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11月6日に禅活チャンネルで公開した、5分法話「人の死をどう受け止めるか」。
今回は、その原稿を公開し、動画では語り切れなかった反省点をピックアップしていきます!
Contents
起
私たち人間にとって、「死」というテーマは重大で、深刻なものです。
誰も経験したことがないはずなのに、
自分の死はおそろしく、
他者の死の場合はその方が身近であればあるほど重く、苦しく、心に突き刺さってきます。
この「死」という得体のしれないものについて、
私がお話しできることは「人の死を自分自身がどう受け止めたか」ということです。
そこで今回は、私が僧侶として人の死から学んだことをお話しさせていただきます。
承
今年5月のこと、友人から1本の電話を受けました。
「おお、智照。悪いね。親父なんだけどさ、どうも危ないみたいなんだ。
今日明日の話ではないようだけどね。でさ、どうなるかはわかんないんだけど、
もし亡くなったときには葬儀をつとめてくれるか?」
「ああ、オレでいいなら、勿論。」
そんなやり取りを交わして数時間後、「亡くなった」という連絡が届きました。
私自身もそのお父さんからお世話になっていたということがあり、
急な知らせに気持ちの整理がついていませんでした。
急いでご葬儀の準備を進めて、迎えたお通夜の日。
新型コロナの影響も考慮して、連絡も最小限にとどめ家族と近しい親類だけで送るというお話でしたが、
会場には多くの方が弔問に訪れていました。
聞けば、弔問に訪れた方々の多くが、故人の教え子であるとのことでした。
友人のお父さんは教員として定年退職まで勤め上げた方で、
かつての生徒たちが口づてに訃報を聞き、駆けつけてきたそうです。
それぞれが口々に感謝の言葉を述べ、ひたすらに思いを込めてご焼香をされていく姿を見つめながら、
私はその様子を、お釈迦さまが亡くなられた時のお姿に重ね合わせていました。
転
お釈迦さまが亡くなられるときの様子を記した、『仏垂般涅槃略説教戒経』というお経があります。
遺経また遺教経とも呼ばれ、2月15日の涅槃会や、亡くなった方の枕経で唱えることの多いお経です。
その内容は、死に瀕したお釈迦さまが、残されるお弟子さま方に対して最後の説法を行うというものです。
お釈迦さまは、そのお命が尽きようとしている最後の最後まで、お弟子さま方に教えを伝えようとなさいました。
お経の最後はこのように結ばれます。
「汝等、且く止みね。復た語ること得ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す。
我滅度せんと欲す。是れ我が最後之教誨する所なり。」
これはすなわち、
「弟子たちよ、静かにするがいい。もはや言葉を発してはいけない。
時はまさに過ぎ去ろうとしている。私はここで死を迎える。これが私の最後の教えである」
というお諭しです。
ここでお釈迦さまがはご自身の死を通して「いのち」のあり方を説かれたのだと私は思います。
結
私が、友人のお父さんの葬儀に、お釈迦さまのご最期を重ね合わせていたのは、
その教えを受けた方々は、きっとこれからも受けた教えを胸に、
日々を生きていかれるのだろうと感じたからに他なりません。
亡くなったその人の生きざまや教えが、残された人の胸に宿り、そして人生を生きる支えとなっていく。
これは人の「死」のひとつの真実の姿ではないでしょうか。
だとすれば、人の死を考える際に大切なことは、
死んでどうなるかということ以上に、どのように生き、
どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか。
それは友人のお父さんだけでなく、私自身に問われていることでもあります。
今回は「人の死をどう受け止めるか」についてお話をいたしました。
ご清聴ありがとうございました。
反省点①
それでは、反省に参りましょう。
一つ目はこちら。
「人の死を考える際に大切なことは、死んでどうなるかということ以上に、
どのように生き、どんな教えを残すかだと言えるのではないでしょうか」
法話の中でいうと「結」にあたる部分で用いた表現です。
特に、「死んでどうなるかということ以上に」という部分。
ここは別の表現が必要だと思いました。
ここの何が反省点であるのかというと、
周知の通り、日本の仏教には浄土信仰があります。
死後、極楽浄土へ行くことを大切にしている人にとって、
この一文は自分の信仰を軽視されたように思えてしまうのではないか、と感じました。
もちろん、私自身にそのような意図はなかったのですが、安易な比較は危険だと気が付きました。
伝えたいことを強調するために、別の何かと対比するということは、普段何気なく行ってしまうことだと思います。
しかし、どちらかを上げるということは、どちらかが下がるということに繋がります。
それが、決して意図しないものであっても、下げられてしまった方は傷ついてしまうかもしれません。
また、曹洞宗でも、決して死後を軽視しているわけではありません。
この点についても誤解を与えかねない表現だと思いました。
反省点②
今回は、原稿をもとに法話をいたしましたが、
書き言葉をそのまま話しているせいか、ぎこちなさが目立ちました。
原稿作成の際、なるべく話し言葉に近づけるようにと気を付けてはいましたが、
どうしても違和感があったと思います。
聞く、ということはかなり負担になる行為なので、
法話という決して短くない時間を「聞いていただく」ためには、もう少し工夫が必要だったと思います。
おわりに
これまでにもいろいろな場所で法話をさせていただきましたが、
動画での法話にはまたひとつ工夫が必要だと感じました。
ご視聴いただいている皆さま、いつもありがとうございます。
次回は、しんこうさんの回になりますが、そちらもどうぞお楽しみに。
それでは!