科学のなかった時代には、宗教的な忌避感だけでなく、疫病への恐怖などもあったのかもしれません。</p>
<p>しかし、それがなぜ差別になってしまったのか。</p>
<p>それは、<span class="sc_marker blue">差別によって安心する人が一定数いたから</span>ではないでしょうか。</p>
<p>鎌倉時代以降、仏教の一部の宗派ではと畜や猟(漁)を行う人は、地獄へ堕ちると説くようになります。</p>
<p>ただしそれは、その従事者に説かれたものではないと私は捉えています。</p>
<p>むしろ、<span class="sc_marker y">と畜解体や猟(漁)に携わらない人にほど意味があったのではないか</span>と、<br />
あくまでも個人的には思うのです。</p>
<p><span class="sc_marker blue">「あんな悪い事してる人は地獄へ堕ちるけど、あなたたちは大丈夫ですよ」</span>というニュアンスが、<br />
<strong>そこに携わらない人々を安心させた</strong>のではないでしょうか。</p>
<p>もちろん、地獄を説いたことで人が正しく生きようとしたという面はあったでしょうし、それ自体を否定はしません。</p>
<p>しかし、罪業の例として挙げられたことで、<span class="sc_marker red">食肉に関わる人々は仕事としては必要とされながら、</span><br />
<span class="sc_marker red">人としては差別される事となった</span>のです。</p>
<p>この、自分よりも下の人を作ることで安心するという、人間の心の愚かな部分は、<br />
あらゆる差別や人権問題と関連しています。</p>
<p>次回は、そうした差別や人権問題に対して、曹洞禅の食の教えがどう関わる事ができるかについて考察します。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22029850_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7316" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22029850_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/22029850_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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<p>&nbsp;</p>
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		<title>【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7244</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7244#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Jul 2021 15:00:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[精進料理]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗の立場から肉食を捉え直し、そこから広がる様々な問題点や課題を検討してきたこの企画。 前回は「食べることで成仏する」という文脈が、曹洞宗の教えに適う部分もある一方で、食肉加工業や漁(猟)に対する差別を生んできた歴史と…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗の立場から肉食を捉え直し、そこから広がる様々な問題点や課題を検討してきたこの企画。</p>
<p>前回は<span class="sc_marker y">「食べることで成仏する」</span>という文脈が、<span class="sc_marker blue">曹洞宗の教えに適う部分もある一方で、食肉加工業や漁(猟)に対する差別を生んできた歴史と繋がってしまう場合がある</span>ことをお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7224" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/ブログサムネ-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「食べて成仏」の問題点</div><div class="date">2021.7.9</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えるこちらの企画。 前回は僧侶が肉食を肯定する際にしばしば引用される「三種の浄肉」が日本社会でもつ危うさについてお話ししました。 今回もそこにやや似た話題です。 食べることが成仏？ 我々僧侶の間で、動物性の食品を口にする際に、やや冗談めかして「食べるこ...</div></a></div>
<p>今回から、肉食を捉え直すことが曹洞宗の掲げる<span class="sc_marker red"><strong>「人権・平和・環境」</strong></span>のスローガンと密接に関わっていることについて、数回にわたってお話ししたいと思います。</p>
<p>今回は、その前段として、<span class="sc_marker y">食の教えが曹洞宗の活動全体とどのように関わってくるのか</span>を考えてみます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h2>「人権・平和・環境」のスローガン</h2>
<p>曹洞宗は1991年から、宗派としての活動目標として<strong><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;">「人権・平和・環境」</span></strong>を掲げています。</p>
<p>この年は、戦時中の布教の在り方やそれ以降の人権関係の諸問題に対する大きな転換のタイミングでした。</p>
<p>そうした曹洞宗としての課題と共に、国内外の社会問題に取り組んでいこうという意思表明ともいえるものが、このスローガンだったのです。</p>
<p>この３つの項目が、曹洞宗の布教や社会活動などの取り組みの基本方針となり、現在も様々な取り組みが行われています。</p>
<p>曹洞宗のHPにはそれぞれの項目に取り組む理由をお釈迦様・道元禅師・瑩山禅師の言葉も引用しながら、教えの実践であることを解説しています。</p>
<p><strong><a href="http://人権・平和・環境">人権・平和・環境（曹洞禅ネット）</a></strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<h2>連載のきっかけ</h2>
<p>この連載のきっかけは、私が食肉加工場に行った時の経験でした。</p>
<p>私は永平寺での修行生活を通して、曹洞宗や仏教が伝統的に説いてきた食に対する精神性を肌で感じ、心から納得していました。</p>
<p>重要なのは肉か野菜かではなく、食そのものをどう捉えるかという教えの普遍性と今後の社会での必要性に、それを伝えることへの使命感すら感じました。</p>
<p>しかし、食肉加工場見学で、と畜（屠殺という言い方をしなくなりつつある）や皮革産業に対する社会からの扱や、<span class="sc_marker y">社会に広まった日本仏教の不殺生観がある種の枷となり、時には刃にもなって従事してきた方々を傷つけていたこと</span>を知りました。</p>
<p>そしてそれは決して過去の出来事ではなく、現在も心ない声を浴びせられたり、「いただきます」という言葉に罪悪感を感じる方がいることを知ったのです。</p>
<p>私は、曹洞宗の教えが、一部の方にだけ罪悪感を背負わせるものであるわけがないと、肉食の再解釈を自分の研究テーマにしました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/1842" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/236173896940994459bc800b1e71fb57_s-min_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①"></div><div class="title">【肉を食べるということ】食肉加工場にいってきました vol.1</div><div class="date">2019.6.13</div><div class="substr">スポンサードリンク  「お坊さんってお肉食べていいの？」 これはとてもよくある質問です。 最初に言います。 お肉大好き！ 牛豚鶏はもちろん、羊やイノシシ、ワニやウミガメも美味しく食べたことがあるくらい、お肉ならドンと来いという感じです。 ちなみに禅活-zenkatsu-メンバーもみんなお肉を食べます...</div></a></div>
<h2>食に関する布教の現状</h2>
<p>曹洞宗では、他の宗派と比べても食に関する布教活動が活発です。</p>
<p>しかし実は、その教えをどう解釈しどう布教を行うか、という共通認識はなく、現場で各僧侶に一任されているのが現状です。</p>
<p>そのため、実に様々な形での布教が可能である一方、危ういものもあります。</p>
<p>たとえば、以前別の記事で触れたように「曹洞宗の食＝精進料理」と位置付けて、菜食を是として説かれる場合、実際には曹洞宗の僧侶の多くが肉も魚も食べているので、非常に建前的な話になってしまいます。</p>
<p>あるいは、心や愛があれば精進料理や、真心さえあればという一般論の域を出ない場合もあるでしょう。</p>
<p>ネット上での活動や本、テレビ出演された方の布教の内容を概覧するに、<span class="sc_marker blue">曹洞宗の教えによって食を裏付けるということがあまりなされていない印象</span>があります。</p>
<p>もしかすると『典座教訓』や『赴粥飯法』に出てくる言葉の範囲で解釈が収まってしまっているのかもしれません。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3372" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/IMG_1342-min_Fotor-min-1-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①"></div><div class="title">【食コラム】#5「精進料理」は仏教語ではない!?</div><div class="date">2020.3.11</div><div class="substr">スポンサードリンク 精進料理。 動物性の食材や、ネギ・ニラ・ニンニクなどの匂いが強く、精力がつく香味野菜、いわゆる五葷ごくんを使用しない日本の食文化の一つです。 この精進料理、しばしば「鎌倉時代に禅宗の僧侶によって中国から伝えられた」と紹介されることがあります。 しかし、実は「精進料理」という名称は...</div></a></div>
<h2>曹洞禅の食と肉食と…</h2>
<p>そこで、曹洞宗の教えによって食を捉えなおそうとしてきたのがこの連載でもあります。</p>
<p>食べるということは殺すことなのか、殺すとはどういうことなのか。</p>
<p>逆に不殺生とは何か、曹洞宗にとっての「いのち」とは何か。</p>
<p>そうした肉食に関する疑問を曹洞宗の教えによって一つ一つ解釈し、それをまとめて「曹洞禅の食」として定義づけました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7085" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/ブログサムネ-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】肉食から考える「人権・平和・環境」①"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「曹洞禅の食」の３つの特徴</div><div class="date">2021.5.21</div><div class="substr">スポンサードリンク このブログも開設から３年が経ち、これまで色んな記事を書いてきた私ですが、唯一同じテーマでずっと続いてきた連載があります。 それが、肉食と仏教を考察する【肉を食べるということ】シリーズです。 仏教徒として、さらにその中でも曹洞宗の僧侶として肉食と、それに関連した様々な問題にどう向き...</div></a></div>
