スポンサードリンク
去る2月2日は、節分でした!
なんでも2月2日が節分となるのは124年ぶりとのことです。
禅活のYouTubeLiveでも節分をテーマにお話ししましたが、恵方巻きを召し上がったという方も多いのではないでしょうか。
今回は節分にちなんで、まんが日本昔ばなしの「節分の鬼」を紹介しつつ、
「鬼」について少し考えてみたいと思います。
Contents
「節分の鬼」あらすじ
まんが日本昔ばなしというと、日本各地の説話や物語を題材にした10分程度のアニメーション作品です。
作品のバリエーションはとても豊かで、
夜ひとりでトイレに行けなくなるほど恐ろしいホラー作品や、
思わず頷いてしまうほど含蓄に富んだ作品、
また常田富士男さんと市原悦子さんによる独特なストーリーテリングも大きな魅力と言えるでしょう。
今回紹介したいまんが日本昔ばなし「節分の鬼」は、
その中でも、心温まりつつも深く考えさせられるストーリーに仕上がっている、日本昔ばなし屈指の名作です。
そのあらすじがコチラ。
昔、ある山里に、妻も子供にも先立たれた一人暮らしの貧乏な爺さんがいました。爺さんは毎日二人のお墓にお参りすることだけが楽しみでした。
やがて冬になり、村はすっぽりと深い雪に埋もれ、爺さんもじっと家の中に閉じこもっていました。節分の日、寂しさに耐えられず、爺さんは雪に埋まりながら二人の墓参りに出かけました。村のどの家からも「鬼は外ー、福は内ー」と楽しそうな家族の声が聞こえてきました。爺さんはしみじみ一人ぼっちが身に染みて、涙があふれて止まりませんでした。
墓参りから帰った爺さんは、息子が生きていた頃に作ってくれた鬼のお面を取り出して、昔の楽しかった時を思い出していました。「妻も子供ももういない、ましてや福の神からはとっくに見放されている…」そう思った爺さんは、鬼の面をかぶり、わざとあべこべに叫びながら豆をまき始めました。「鬼は内ー!福は外ー!」
すると、爺さんの家に誰かが訪ねてきました。それは、節分の豆に追われた鬼たちでした。この家に客人とは何年ぶりでしょう、たとえ鬼でも爺さんは嬉しくなりました。鬼たちはみんな爺さんの家に集まり、持ってきた甘酒やらご馳走やらで大宴会が始まりました。やがて朝になると、鬼たちは「来年も来るから」と上機嫌で帰って行きました。
やがて春になった頃、爺さんは鬼の置いて行ったお金で二人の墓を立派に作り直しました。そして「おら、もう少し長生きすることにしただ。来年も鬼を呼ばないといけないからなぁ」と晴れ晴れした顔で言いました。(※まんが日本昔ばなし~データベース~より引用)
たった10分間の物語の中に、妻と子を喪い村に一人で住むおじいさんの悲しみや怒り、そして「鬼」たちによる救いが見事に凝縮されています。
物語の一番の見どころは、おじいさんが妻と子の存命だったころを懐かしみ、当時使っていた鬼の面を顔に付けたシーン。
鬼の面をつけた瞬間、おじいさんの目にメラメラと炎が浮かび上がります。
その時おじいさんは、世の不条理への嘆き、怒り、悲しみなど普段押さえつけていた様々な感情の奔流にさらされたことでしょう。
「鬼は内!福は外!」の掛け声に、おじいさんの人生へのやる方ない思いがあふれ出しています。
動画リンクなどは明記いたしませんが、興味のある方は是非視聴してみてください。
鬼を迎え入れたおじいさん
「鬼」というと、暴力や不条理、あるいは疫病や飢饉などの厄災の象徴として基本的には「悪」として描かれます。
しかし「鬼=悪」と認識される一方で、
日本の物語には、改心してその力を世のため人のため役立てようとする「鬼」が居たり、
「節分の鬼」のようにどこかコミカルで憎めない役回りを演じる鬼も登場します。
ひたすらに悪行を行い、害をなす存在というだけではないというのが、日本の物語に登場する鬼の重要なポイントではないでしょうか。
今回紹介した「節分の鬼」において注目したいのは、悪の象徴として節分に祓われる「鬼」たちをおじいさんが受け入れ、
結果的に生きていく希望を見出すことができたというところ。
「悪」とされている「鬼」をあえて受け入れることによって、光明が差すというのはどういうことでしょうか。
心の中の鬼=煩悩?
鬼という言葉を含むことわざに、
「来年の話をすると鬼が笑う」
というものがあります。
この意味は、「将来のことはわからないのだから、あれこれ言っても意味がない。 予測できない未来のことを言うと、鬼がバカにして笑う」というものです。
これは、私たちが根拠に欠ける希望的観測や悲観的観測に流されてしまうことを戒めた言葉だと思います。
鬼、とは私たちの心の中にある、弱さ、と言い換えることができるかもしれません。
心の中にある「弱さ」が、鬼という「強くて恐ろしいもの」として現れるというのは、人間の苦しみの姿の一つではないでしょうか。
人として、負の感情を抱くことなしに生きてこられるというのは、本当に稀なことだと思います。
嫉妬、憎悪、憤怒、愛欲、悲嘆……こうした感情は人間が当たり前に持つ「弱さ」であると同時に、
ひとたび心の中で巻き起これば、他のことが全く目に入らなくなってしまうくらい「強く恐ろしい」力を持ちます。
あえて、「弱さ」という言葉を使いましたが、私は様々な物語に登場する強くて恐ろしい「鬼」が人間の「煩悩」を暗示するものとして描かれていることに注目したいと思います。
煩悩を心に持ちながら生きる
実際問題、人間が心の中の鬼、煩悩を完全に追い出すことはほとんど不可能です。
悩みながら、迷いながら、生きていかざるを得ないというのが人間の本質だと私は考えています。
そこで煩悩に蓋をしたり、目を背けたりするのではなく、自分の煩悩を自覚し、その煩悩とともに生きる。
煩悩に任せるのではなく、煩悩に向き合いながら生きる。
こういう姿勢が必要になってくるのではないでしょうか。
「節分の鬼」に登場するおじいさんは、村はずれで一人ぼっちさみしく生きていました。
そこには、幸せそうに暮らす家族への嫉妬や、一人で生き抜く意地、現状への嘆きなどが少なからずあったことと思います。
「鬼は内!福は外!」
この言葉はやけっぱちの絶叫というだけでなく、
自分の心の中に煩悩という鬼が住んでいて、気が付いていないだけで自分も暮らしている外の環境に福があるのだ。
こういった意味にも捉えることができます。
物語の終わりに、鬼たちと節分の夜を過ごしたおじいさんは、妻と子のお墓の前で生きる希望を見出しました。
これは「鬼」に象徴される自分の煩悩を受け入れたとき、同時におじいさんは「福」の存在に気が付いたと解釈することはできないでしょうか。
自分の中にある弱さと上手に付き合っていく……これもなかなかに難しいことですが……。
今回は節分にちなんで、鬼と煩悩について考えてみました。