【肉を食べるということ】「五観の偈」から考える⑥〜食べて、どうする?〜

曹洞宗の僧侶として、肉食や食肉加工に携わる方々への差別、そして「食べる」ということを考えるこちらの連載。

今シリーズでは、食前のお唱えとして有名な「五観の偈」から、曹洞宗としての食の在り方を考察しています。

前回は「食べる」ということの本質が説かれた「四つには〜」について考えました。

そして今回考察するのは最後の一文。

五つには成道じょうどうの為の故に、今此のじきを受く

ここまでを総括することになる一節ですので、ぜひお付き合いください。

Contents

「食べてから」の在り方

ここまで、「五観の偈」で説かれる四つの視点をご紹介してきました。

これはあくまで個人的な考察ですが、「五観の偈」は食事を中心に過去・現在・未来に思いを巡らせる構成になっています。

一と二は、食事が目の前にやってくるまでのご縁、そして食事を前にするまでの自身の行いという過去を振り返る視点です。

三と四は、食事中に気を付けるべきことと忘れてはならない本質を再確認する、食事を目の前にした現在の視点

そして今回の五は、食事を食べた後の生き方、つまり未来の視点と考えられるのです。

これを踏まえて、この一文を見ていきましょう。

この一文は解説がいるほど難しくありません。

その意味は実にシンプルで

成道するために、今この食事をいただく。

ただこれだけのことなんです。

曹洞宗の「成道」

ここで「成道」という単語についてだけ触れておきましょう。

12月8日の仏成道会でも広く知られていますが、成道とは「道を成す」ことです。

つまりは仏道を成し遂げること、一番簡単な表現で言えば「悟りを開くこと」です。

ただし、曹洞宗はこの成道に対する解釈が少し特殊で、説明が必要です。

曹洞宗では、成道は長い道のりの先にあるゴールのようには捉えません

一般的には、修行を頑張って頑張って、その先に悟りがあるものだと思われることが多いですが、曹洞宗は違うんです。

曹洞宗では、お釈迦様が示された道を歩むことそのもの、いわば教えに適った修行そのものが「さとり」であると捉えます。

以前もご紹介した、私の尊敬する故・奈良康明老師〈「仏への道」が「仏の道」である〉という風におっしゃいました。

それは、お釈迦様の心に近づきたいと願い、迷いながらも歩むその一歩一歩こそがさとりである、ということです。

そのため、曹洞宗の立場から「五観の偈」で言う成道を捉えると、それは遠い未来のことではなく、食事をいただいたその瞬間からの話になります

そうすると、この一文には、お釈迦様の教えの実践である食事作法に則り、

食事のひと口ひと口、生活の一挙手一投足を「成道」にしていく為に食事をいただく

という意味が見えてくるのです。

仏道を歩む燃料

前シリーズで、肉食と不殺生について考えました。

そこで、「何を食べるか」が不殺生になるわけではない、「どう食べ、どう生きるか」次第で殺生にも不殺生にもなるという結論に至りました。

この「どう食べ、どう生きるか」ということのアンサーとなるのが、「成道の為の故に今此の食を受く」なのです

三で、この食は欲を満たすためのものではないと自らを戒め、

四で、この食時は生きていくための薬なんだと再確認し、

そして最後に、ここまで全てを含め「仏道を歩んでいくためにこの食事をいただきます」と、この食事とこれからの人生に思いを巡らせます。

さらに、この一食に込められた計り知れないご縁や、これまでの自分の至らなさも、「全てこれからの生き方で応えてみせます」という誓いまでもが、ここには含まれているのです。

仏教というのは、今、この瞬間からをどうするかを大切にします

過去の失敗もあるでしょう。

しかし、それも生き方次第では必要な糧となります。

そのために、私はこの食事をいただくのです。

まとめ

「五観の偈」とは、食事を仏道修行としていくための五つの視点でした。

そして今回の五つめの視点は、ここまでの一〜四を全てを含んで、「食べてからどう生きるか」を自らに問うものでした。

一〜四までのように食事を分析することだけなら、頭の中でできることです。

しかし最後に、「じゃあ、あなたはどう生きるの?」という問いかけがあることで、食事が実践を伴う仏道修行として現前するのです。

次回は「五観の偈」全体を振り返り、肉食や不殺生との関連を考察し、今シリーズを終えたいと思います。

つづく

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