<p>そこから見えてきたのは、食事という行為は誰もが行う行為でありながら、修行観や仏性観、戒の解釈など、実に多くの曹洞宗の教え内包したものである、ということでした。</p>
<p>そして、肉食というのは人権問題はもちろん、いのちの捉え方、環境問題とも密接に関わったテーマです。</p>
<p>つまり、曹洞禅の食という立場から肉食を捉えることが、実は「人権・平和・環境」のテーマとも直結しているのではないか、というのが私の見解です。</p>
<p>次回以降は、「人権」から順に肉食の解釈を通して考えていきたいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><a href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%e8%82%89%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8">バックナンバー</a></strong></p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/名称未設定_1.14.1-min-300x169.jpg" alt="" width="300" height="169" class="alignnone size-medium wp-image-7246" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/名称未設定_1.14.1-min-300x169.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/名称未設定_1.14.1-min-768x432.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/名称未設定_1.14.1-min-1024x576.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/名称未設定_1.14.1-min.jpg 1920w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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		<title>【肉を食べるということ】「食べて成仏」の問題点</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7224</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7224#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Jul 2021 15:25:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えるこちらの企画。 前回は僧侶が肉食を肯定する際にしばしば引用される「三種の浄肉」が日本社会でもつ危うさについてお話ししました。 今回もそこにやや似た話題です。 食べることが成仏？ 我々僧侶の…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗僧侶の視点から肉食を考えるこちらの企画。</p>
<p>前回は僧侶が肉食を肯定する際にしばしば引用される「三種の浄肉」が日本社会でもつ危うさについてお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7164" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/06/浄肉-min-150x150.jpeg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「食べて成仏」の問題点"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「三種の浄肉」の危うさ</div><div class="date">2021.6.18</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食について考察しているこの企画。 前回は曹洞宗に伝わる食の教えを、改めて宗旨によって裏付け、３つの特徴として整理しました。 なぜわざわざこんなことをするかというと、曹洞宗の僧侶には教えの上で食を理解する機会がなかなかないからです。 関心や疑問を持った方は、そ...</div></a></div>
<p>今回もそこにやや似た話題です。</p>
<h2>食べることが成仏？</h2>
<p>我々僧侶の間で、動物性の食品を口にする際に、やや冗談めかして<strong>「食べることで成仏するから」</strong>という言い方をすることがあります。</p>
<p>これはある意味では的を射ていて、食べて、仏道を生きていくことで食べ物を「仏のいのち」として引き継ぐという、以前ご紹介した不殺生の在り方と通じています。</p>
<p>故・宮崎奕保禅師が<span class="sc_marker y">履き物を揃えることも「成仏した」と仰った話</span>は有名ですね。</p>
<p>私が修行自体にお仕えした老師も、いただきものの<span class="sc_marker y">カニをみんなで綺麗にいただいた時に「おおこれで成仏だ」</span>と仰っていました。</p>
<p>そのものに備わった「はたらき」を正しく活かすところに仏のいのちがある。</p>
<p><span class="sc_marker red">初めから仏だったものを、食べてもなお仏であるようにいただく。</span></p>
<p>このように捉えることができればいいのですが、日本の社会でこのような捉え方をすることはあまりなかったようです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4335072_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7227" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4335072_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4335072_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>殺生で仏果が顕れる</h2>
<p>中世以降の日本の肉食文化の中に、<strong><span class="sc_marker red">殺生仏果論(観)</span></strong>と呼ばれる考え方があります。</p>
<p>日本には<span class="sc_marker y">仏教伝来以前から、人の死や願い事があると肉食を避ける習慣がありました</span>。</p>
<p>そこに、肉食禁止を説く中国の戒律が伝来し、特に中世以降は肉食への忌避感がより強くなっていきます。</p>
<p>しかし一方で、日本にはその土地の魚や動物の肉を好むと言われる神様が祀られる寺社がありました。</p>
<p>それを供えるのは地元の猟(漁)師の役目でしたが、殺生すれば地獄に堕ちると言われる時代です。</p>
<p><span class="sc_marker blue">供物は必要だが殺生は戒められている…。</span></p>
<p>その狭間で生まれたのが、<span class="sc_marker red"><strong>「宗教儀礼によって動物を仏の世界に導く」</strong></span>という形でした。</p>
<p><span class="sc_marker red">動物(＝畜生道)に生まれた存在は元々仏道に縁がないが、供物にするなどの宗教儀礼を経ることで、その機縁となるというこの理論</span>が、殺生仏果論です。</p>
<p>一見、曹洞宗の食の捉え方と似ているようですが、実はわずかな違いが大きなずれとなります。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/1283154_s-min-300x200.jpeg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-7226" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/1283154_s-min-300x200.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/1283154_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>いのちの違い</h2>
<p>ここで重要なことは、<span class="sc_marker blue">動物は仏道に縁のない存在とされていること</span>です。</p>
<p>曹洞宗の捉え方を振り返ってみましょう。</p>
<p>「<ruby>一切衆生悉有<rt>いっさいしゅじょうしつう</rt></ruby>は仏性」という道元禅師のお示しから、<strong><span class="sc_marker y">曹洞宗では人間、動物、魚、虫、植物、石、建物や道具にいたるまで、ありとあらゆる存在が仏の性質を表した「仏のいのち」である</span></strong>と捉えます。</p>
<p>つまり、動物はそもそも仏のいのちとして存在しており、我々人間がそのように見ることさえできれば、決して人間より劣った存在ではない、<span class="sc_marker y">むしろ最初から仏の世界にいる存在</span>なのです。</p>
<p>殺生仏果論では、殺生をしたけど儀礼によって仏の道に入れたのだから罪ではないという理論で、猟(漁)師を安心させようとしました。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker blue">根本的には動物のいのちの捉え方は曹洞宗とは異なっている</span>ことになります。</p>
<p>そして何より、この殺生仏果論には、<span class="sc_marker red"><strong>「儀礼を通して罪ではなくなる＝儀礼を通さない猟(漁)は罪」</strong></span>であるということを浮き彫りにしてしまったのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4702105_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7228" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4702105_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/07/4702105_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>食べる前から仏</h2>
<p>ここで本題の「食べて成仏」という話に戻りましょう。</p>
<p>要するに、曹洞宗の立場からすれば動物も食事もはじめから仏のいのちです。</p>
<p>そしてそのはたらきを損なわないように食べ、生きていくのが、曹洞禅の食の教えです。</p>
<p><span class="sc_marker y">儀礼や食べることで初めて仏になるという殺生仏果論的な在り方とは、わずかなようで大きな違いがある</span>のです。</p>
<p><strong><span class="sc_marker red">曹洞宗で「食べて成仏」という時には、その後の生き方まで含めて、断続的に仏のいのちを繋いでいくという意味でなければならない</span></strong>でしょう。</p>
<p>これは殺生仏果論を否定するものではありません。</p>
<p>曹洞宗のいのちの捉え方や食の教えが、今<span class="sc_marker y">後の社会で果たしうる役割が浮かびあがってくる</span>のです。</p>
<h2>曹洞禅の食の可能性</h2>
<p>先ほど触れた通り、殺生仏果論は結果的に職業としての猟(漁)やと畜そのものを肯定できるものではなかったといえるでしょう。</p>
<p>儀礼のためには認められるのであって、根本的には罪であるという認識を変えるものではなかったことは、職業差別・部落差別が生まれる要因の一つとなっていったと考えられます。</p>
<p>これは長い歴史の中で社会全体に認識された感覚だったはずなので、曹洞宗の僧侶といえど、もしかするとこれを信じていたこともあるかもしれません。</p>
