肉を食べるということ〜不殺生と肉食〜日本後編

スポンサードリンク

前回、いよいよ日本編に突入したこの連載。

まずは肉食を考える上で重要になる、初期日本仏教の特徴、そして日本の社会にあった神道という信仰の下地に触れました。

今回は神道・朝廷・社会との関わりの中で、日本の仏教は肉食をどのように扱っていったのか、ということについてのお話です。

※前回、日本仏教の特徴、神道の浄と穢を①、②としましたが、構成上、前回を日本編の基礎とし、今回から改めて①〜③とします。

Contents

①日本仏教と肉食

まずはじめに、日本仏教での肉食についてみてみましょう。

仏教伝来当初の戒律

6世紀、飛鳥時代の日本に仏教が伝わります。

ただしこの時は仏像や経典などの仏教の「物」が伝わった程度であったことは前回ご紹介した通りです。

朝廷は仏教が国を護る力を持つと信じて仏教を庇護し、祈祷を行う公務員として僧侶を置きます。

しかし、そこで一つ問題が。

それは、きちんとした戒律がまだ日本に伝わっていなかったということ。

当時の朝廷で僧侶となった人々は、「占察経」というお経に書かれた内容を自分で誓うことで出家とする「自誓受戒じせいじゅかい」という形式で、いわばセルフ出家をしていたのです。

ただしその出家というのは仏教の説く自制と規律に基づいた生活を行ったわけではなく、受戒としては不完全な部分があったことは認めざるを得ません。

日本に伝わった戒律と肉食

そこで本格的にちゃんと戒律を授けてくれる僧侶にきてもらおう!ということで中国から招かれたのが鑑真和上がんじんわじょうでした。

鑑真和上が伝えた戒律はインド編で登場した四分律しぶんりつの流れを汲むものでした。

殺生が禁じられる一方、条件はあるものの肉食が認められていたインドの戒律、「四分律」。

中国にこれが伝わる際、インドの文化ありきで説かれたこの戒律を中国で護るには、改めて中国の土壌に合った形に再編集する必要がありました。

中国編で触れたように、仏教は中国で初めて明確に肉食が禁止されました。

そしてこの「四分律」にも肉食禁止が加わえられ、編集されたものを、鑑真和上は日本に伝えました。

つまり、鑑真和上が日本に伝えた戒律では肉食が禁止されていたのです

また、その少し後に、同じく肉食禁止の戒律が説かれる「梵網経ぼんもうきょう」が伝わり、日本仏教では平安時代までの間は、肉食が禁じられた中国仏教の2つの戒律が中心になっていきます。

日本仏教最初の戒律では肉食が禁止された、というのは非常に大きな特徴です。

②日本の肉食忌避の源流

もともと、日本では肉食が親しまれ、様々な食文化を生み出しました。

しかし、仏教伝来と共に、朝廷や貴族を中心に、徐々に神事・仏事に合わせて肉食を避けたり、完全に肉食を辞める人まで現れ始めます

そして、戒律が伝わると、肉食をしてはいけない立場・日にちなどが法律として定められるようになっていくのです。

それでは、この肉食を避けるという習慣は、仏教伝来によって生まれたものなのでしょうか。

従来、日本の肉食忌避は、不殺生戒の影響であると言われてきました。

しかし最近では、民俗学や食文化の専門家の方の間で、日本には仏教が入ってくるより以前から、肉食や飲酒を控えていた習慣があったと考えられるようになりました

これは明確な資料には乏しいようですが、飢饉や干ばつ、疫病など、自然からもたらされる災厄を、当時の人々は神の怒りだと考えたことによります。

当時、お肉は神様へのお供え物ににもする、自然からいただくご馳走です。

そこで肉食を断つことは、贅沢を断って神様の怒りを鎮める「謹慎」という意味合いが強かったようです。

さらに、戒律が伝わる前から、僧侶は朝廷から肉食を禁止されています。

これらを合わせて考えてみると、日本の肉食禁止の源流は仏教だけでなく、神道やアミニズム的な考え方などが混交したところにあると言えるのではないでしょうか。

③不殺生戒と穢れ

また、仏教が肉食とそのための屠畜に対して影響を与え出すのは、伝来から少し時が経った平安時代になってからです。

平安時代、日本は地震や疫病、戦に見舞われるなどの動乱の時代を迎えます。

そして天台宗の中で、死んだら極楽浄土に生まれたいという「浄土思想」が登場します。

この頃から神道の「浄と穢」の概念は社会の中で一気に強くなります。

穢れに触れれば浄土に行けずに地獄に堕ちる、そうした思想が古来からあった謹慎や不殺生と混ざり合い、朝廷から貴族、庶民に浸透していくのです。

さらに、それまでは穢れに含まれていなかった動物も含め、四つ足獣全体を穢れの対象とし、肉も避けるようになっていきます。

まずは貴族階級の人々が、屠畜解体や食肉・皮革の加工が目に触れたり、近くで行われることを避けるようになり、そうした作業は特定のエリアに追いやられていきます。

それによって今度は庶民の間でも、同じような価値観が生まれていくのです。

するといつしか、屠畜や漁業に関わっている人々は穢れに触れる存在として扱われるようになり、浄土思想の中で往生ができない存在として説かれるようになるのです。

こうして社会の動揺の中で仏教の不殺生戒と穢れの概念が混ざり、のちの差別に繋がる下地が少しずつ出来上がっていったのです。

まとめ

日本では、その時代の社会情勢、朝廷の権力、外国の状況など、様々な要因が神道や仏教と複雑に絡み合いながら、食文化や芸術を創りだしてきました

肉食の忌避もその一つです。

神様の怒りを鎮める謹慎として始まり、そこに仏教が伝来して、神道が形を明確にしていく中で「浄と穢」が強くなっていきました。

社会の動揺が激しい時代ほど、人々は神仏を頼り、その歪みよって特定の人々に理不尽な穢れという立場を背負わせることになります。

今回ここで触れることができたのは、日本の歴史のごく一部で、もっともっと調べるべき要素はたくさんあります。

それでも、今私がお伝えできる中で抑えていただきたいことは

・古くから、様々な厄災に対する謹慎という形で肉食を控える習慣があった

・中国仏教の戒律を引き継いで肉食が禁じられた

・仏教、神道、社会、政治、文化など、様々な要素が混ざり合いながら、肉食のタブー視が生まれた

という3点です。

そして一方で、今後の課題も見えてきます。

一つは、科学が発達していなかった時代の価値観の歪みから生まれた、屠畜や漁業への差別や攻撃が現代も続いていること。

もう一つは、これからの日本で、私たち曹洞宗の僧侶は肉食とどう向き合うか、ということです。

インド・中国・日本の仏教の不殺生と肉食の関係をみてきたこの【肉を食べるということ〜肉食と不殺生〜】。

次からはまた新たな課題に取り組んでいきます。

 

肉を食べるということ〜肉食と不殺生〜完

 

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事