<p>しかし、今改めて曹洞禅の食の教えを見直した時、様々な問題を好転させていく可能性があるのではないでしょうか。</p>
<p>例えば、このコラムの出発点でもある食肉加工場、と畜業従事者の方への職業差別や、鯨肉や犬肉などの特定の食文化に対する攻撃など、動物のいのちや食をめぐる人権問題や国際問題などの解消の糸口となるかもしれません。</p>
<p>単に「食」というところに止まらない、様々な役割を果たす可能性が、そこにはあるのです。</p>
<p><span style="font-size: 10pt;">参考書籍</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">苅米 一志 (著)「殺生と往生のあいだ: 中世仏教と民衆生活 」(歴史文化ライブラリー・2015年)</span><br />
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		<title>【肉を食べるということ】「三種の浄肉」の危うさ</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7164</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 17 Jun 2021 16:07:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗僧侶の視点から肉食について考察しているこの企画。 前回は曹洞宗に伝わる食の教えを、改めて宗旨によって裏付け、３つの特徴として整理しました。 なぜわざわざこんなことをするかというと、曹洞宗の僧侶には教えの上で食を理解…]]></description>
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<p>曹洞宗僧侶の視点から肉食について考察しているこの企画。</p>
<p>前回は曹洞宗に伝わる食の教えを、改めて宗旨によって裏付け、３つの特徴として整理しました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/7085" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/ブログサムネ-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「三種の浄肉」の危うさ"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「曹洞禅の食」の３つの特徴</div><div class="date">2021.5.21</div><div class="substr">スポンサードリンク このブログも開設から３年が経ち、これまで色んな記事を書いてきた私ですが、唯一同じテーマでずっと続いてきた連載があります。 それが、肉食と仏教を考察する【肉を食べるということ】シリーズです。 仏教徒として、さらにその中でも曹洞宗の僧侶として肉食と、それに関連した様々な問題にどう向き...</div></a></div>
<p>なぜわざわざこんなことをするかというと、<span class="sc_marker red">曹洞宗の僧侶には教えの上で食を理解する機会がなかなかないから</span>です。</p>
<p>関心や疑問を持った方は、その意味や思想的な背景を調べたり、考察を加えたりしますが、<span class="sc_marker blue">多くは修行道場で教わった食べ方、あるいは作り方が根拠であり、全てになってしまいます</span>。</p>
<p>そしてその中でも、<span class="sc_marker y">認識が曖昧なものが肉食の扱い方</span>です。</p>
<p>自分は食べているけど、本当はよくないことなんじゃないか、でも師匠も周りのお坊さんも食べているし…。</p>
<p>そんな疑問を抱えている僧侶がたくさんいます。</p>
<p>その辺りについてはこの連載で一つの見解を出しているので、記事をご覧ください。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/4774" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/Collage_Fotor_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「三種の浄肉」の危うさ"></div><div class="title">肉を食べるということ〜曹洞宗の立場から考える〜vol.0</div><div class="date">2020.3.16</div><div class="substr">スポンサードリンク 永平寺での修行にて曹洞宗の食の教えと出会い、その後食肉加工場を見学したことで屠畜解体業への差別の歴史と、それが部落差別にもなっていったという事実を知った私。 そこで、僧侶である自分は肉食をどう考えていくべきなのかをこの連載で書いてきました。 まず、「残酷さ」や「ショッキングさ」の...</div></a></div>
<p>今回、テーマとしたいのは、人から肉を食べるか聞かれた時の<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="font-size: 14pt;">根拠</span></strong></span>についてです。</p>
<p><strong>「なんでも大切にいただくのが私たちの信仰」</strong>といった答え方もあるでしょう。</p>
<p>中でも、<strong>意外性というカウンターを含めながら納得してもらえる有効なアンサー</strong>が</p>
<p><span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker y">「お釈迦様の時代はなんでも食べていたんですよ」</span></p>
<p>というもの。</p>
<p>これ自体は全く問題ないのですが、少し踏み込む方はこんなことを言う場合があります。</p>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;">「三種の浄肉であれば問題ないんですよ」</span></p>
<p>この「三種の浄肉」という言葉について、今日は考えてみたいと思います。</p>
<h2>三種の浄肉とは？</h2>
<p>三種の浄肉とは、<strong>『四分律』</strong>というお釈迦様在世の頃の生活規則に登場する、<span class="sc_marker y">食べて良い肉の規程</span>のことです。</p>
<p>先ほど述べた通り、お釈迦様がいたインドでの修行生活では、<span class="sc_marker y">殺生は戒めても肉食禁止の決まりはありません</span>でした。</p>
<p>ただし、肉の中でも<span class="sc_marker y">人や犬や蛇、象や馬などの10種類の生き物の肉は、食べてはならない</span>とされています。</p>
<p>これらの肉は倫理的に禁じられたというより、<span class="sc_marker red">当時の社会で批判されたり、その動物の報復に遭う可能性が高かったことが選定の理由</span>のようです。</p>
<p>そして、<span class="sc_marker y">その10種を除いた上で、食べてよいとされたのが、「三種の浄肉」</span>でした。</p>
<p>三種の浄肉とはつまり、３種類の清らかな肉があるということではなく、以下の<span class="sc_marker y">３つの条件を満たした肉</span>のことを指します。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>①屠畜解体するところを見ていない。(不故見）</strong></span><br />
<span class="sc_marker red"><strong>②自分のために食肉にされたと聞いていない。（不故聞）</strong></span><br />
<span class="sc_marker red"><strong>③自分のために食肉にされたという疑いがない。（不故疑）</strong></span></p>
<p>これら見・聞・疑にあたらない肉が、食べても良い肉、浄肉とされたのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/a5db0e8444fef156812be399ccbe069d_s-min-300x201.jpg" alt="" width="300" height="201" class="alignnone size-medium wp-image-4830" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/a5db0e8444fef156812be399ccbe069d_s-min-300x201.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/03/a5db0e8444fef156812be399ccbe069d_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>何をもって「浄」なのか？</h2>
<p>ではなぜ、見・聞・疑に当たらない肉を「浄」としたのでしょうか。</p>
<p>それはやはり、動物を屠畜解体する過程が無関係とは言えません。</p>
<p>しかし、ここで大切なのは、食べる前にと畜されるところを見たり、自分のために特別に屠畜してくれたと聞いたり、その疑いがあることが、<span class="sc_marker y">なぜいけないのか</span>、という点です。</p>
<p>実は三種の浄肉は、<span class="sc_marker red">日本とは全く異なる社会背景の中でお釈迦様が定められた規定</span>です。</p>
<p>インドでは、<strong>修行僧は托鉢をして民家からの供養によって食事を得ます</strong>。</p>
<p>つまり、「となりの晩ご飯」よろしく、そのお家の食事を分けてもらうわけです。</p>
<p>ただし、この托鉢の習慣は民間にも根付いていたので、最初から分ける前提で多めに食事を作っていたことでしょう。</p>
<p>そうなると、<strong>当然あれが食べたいこれは食べたくないということは言えず、肉でも魚でもいただいたら食べることになります</strong>。</p>
<p>この、<span class="sc_marker red">好き嫌いや要求をしないことに、非常に大きな意味があります</span>。</p>
<p>例えば、偶然食事を作るところを見て、<span class="sc_marker y">「ああ、今日はあの動物の肉が入るんだなあ」と知ってから食べた食事がとてつもなく美味しかったらどうでしょう？</span></p>
<p>あるいは、<span class="sc_marker y">出家以前に豚肉が大好きだった人が、豚を解体し料理するお宅を見かけたら…</span>。</p>
<p>おそらく、<strong>よだれが垂れるほど食欲が湧いてしまうでしょう</strong>。</p>
<p>また、自分のために屠畜をしたと聞いた、あるいはその疑いがあるのがなぜいけないのでしょうか。</p>
<p>当時は托鉢に限らず、修行僧の集団を招いて食事の場を設けるという供養の形態もあったようなので、それに際して事前に</p>
<p>「私はあの、なんていったけな、ぶ…た肉っていうのかな？あの肉が嫌いじゃないようなきがするなあ」</p>
<p>といった具合に<span class="sc_marker y">遠回しなリクエストが出来てしまうと、それもやはり欲を満たすための食事になってしまいます。</span></p>
<p>私は、この見・聞・疑というのは、<strong><span class="sc_marker red">供養を受ける修行僧たちが、欲を満たすための食事をしないため、ひいては、欲を満たすための殺生をさせないための規定</span></strong>なのではないかと思うのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/06/810409_s-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7167" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/06/810409_s-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/06/810409_s-min.jpeg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>現代日本における三種の浄肉の危うさ</h2>
<p>これを踏まえて、<span class="sc_marker red"><strong>私は三種の浄肉という規定は日本では機能しないと考えています</strong></span>。</p>
<p>なぜなら、日本の僧侶は托鉢で食事を得ているわけではないし、<span class="sc_marker blue">スーパーに売っている肉は屠畜を見ていないし自分のためにやったものではない、なんていう屁理屈がまかり通ることになってしまう</span>からです。</p>
<p>以前「五観の偈」の<strong>「一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る」</strong>という一節をご紹介しました。</p>
<p>曹洞宗の食の布教の現場ではかなりの割合で取り上げられる部分ですが、実は現代人は<span class="sc_marker y">「彼の来処」が計れない環境で生活をしています</span>。</p>
<p>いや、歴史的に少しずつそうなってきました。</p>
<p>石器時代にはみんなで動物を追いかけて捕まえ、みんなで行っていたであろう屠畜が、徐々に人目のつかない場所へと移されて、今に至っています。</p>
<p>その結果、牛がどうやってカルビになるか知らないまま、焼肉を食べています。</p>
<p><span class="sc_marker blue">この環境で僧侶が「三種の浄肉なら食べていい」と言った場合、どうなるでしょうか。</span></p>
<p>それは、漁業や食肉加工業の従事者に色んな責任を押し付けて、<span class="sc_marker red">自分が手を汚さなければいい、という話になってしまう</span>のです。</p>
<p>もちろん、これまで書いてきた通り、漁業や食肉加工業をした手は汚れてなんかいません。</p>
<p>しかし、現代で安易に三種の浄肉を扱うと、そうした重大な人権問題へとつながっていく危うさがあります。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5472" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>不浄肉にならない生き方</h2>
<p>私は、<span class="sc_marker y">スーパーに並んでいるお肉も、漁師である叔父が釣って送ってくれる魚も、同じく私を思って供養してくれた食べ物</span>だと思っています。</p>
<p>畜産業・食肉加工業に携わる方々が、誰の口に入るかはわからないけれど、<span class="sc_marker y">消費者を思って丁寧に生産してくれたお肉は、「私のため」であっても不浄などではないはず</span>です。</p>
<p>それよりも、食事をいただく自分が、<strong>それを食べるために欲をかいたり人を傷つけてはいないか、悪いことをするために食事をいただこうとしてはいないか、という反省をすること</strong>が重要なのではないでしょうか。</p>
<p>それはそのまま「五観の偈」の</p>
<p><span id="i-3">「<strong>二つには己が徳行の、<ruby>全欠<rt>ぜんけっ</rt></ruby><ruby>を<rt>と</rt></ruby><ruby>忖<rt>はか</rt></ruby>って<ruby>供<rt>く</rt></ruby>に応ず</strong>」「<strong>五つには成道の為の故に、今此の食を受く</strong>」に繋がっています。</span></p>
<p>要するに、<span class="sc_marker red"><strong>生産者が消費者を思って作ってくれた浄肉を、私たちが不浄肉にしてしまわないように生きていくこと、これに尽きる</strong></span>のだと、私は思うのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3029056_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-5324" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3029056_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3029056_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>三種の浄肉は日本の祖師方でも引用されている方がたくさんいらっしゃり、当然そこにも私たちが学ぶべき教えはあるでしょう。</p>
<p>しかし、現代で「曹洞禅の食」というものを説く立場で考えてみた時に、ここには非常に危うい面があると、私は捉えています。</p>
<p><span class="sc_marker y">禁止と命令によって萎縮しながらではなく、積極的な実践によって食を捉えることができるとよい</span>のではないでしょうか。</p>
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<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>【肉を食べるということ】「曹洞禅の食」の３つの特徴</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/7085</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/7085#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 May 2021 15:36:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク このブログも開設から３年が経ち、これまで色んな記事を書いてきた私ですが、唯一同じテーマでずっと続いてきた連載があります。 それが、肉食と仏教を考察する【肉を食べるということ】シリーズです。 仏教徒として、さらにその中でも…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>このブログも開設から３年が経ち、これまで色んな記事を書いてきた私ですが、唯一同じテーマでずっと続いてきた連載があります。</p>
<p>それが、肉食と仏教を考察する<strong>【肉を食べるということ】</strong>シリーズです。</p>
<p>仏教徒として、さらにその中でも曹洞宗の僧侶として肉食と、それに関連した様々な問題にどう向き合うか、ということをこれまで考察してきました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/1842" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/236173896940994459bc800b1e71fb57_s-min_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「曹洞禅の食」の３つの特徴"></div><div class="title">【肉を食べるということ】食肉加工場にいってきました vol.1</div><div class="date">2019.6.13</div><div class="substr">スポンサードリンク  「お坊さんってお肉食べていいの？」 これはとてもよくある質問です。 最初に言います。 お肉大好き！ 牛豚鶏はもちろん、羊やイノシシ、ワニやウミガメも美味しく食べたことがあるくらい、お肉ならドンと来いという感じです。 ちなみに禅活-zenkatsu-メンバーもみんなお肉を食べます...</div></a></div>
<p>これは曹洞宗総合研究センター教化研修部門に所属する私の研究テーマでもあり、この内容に関連して２度学術発表をし、今年も研究を継続しています。</p>
<p>今回は、この発表の内容から「曹洞禅の食」とは一体何か？ということについてお話しします。</p>
<h2>曹洞宗の食＝精進料理？</h2>
<p>まず、曹洞宗の食というと、かなりの割合で<span class="sc_marker blue">＝精進料理として発信されている現状</span>があります。</p>
<p>この点については以前も記事にしておりますが、<strong>精進料理という言葉は曹洞宗の書物や仏教書には登場せず、いつ、どうやって生まれた言葉なのかも定かではありません</strong>。</p>
<p>有力な説としては、仏教伝来後、<strong>貴族の間では宗教行事などに際して身を清めるために行う</strong>「<ruby><strong>精進</strong><rt>そうじ</rt></ruby>」という期間があり、この時に口にされていた食事「<span class="sc_marker y"><strong><ruby>精進物<rt>そうじもの</rt></ruby>」が原型</strong></span>ではないかと言われています。</p>
<p>ただし、この精進は仏教の伝来によって生まれた習慣かというとそうでもなく、仏教伝来のはるか昔、<span class="sc_marker y">『魏志倭人伝』などでも人の死に際しては肉食や飲酒を慎む習慣があった</span>ことから、<strong>日本の土着信仰を仏教がより強くしたものと考えるのが妥当</strong>でしょう。</p>
<p>そのため、精進料理、あるいは精進物の本来の目的は「肉を食べないこと」であり、食べ方や作り方を修行とする要素はそこまで求められていなかったのではないでしょうか。</p>
<p>実際に、江戸時代にポルトガルの宣教師向けに作られた日本語→ポルトガル語の辞書<strong>『日葡辞書』</strong>には「精進」という項目はありますが、「肉を食べないこと」あるいは「肉を使わない料理」という意味しか掲載されません。</p>
<p>ここから、江戸時代には民間では精進という言葉が本来の「仏道に励む」という意味合いから遠のいていた可能性が考えられます。</p>
<p>こうした点から私は、<strong>精進料理とは菜食を目的としながら発展してきた日本の食文化と捉えるべき</strong>だと考えています。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0328-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7087" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0328-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0328-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0328-min-1024x768.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>曹洞宗の食の教えがもつ可能性</h2>
<p>では一方で、その精進料理と曹洞宗の食の教えはどう違うのでしょうか。</p>
<p>これまでの連載で、曹洞宗にとっての<strong><a href="https://zenkatsu.site/archives/4870">いのちの捉え方</a></strong>、<strong><a href="https://zenkatsu.site/archives/5276">不殺生の解釈</a></strong>、そして作り方・食べ方などについてお話ししてきました。</p>
<p>それらを総合すると、曹洞宗の食の教えというのは肉を食べていいかどうか、野菜だけでいかに美味しい料理を作るか、という小さな枠組みに止まるものではなく、<span class="sc_marker red"><strong>「食べる」という行為そのものとの向き合い方</strong></span>なのではないでしょうか。</p>
<p>道元禅師が書かれた『典座教訓』には調理の心構えは説かれても、使う食材の可否には言及されいません。</p>
<p>実際に、それぞれの地域で食を考える上で、菜食を是、肉食を非と語ることができるでしょうか。</p>
<p>酪農や畜産業、漁業の盛んな地域でお檀家さんにそれを言えるでしょうか。</p>
<p>そういうことではないんです。</p>
<p>これまでも書いてきたように、「何を食べるか」ではなく「どう食べ、どう生きるか」が重要なのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0290-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7086" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0290-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0290-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0290-min-1024x768.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>曹洞禅の食の３つの特徴</h2>
<p>それではこうした視点を踏まえ、私はこれまでの記事や研究から以下の３つの特徴を「曹洞禅の食」として定義づけてみました。</p>
<h4>①食物を平等に「いのち」と捉える</h4>
<p>まずは、この連載でも触れたように、曹洞宗の仏性の捉え方から考えれば、動物であろうと植物であろうと、有機物であろうと無機物であろうと、<strong>縁起という法則の上にあるものは全てが「仏のいのち」</strong>になります。</p>
<p>そのため、仮に食べるということが殺生になるというならば、それは植物でも同様です。</p>
<p>逆に言えば、「五観の偈」でも触れたように、食べなければいけない私たちは、<span class="sc_marker y"><strong>肉や魚を食べよう植物を食べようが等しく責任を負って生きていかなければならない</strong></span>のではないでしょうか。</p>
<p>動物性や植物性という分別を加えてしまうことで、様々な争いや差別が生まれているのも事実です。</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong>全てを平等に見て、全てに責任を負うという姿勢</strong></span>、これが曹洞禅の食の第一の特徴です。</p>
<h4>②「仏の命を続ぐ」という能動的な不殺生</h4>
<p>中国や日本の仏教で肉食が戒められてきたのは、不殺生戒を守るというのが一番大きな理由でした。</p>
<p>しかし、曹洞宗の修行の上で、不殺生とは食べないようにする、調理しないようにする、というような<span class="sc_marker red blue">消極的で地雷を避けるようなものではありません。</span></p>
<p>全てのものを「<strong>仏のいのち」として捉えたうえで、そのはたらきが生かされ続ける、生かし切られる在り方のことです。</strong></p>
<p>それは仏教に適った生き方のために栄養を使うこと、と言い換えてもいいでしょう。</p>
<p>心臓が止まった瞬間、根が切られた瞬間にいのちが失われるのではなく、<span class="sc_marker red"><strong>それを口にした人間の生き方に託された、という捉え方をすることで、不殺生は受け身のルールではなく、能動的な実践(持戒)になっていく</strong></span>のです。</p>
<h4>③作り方と食べ方によって修行へ昇華させる</h4>
<p>そして、ここまでの精神を踏まえた上で、作り方と食べ方の両面から向き合うことで、「食べる」という行為が修行となっていきます。</p>
<p>そしてそれは、<span class="sc_marker red"><strong>「僧侶なのにいのちをいただくなんて…」という後ろめたさを抱えたものではなく、仏行として、仏道の真ん中を歩いていく行い</strong></span>です。</p>
<p>欲が生まれ、感情が動きやすい行為だからこそ、修行として大きな意味をもつのだと、私は思います。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0333-min-300x225.jpeg" alt="" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7088" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0333-min-300x225.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0333-min-768x576.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2021/05/IMG_0333-min-1024x768.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>今回のお話は曹洞宗総合研究センター第21回学術大会で発表した内容を、より簡潔にまとめたもので、曹洞宗の布教教化に携わる私の１つの解釈です。</p>
<p>精進料理も素晴らしい食文化で、曹洞宗の教えを実践することのできるものではありますが、その中に曹洞禅の食を収めてしまうのは、可能性を狭めることになるのでは、と私は考えています。</p>
<p>食という行為そのものを仏道の上から捉えたもの、それが「曹洞禅の食」であり、今後の社会で大きな可能性を持った教えであると信じてやみません。</p>
<p>もちろん、世界を見回せば、現代の食には生産・消費ともに問題が散財しています。</p>
<p>今後こうした点にも曹洞宗の立場から考察を加えていきつつ、より社会に生きる曹洞禅の食を発信していく予定です。</p>
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<p>関連記事</p>
<p><a href="https://zenkatsu.site/archives/tag/%e8%82%89%e3%82%92%e9%a3%9f%e3%81%b9%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8/"><strong>【肉を食べるということ】バックナンバー</strong></a></p>
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		<title>執筆200本記念！過去記事を振り返る！</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6848</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6848#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 25 Feb 2021 15:05:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[HIPHOP]]></category>
		<category><![CDATA[ウイグル自治区]]></category>
		<category><![CDATA[シルクロード]]></category>
		<category><![CDATA[ラップ]]></category>
		<category><![CDATA[僧侶がグッときた言葉]]></category>
		<category><![CDATA[禅活の西遊記]]></category>
		<category><![CDATA[精進料理]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 2018年、学生時代の友人から「ブログをやってみないか？」ともちかけられました。 それまでに、曹洞宗総合研究センターの先輩が立ち上げた「S-Labo」で何本か執筆を経験し、禅活としての活動も広げていきたいタイミングだった…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク</p>
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<p>2018年、学生時代の友人から「ブログをやってみないか？」ともちかけられました。</p>
<p>それまでに、曹洞宗総合研究センターの先輩が立ち上げた「S-Labo」で何本か執筆を経験し、禅活としての活動も広げていきたいタイミングだったので、その友人の全面協力のもと、このブログが開設されました。</p>
<p>その友人が<strong>堀田直輝</strong>であり、現在はチャンネル登録者数20万人を超えるYouTuberをプロデュースしています。</p>
<p>禅活にYouTubeを勧めてくれたのも彼で、アクセス解析のことなども堀田から教わりました。</p>
<p>そうして始めたブログですが、はじめの三ヶ月は一人で週５本(今じゃ考えられない)、今は週に１本執筆しています。</p>
<p>そして、<span class="sc_marker red"><strong>開<span style="color: #000000;">設</span>から３年が経としている今回の記事が、私の200本目の記事</strong></span>になります。</p>
<p>今回は執筆200本を迎えて、特に思い入れのある過去の記事を振り返ってみたいと思います。</p>
<p>最近禅活を知った方もぜひここから過去の記事もご覧ください！</p>
<h2>その１：「禅活の西遊記」</h2>
<p>禅活ブログの旅シリーズといえば、やはり<strong>「歩いて帰るもん」</strong>を思い浮かべる方が多いでしょう。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">確かにあの体験や出来事は素晴らしい！</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">そして成し遂げた亮道さんもすごい！</span></p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/3323" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/10/IMG_2463-min-2-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="執筆200本記念！過去記事を振り返る！"></div><div class="title">【永平寺から無一文で歩いて帰るもん】vol.1 プロローグ</div><div class="date">2019.10.21</div><div class="substr">スポンサードリンク  これは私、深澤亮道が４年前に福井から岩手までの７００Kmを無一文で歩いて帰った物語である。 はじめに 先日、Facebookを見ているとたまたま４年前に投稿した記事が出てきました。 ４年前、私は福井県にある大本山永平寺での４年８ヶ月の修行を終え、実家のお寺がある岩手県花巻市まで...</div></a></div>
<p>しかし！このブログで初めて投稿した旅の記録は、この<span class="sc_marker red"><strong>「禅活の西遊記」</strong></span>でした。</p>
<p>まだ智照さんが禅活に加入する前、私と亮道さんと真大さんは、曹洞宗総合研究センター有志による、<span class="sc_marker red"><ruby>敦煌<rt>とんこう</rt></ruby>〜<ruby>烏魯木斉<rt>うるむち</rt></ruby>までのシルクロードを辿る旅</span>に参加しました。</p>
<p>西遊記で三蔵法師が天竺を目指したその道のりでは、想像を遥かに超える絶景や美味しい食事と出会いました。</p>
<p>しかしその地域は、正確には<span class="sc_marker red"><strong><ruby>新疆<rt>しんきょう</rt></ruby>ウイグル自治区</strong></span>といいます。</p>
<p>「禅活の西遊記」はそんな新疆ウイグル自治区に残る仏跡を巡ると共に、現地で感じたことを書いています。</p>
<p>果物や野菜が美味しかったこと、砂漠でバギーの乗ったことなど、楽しかったこともあります。</p>
<p>しかし昨今報道がなされるように、そこにはどことなく息苦しさや不安な空気が漂っていました。</p>
<p><strong>様々な報道を目にするようになり、あの時ライチを買ったお店のおじさんや、挨拶に答えてくれたおばちゃんが無事であることを願っています。</strong></p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/176" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2018/07/IMG_7410_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="執筆200本記念！過去記事を振り返る！"></div><div class="title">禅活の西遊記〜シルクロードを訪ねて〜 vol.0</div><div class="date">2018.7.25</div><div class="substr">スポンサードリンク 2018年6月12~19日にかけて、禅活メンバーの三人は中国の西域、敦煌とんこう〜烏魯木斉うるむちに行ってきました。 地名にピンと来ない方も多くいらっしゃるかもしれませんが「西遊記」で三蔵法師が経典を求めてインドに行ったルートやシルクロードというと少し馴染みがあるかもしれません。...</div></a></div>
<h2>その２：「僧侶がグッときた言葉」</h2>
<p>自分の好きなヒップホップカルチャーと布教教化活動を結びつけようと模索し始めたのは、禅活を立ち上げる以前、<a href="https://s-labo.org/2017/02/17/214%e3%81%ae%e3%83%95%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%ab%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%81%ab%e5%83%a7%e4%be%b6%e3%81%af%e4%bd%95%e3%82%92%e6%83%b3%e3%81%86/"><strong>S-Labo</strong></a>で執筆していた頃でした。</p>
<p>ヒップホップというカルチャーに、私は深い自己省察という仏教に通ずる要素を感じていたからです。</p>
<p>そうして、仏教の教えと通ずることを歌っている音楽の歌詞を紹介したのが、この<span class="sc_marker red"><strong>「僧侶がグッときた言葉」</strong></span>シリーズです。</p>
<p>このブログでは５回までで、その後は私個人の<a href="https://note.com/toshi0284"><strong>note</strong></a>に移行、そして現在はYouTubeへと引き継がれました。</p>
<p>そしてなんと、これがきっかけでJ-WAVEの<strong>「SONAR MUJIC」</strong>という番組で<span class="sc_marker red">ラジオ出演も果たすことになります</span>。</p>
<p>仏教と音楽の結びつけが強引なこじつけになれば一人よがりになり、きれいに重なれば多くの方に仏教をお伝えできる、自分にとっても刺激的で、やっていて楽しい企画です。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/713" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/02/IMG_5174_Fotor-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="執筆200本記念！過去記事を振り返る！"></div><div class="title">僧侶がグッときた言葉 #1「ゆれるfeat.田我流/EVISBEATS」</div><div class="date">2019.2.2</div><div class="substr">スポンサードリンク いつも当サイトをご覧いただき、誠にありがとうございます！ 私たち禅活-zenkatsu-は禅の教えを生活の中に活かすことを目指して日々活動しています。 その活動の１つがこのWEBメディアであったり、SNSなどのインターネットでの発信です。 Facebookではイベントの情報などを...</div></a></div>
<p><iframe loading="lazy" width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/Uye-i2EFLmc" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<h2>その３：「肉を食べるということ」</h2>
<p>私が禅活としてはもちろん、曹洞宗総合研究センターの研究生として、そして<span class="sc_marker red"><strong>僧侶としてのテーマになっているのが「食」</strong></span>です。</p>
<p>永平寺では食事のいただき方を学んできたと言っても過言ではありません。</p>
<p>幼い頃から食べることが大好きで、それ故に修行中には辛さを感じた反面、曹洞宗の食の教えへの感動はとても大きなものでした。</p>
<p>しかしある時、食肉加工場の見学に行った際、肉を食べるということを巡る様々な差別の歴史と、仏教の影響を目の当たりにしました。</p>
<p>そこで、曹洞宗の僧侶として肉食をどう受け止めていくかを考えているのがこちらの連載<span class="sc_marker red"><strong>「肉を食べるということ」</strong></span>です。</p>
<p>一つの立場、視点としてご覧いただけたら幸いです。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/1842" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/06/236173896940994459bc800b1e71fb57_s-min_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="執筆200本記念！過去記事を振り返る！"></div><div class="title">【肉を食べるということ】食肉加工場にいってきました vol.1</div><div class="date">2019.6.13</div><div class="substr">スポンサードリンク  「お坊さんってお肉食べていいの？」 これはとてもよくある質問です。 最初に言います。 お肉大好き！ 牛豚鶏はもちろん、羊やイノシシ、ワニやウミガメも美味しく食べたことがあるくらい、お肉ならドンと来いという感じです。 ちなみに禅活-zenkatsu-メンバーもみんなお肉を食べます...</div></a></div>
<p>&nbsp;</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>ということで、今回は私がこれまでに書いてきた記事の中から、特に思い入れのあるシリーズをご紹介いたしました。</p>
<p>今後も自分の中の「熱」を動力源として色々と書いていきたいと思います！</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">また、ご意見・ご感想をいただいたり、SNSなどでシェアしていただけると大変励みになります！</span></p>
<p>相変わらずの拙文でお恥ずかしい限りですが、何卒よろしくお願い申し上げます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しんこうの記事一覧は<a href="https://zenkatsu.site/archives/author/nidhida"><strong><span style="font-size: 18pt;">コチラ</span></strong></a></p>
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		<item>
		<title>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑦〜肉食と「五観の偈」〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6502</link>
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		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 28 Oct 2020 15:00:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[コラム]]></category>
		<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[スポンサードリンク 曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。 今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。 前回は「五観…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>スポンサードリンク<br />
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<p>曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。</p>
<p>今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な<strong>「五観の偈」</strong>から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。</p>
<p>前回は「五観の偈」の最後の一節、<strong>「五つには〜」</strong>を考察しました。</p>
<p>ここで、<span class="sc_marker red"><strong>食べるということは仏道を成す為であり、仏道を成すことで食事が仏行となる</strong></span>、ということをお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6466" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/1483784_s_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑦〜肉食と「五観の偈」〜"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑥〜食べて、どうする？〜</div><div class="date">2020.10.23</div><div class="substr">曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。 今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。 前回は「食べる」ということの本質が説かれた「四つには〜」について考えました。 そして今回考察...</div></a></div>
<p>そして今回は、<strong>この連載の主題である肉食を、「五観の偈」に当てはめて考えていきたいと思います。</strong></p>
<h2>作られる肉と、食べる私</h2>
<p>これまで書いてきたように、私は「五観の偈」は<strong>一と二で過去を振り返り</strong>、<strong>三と四で食事の何たるかを確認</strong>し、<strong>五でその後の生き方を誓うという構成になっている</strong>と考えます。</p>
<p>そこでまず、一と二から考えてみましょう。</p>
<h3><span>一つには</span><ruby>功<rt>こう</rt></ruby><span>の多少を計り、</span><ruby>彼<rt>か</rt></ruby><span>の</span><ruby>来処<rt>らいしょ</rt></ruby><span>を量る</span></h3>
<p>この一節は、非常にわかりやすいようですが、現代の日本では容易なことではありません。</p>
<p>野菜でさえその生産過程に触れる機会は少なく、私たちは漠然と畑と農家さんに思いを馳せるくらいしかできない場合もあります。</p>
<p>それが肉となると、<strong>意図的にその生産過程が人目に触れないようにされてきた歴史</strong>があります。</p>
<p>元は狩猟や漁によって、生き物が肉に変わっていく様子を目にしてきた私たちの祖先でしたが、いつしか牛や馬、豚の屠畜は陰で行うようのになっていったのです。</p>
<p>それは、やがて身分差別へとつながり、現在も色濃く残っています。</p>
<p>しかし、<span class="sc_marker red"><strong>曹洞宗の立場から考えれば、あらゆる存在が仏様のいのち、仏性です</strong></span>。</p>
<p>動物か植物か、哺乳類か魚類か、などは関係ありません。</p>
<p>この一節から考えれば、<strong>私たちは口にするものや使用するものの一切に対して、そのご縁にいただいて生きていくという責任を負っているのです。</strong></p>
<h3>二つには己が徳行の、<ruby>全欠<rt>ぜんけっ</rt></ruby><ruby>を<rt>と</rt></ruby><ruby>忖<rt>はか</rt></ruby>って<ruby>供<rt>く</rt></ruby>に応ず</h3>
<p>次に、そんな責任を負っていく私はどんな生き方をしているか？と自問するのがこの一節です。</p>
<p>それは、<strong>前の食事で「成道の為の故に今此の食を受く」と誓ったことに対する反省</strong>でもあります。</p>
<p>肉を食べようが野菜を食べようが、その栄養をしっかりと仏道に活かすことができたか、と振り返ることで、過ちに気づくことができたなら、それも一つの仏行となっていきます。</p>
<p>この、<span class="sc_marker red"><strong>作られた食事と食べる私の両方を考えることで、食べたものがなんであれ、しっかりと仏道に活かされていく</strong></span>のではないでしょうか。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/03/ほっと晩ごはん3月_190307_0052-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-1011" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/03/ほっと晩ごはん3月_190307_0052-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/03/ほっと晩ごはん3月_190307_0052-min-768x511.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/03/ほっと晩ごはん3月_190307_0052-min-1024x682.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/03/ほっと晩ごはん3月_190307_0052-min.jpg 1568w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>肉と煩悩と栄養</h2>
<p>次に、三と四についても考えてみたいと思います。</p>
<h3>三つには心を防ぎ<ruby>過<rt>とが</rt></ruby>を離るることは、<ruby>貪等<rt>とんとう</rt></ruby>を<ruby>宗<rt>しゅう</rt></ruby>とす</h3>
<p>ここでは、<strong>食事の中で煩悩に振り回されないように貪瞋癡の三毒と向き合う</strong>わけですが、肉は煩悩とも関連させられる場合があります。</p>
<p>たとえば、<strong>『正法眼蔵随聞記』</strong>の面山本というバージョンには、こんなお話があります。</p>
<p><em>昔、中国でとある修行僧が、「病気になったので薬(肉)を服用したい」と師匠に申し出た。</em><br />
<em>それを聞いた師匠は、病人が療養する部屋で服用することを許可した。</em><br />
<em>ところが師匠はその様子が気になり、部屋を見に行くと、肉は修行僧が食べているのようで実は頭の上の餓鬼が食べていた。</em></p>
<p>あくまでもこれは話の概要ですが、要するに<strong>薬として食べていた肉は、その修行僧の煩悩が食べていただけだった</strong>、というお話です。</p>
<p>実際に、牛肉や豚肉には<strong>必須アミノ酸や必須脂肪酸</strong>と呼ばれる成分が含まれ、それらの一部は脳内で<strong>トリプトファン</strong>や<strong>テストステロン</strong>などの「<strong>幸福物質</strong>」と呼ばれるものに変換されます。</p>
<p>古くから人間が肉を「ごちそう」と認識したように、<strong>肉食にはこうした一種の快楽に近い要素があるのかもしれません</strong>。</p>
<p>そう考えると<strong>修行や坐禅には適していないのではないか</strong>、とも思えるのですが、ここで次の四に話を移しましょう。</p>
<h3>四つは<ruby>正<rt>まさ</rt></ruby>に<ruby>良薬<rt>りょうやく</rt></ruby>を<ruby>事<rt>こと</rt></ruby>とするは、<ruby>形枯<rt>ぎょうこ</rt></ruby>を療ぜんが為なり</h3>
<p>食事とはあくまでもこの体が朽ちないための良薬です。</p>
<p>体に負荷をかけたり、不健康になるようでは、良薬とは呼べません。</p>
<p>実は、<strong>肉食禁止の色が濃かった日本仏教でも、「薬食い」として肉を口にすることがありました</strong>。</p>
<p>確かに「幸福物質」に依存し、食欲に囚われれしまってはいけませんが、必要な栄養を取らずに不健康になってしまっては、本末転倒です。</p>
<p>結局、この三と四を合わせて考えた時に導き出される答えは</p>
<p><span class="sc_marker red"><strong><span style="font-size: 14pt;">バランスよく食べる</span></strong></span></p>
<p>ということなのではないでしょうか。</p>
<p><strong>極端に食べすぎても、極端に無くしてもいけないのです。</strong></p>
<p>それは修行の本質とも通じているのかもしれませんね。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/DSC_1217-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3043" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/DSC_1217-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/DSC_1217-min-768x512.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/09/DSC_1217-min-1024x683.jpg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>最終的に、生き方</h2>
<p>そして最後にこの一節です。</p>
<h3>五つには<ruby>成道<rt>じょうどう</rt></ruby>の為の故に、今此の<ruby>食<rt>じき</rt></ruby>を受く</h3>
<p>最終的に、ここで肉食をどう受け止めていくかが結論づけられていきます。</p>
<p>以前、不殺生とは自分の生き方によってそのいのちを生かしきることであるとお話ししました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/5470" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/05/3236115_s_Fotor-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑦〜肉食と「五観の偈」〜"></div><div class="title">肉を食べるということ〜曹洞宗の立場から考える〜不殺生としての食</div><div class="date">2020.5.29</div><div class="substr">スポンサードリンク 食肉加工場の見学をきっかけに、肉食に関連した差別や対立について、僧侶の立場から考えるこちらの連載。 前回から、いよいよ曹洞宗としての不殺生の捉え方について書き始めました。 動植物はもちろん、鉱物や加工物に至るまで、この世界にあるもの全てを「仏の命」として捉える曹洞宗にとって、不殺...</div></a></div>
<p>それは、そのままこの一節に通ずるものであるといえるでしょう。</p>
<p><strong>何を食べるかではなく、どう食べるか。</strong></p>
<p><strong>そして食べてからどう生きるかが、牛や豚や鳥や魚のいのちを生かすか殺すかを決めるのです</strong>。</p>
<p>さらに言えば、<span class="sc_marker red"><strong>たとえ何を食べようと一切のいのちを生かしきる生き方をしていこう、という強い意思が、</strong></span>この一節で説かれているのではないでしょうか。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_26432448_190730_0033-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2509" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_26432448_190730_0033-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_26432448_190730_0033-768x513.jpg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_26432448_190730_0033-1024x684.jpg 1024w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/07/ca2721fecd0bb81aa6530ca394d602660_26432448_190730_0033.jpg 1566w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>以上、非常に大まかになってしまいましたが、「五観の偈」から肉食を考えてみました。</p>
<p>勘の良い方はお気づきのことでしょう。</p>
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>結局、普通の食事と変わらなくない？</strong></span>と。</p>
<p>そうなんです。</p>
<p>結局、曹洞宗の立場から考えれば、<strong>何を食べようと姿勢は変わらない</strong>んです。</p>
<p>野菜だろうと肉だろうと、その生産や調理の過程に知らない部分はあるし、ありがたく受け止めなければいけません。</p>
<p>また、どんな食べ物であろうと、そればかり食べようとすれば、それは煩悩だし、栄養が偏りすぎれば健康にも害が出ます。</p>
<p>そして、<span style="font-size: 14pt;" class="sc_marker red"><strong>最終的に問われるのは、自身の食べ方と生き方なのです。</strong></span></p>
<p>むしろ、そうした教えが全て含まれている「五観の偈」の奥深さを、私は今回ん執筆を通して改めて感じています。</p>
<p>この＜「五観の偈」から考える＞シリーズはこれで終了、また新たなテーマへと移っていきたいと思います。</p>
<p>まずはここまで前８回、お付き合いいただきありがとうございました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える　完</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0202-min-300x199.jpeg" alt="" width="300" height="199" class="alignnone size-medium wp-image-6504" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0202-min-300x199.jpeg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0202-min-768x510.jpeg 768w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/DSC_0202-min-1024x680.jpeg 1024w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
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			</item>
		<item>
		<title>【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑥〜食べて、どうする？〜</title>
		<link>https://zenkatsu.site/archives/6466</link>
					<comments>https://zenkatsu.site/archives/6466#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[西田稔光]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 22 Oct 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[食]]></category>
		<category><![CDATA[修行]]></category>
		<category><![CDATA[曹洞宗]]></category>
		<category><![CDATA[肉]]></category>
		<category><![CDATA[肉を食べるということ]]></category>
		<category><![CDATA[連載]]></category>
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					<description><![CDATA[曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。 今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。 前回は「食べる」ということの本質…]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。</p>
<p>今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。</p>
<p>前回は<strong>「食べる」ということの本質が説かれた「四つには〜」</strong>について考えました。</p>
<div class="sc_getpost"><a class="clearfix" href="https://zenkatsu.site/archives/6430" ><div class="sc_getpost_thumb post-box-thumbnail__wrap"><img src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/名称未設定のアートワーク-4-min-150x150.jpg" width="150" height="150" alt="【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑥〜食べて、どうする？〜"></div><div class="title">【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑤〜食べることの本質〜</div><div class="date">2020.10.14</div><div class="substr">スポンサードリンク 曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。 今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。 前回は折り返し地点。 「三つには〜」を考察しました。  今回考察する一文...</div></a></div>
<p>そして今回考察するのは最後の一文。</p>
<p><span style="font-size: 14pt; color: #ff0000;"><strong>五つには<ruby>成道<rt>じょうどう</rt></ruby>の為の故に、今此の<ruby>食<rt>じき</rt></ruby>を受く</strong></span></p>
<p>ここまでを総括することになる一節ですので、ぜひお付き合いください。</p>
<h2>「食べてから」の在り方</h2>
<p>ここまで、「五観の偈」で説かれる四つの視点をご紹介してきました。</p>
<p>これはあくまで個人的な考察ですが、「五観の偈」は食事を中心に過去・現在・未来に思いを巡らせる構成になっています。</p>
<p>一と二は、食事が目の前にやってくるまでのご縁、そして食事を前にするまでの自身の行いという<strong>過去を振り返る視点</strong>です。</p>
<p>三と四は、食事中に気を付けるべきことと忘れてはならない本質を再確認する、<strong>食事を目の前にした現在の視点</strong>。</p>
<p>そして今回の五は、食事を食べた後の生き方、つまり<strong>未来の視点</strong>と考えられるのです。</p>
<p>これを踏まえて、この一文を見ていきましょう。</p>
<p>この一文は解説がいるほど難しくありません。</p>
<p>その意味は実にシンプルで</p>
<p><span class="sc_marker red" style="font-size: 14pt;"><strong>成道するために、今この食事をいただく。</strong></span></p>
<p>ただこれだけのことなんです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/3255856_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6482" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/3255856_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/3255856_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>曹洞宗の「成道」</h2>
<p>ここで「<span class="sc_marker red"><strong>成道</strong></span>」という単語についてだけ触れておきましょう。</p>
<p>12月8日の仏成道会でも広く知られていますが、成道とは「<strong>道を成す</strong>」ことです。</p>
<p>つまりは<strong>仏道を成し遂げること</strong>、一番簡単な表現で言えば「悟りを開くこと」です。</p>
<p>ただし、曹洞宗はこの成道に対する解釈が少し特殊で、説明が必要です。</p>
<p>曹洞宗では、<span class="sc_marker blue"><strong>成道は長い道のりの先にあるゴールのようには捉えません</strong></span>。</p>
<p>一般的には、修行を頑張って頑張って、その先に悟りがあるものだと思われることが多いですが、曹洞宗は違うんです。</p>
<p>曹洞宗では、お釈迦様が示された<span class="sc_marker red"><strong>道を歩むことそのもの、いわば教えに適った修行そのものが「さとり」であると</strong></span>捉えます。</p>
<p>以前もご紹介した、私の尊敬する故・<strong>奈良康明老師</strong>は<span class="sc_marker red"><strong>〈「仏への道」が「仏の道」である〉</strong></span>という風におっしゃいました。</p>
<p>それは、お釈迦様の心に近づきたいと願い、<span style="color: #ff0000;"><strong>迷いながらも歩むその一歩一歩こそがさとりである</strong></span>、ということです。</p>
<p>そのため、曹洞宗の立場から「五観の偈」で言う成道を捉えると、<span style="color: #000000;" class="sc_marker red"><strong>それは遠い未来のことではなく、食事をいただいたその瞬間からの話になります</strong></span>。</p>
<p>そうすると、この一文には、お釈迦様の教えの実践である食事作法に則り、</p>
<p><span style="color: #ff0000;"><span style="font-size: 14pt;"><strong>食事のひと口ひと口、生活の一挙手一投足を「成道」にしていく為に食事をいただく</strong></span>、</span></p>
<p>という意味が見えてくるのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/1261164_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-6479" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/1261164_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2020/10/1261164_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>仏道を歩む燃料</h2>
<p>前シリーズで、肉食と不殺生について考えました。</p>
<p>そこで、<strong>「何を食べるか」が不殺生になるわけではない、「どう食べ、どう生きるか」次第で殺生にも不殺生にもなる</strong>という結論に至りました。</p>
<p>この<strong>「どう食べ、どう生きるか」ということのアンサーとなるのが、「成道の為の故に今此の食を受く」なのです</strong>。</p>
<p>三で、この食は欲を満たすためのものではないと自らを戒め、</p>
<p>四で、この食時は生きていくための薬なんだと再確認し、</p>
<p>そして最後に、ここまで全てを含め「仏道を歩んでいくためにこの食事をいただきます」と、この食事とこれからの人生に思いを巡らせます。</p>
<p>さらに、この一食に込められた計り知れないご縁や、これまでの自分の至らなさも、<strong>「全てこれからの生き方で応えてみせます」という誓い</strong>までもが、ここには含まれているのです。</p>
<p>仏教というのは、<strong>今、この瞬間からをどうするかを大切にします</strong>。</p>
<p>過去の失敗もあるでしょう。</p>
<p>しかし、それも生き方次第では必要な糧となります。</p>
<p>そのために、私はこの食事をいただくのです。</p>
<p><img loading="lazy" src="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/7539986a52b137dacac45b8910feb22a_s-min-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-3760" srcset="https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/7539986a52b137dacac45b8910feb22a_s-min-300x200.jpg 300w, https://zenkatsu.site/wp-content/uploads/2019/11/7539986a52b137dacac45b8910feb22a_s-min.jpg 640w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></p>
<h2>まとめ</h2>
<p>「五観の偈」とは、食事を仏道修行としていくための五つの視点でした。</p>
<p>そして今回の五つめの視点は、ここまでの一〜四を全てを含んで、「食べてからどう生きるか」を自らに問うものでした。</p>
<p>一〜四までのように食事を分析することだけなら、頭の中でできることです。</p>
<p>しかし最後に、<span class="sc_marker red"><strong>「じゃあ、あなたはどう生きるの？」という問いかけがあることで、食事が実践を伴う仏道修行として現前するのです。</strong></span></p>
<p>次回は「五観の偈」全体を振り返り、肉食や不殺生との関連を考察し、今シリーズを終えたいと思います。</p>
<p>つづく</p>
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<p>動画版<br />
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